銀髪騎士と市場デート
朝の中庭は、まだ冷たい空気が残っていた。石畳に落ちる影が長く、風が通るたびに、干した洗濯物が小さく鳴る。
イルフェルミナは、籠を腕に抱えたまま、何気ない調子で言った。
「今日、麓の市場に行こうと思うの」
その言葉に、ミカエルは反射で顔を上げた。
「……はい。お供します」
即答だった。間を置かない。迷いもない。自分でも驚くほど、身体が先に動く。
イルフェルミナは一瞬目を丸くして、軽く首を傾げる。
「別にひとりでも平気よ?」
その声は柔らかい。否定ではなく、ただの確認。けれどミカエルにとっては、胸の奥をくすぐるような問いだった。
「……心配です」
ミカエルは、視線を逸らしたまま言った。
「念のため……ついていきます」
「念のため、ね」
イルフェルミナは、くすりと笑った。からかうでも、試すでもない、ただの微笑み。なのに、それだけでミカエルの心臓が一段うるさくなる。
ちょうどその時、孤児たちがわらわらと集まってきた。朝の空気の冷たさなんて気にしない、元気の塊みたいな子どもたちだ。
「ミカエルにいちゃん、行ってらっしゃーい!」
「またイル姉ちゃんと一緒ー?」
「絶対、旦那さんだよね!」
「夫婦だ! 夫婦!」
「ち、違いますっ!」
ミカエルは思わず声を荒げた。否定の勢いが、逆に怪しい。耳まで赤い。肩も、ほんの少しすくんでいる。
イルフェルミナは、子どもたちを軽く見下ろして、呆れたように笑う。
「もう。あなたたち、からかいすぎ」
叱る口調のはずなのに、声音は甘い。子どもたちはそれを“許可”だと受け取って、さらに調子に乗る。
「でも、ミカエルにいちゃん、今日もイル姉ちゃんのこと見てたよ!」
「守ってるもんね!」
「いや、それは……」
ミカエルが言い訳を探して口を開いた瞬間、イルフェルミナがふわりと歩き出した。
「さ、行くわよ」
「……はいっ」
置いていかれるのが怖くて、ミカエルは慌てて後を追う。子どもたちの笑い声が背中に刺さるみたいで、恥ずかしいのに、どこか温かい。
少し離れた場所で、年長の子どもたちが、こそこそと囁き合っていた。
「……あれ、ミカエル兄ちゃんだけ意識してるよな」
「イル姉ちゃんは通常運転だし」
「前途多難だな」
「……頑張れよ、兄ちゃん」
その“応援”が聞こえていないのが、ミカエルの救いだった。
麓の街に降りる道は、緩やかな坂道だった。遠くに見える屋根の群れが少しずつ大きくなり、風に混ざる匂いが変わっていく。森の匂いから、焼き菓子と肉の匂いへ。土の匂いから、石と鉄の匂いへ。
市場は、朝から既に賑わっていた。布屋の色鮮やかな反物。果物の甘い香り。香辛料の刺激。子どもの泣き声と、笑い声。商人の張り上げる声。
「わあ……」
イルフェルミナは、思わず息を吐いた。その横顔は、普段より少しだけ柔らかい。目が、楽しそうに光っている。
ミカエルは、その顔を見ただけで胸が熱くなり、同時に焦った。
(……見惚れるな)
見惚れた瞬間、隙になる。隙になった瞬間、守れなくなる。自分に言い聞かせるように、ミカエルは周囲を警戒する。視線を走らせ、人の流れを読み、危険の匂いを探す。
イルフェルミナが布屋の前で足を止めた。
「この色、可愛いわね」
指先で布に触れる。白い指が、鮮やかな染めの上を滑る。ミカエルは、その手元を見て、胸の奥がざわついた。
(……触れたい)
布に触れるその指に、触れたい。意味もなく、理由もなく。触れてしまえば壊れる距離感だからこそ、欲しくなる。欲しいのに、許されない。
その瞬間、後ろから人波が押し寄せた。
「すみません、通りますよ!」
肩がぶつかる。体勢が崩れる。ミカエルは反射でイルフェルミナを庇おうとして、手を伸ばす。
しかし、手が届く前に彼女はふっと人波に流れ、視界の端から消えた。
「……っ!」
胸の奥が冷たくなる。
「イルフェルミナ……!」
声が自分のものじゃないみたいに掠れた。市場の喧騒にかき消されそうなほど小さいのに、ミカエルの世界では雷みたいに響いた。
人、人、人。背丈の違い。荷物。旗。屋台の煙。視界を遮るものだらけで、彼女が見えない。
(……まずい)
喉が乾く。息が浅い。足元が浮く。たった数秒。なのに、恐ろしく長い。
一方でイルフェルミナは、少し離れた場所で立ち止まっていた。
「……あれ?」
振り返っても、ミカエルがいない。
「はぐれちゃったわね」
困ったように笑う。その表情は落ち着いている。大丈夫な人の顔。大丈夫なふりが上手な人の顔。ミカエルが一番怖い種類の“平気”だ。
その時だった。
「お嬢ちゃん、可愛いねぇ」
酒の匂いがした。まとわりつくような、甘く腐った匂い。
赤ら顔の男が、ふらふらと近づいてくる。
「一杯どうだい? 退屈してるだろ?」
「結構です」
イルフェルミナは即座に答えた。声は冷静。目は澄んでいる。拒絶に曖昧さがない。
だが男は引かない。むしろ、それを面白がるみたいに距離を詰めた。
「つれないなぁ。こんな可愛いのに」
手が伸びる。
その瞬間。
「――そこまでです」
低い声が空気を割った。
男の腕が、がしりと掴まれる。力に逃げ道がない掴み方だった。骨を痛めないぎりぎりで、ただ“逃げられない”と分からせる。
「……痛っ!? な、なんだよ!」
男が振り向いた先にいたのは、ミカエルだった。
いつもの穏やかさが消えている。表情が凍っている。目が、冷えている。怒りというより、判断の刃。危険を排除するだけの目。
「彼女は迷惑しています」
淡々とした声。余計な言葉がない。
「……離してくれよ!」
「離します」
ミカエルは腕を放した。しかし次の瞬間、男がまた手を伸ばそうとしたため、ミカエルは一歩だけ前に出た。距離を潰す。影で覆う。威圧が、言葉より先に伝わる。
男は顔色を変えた。
「……わ、わかったよ!」
舌打ちしながら、ふらふらと逃げていく。
イルフェルミナは呆気に取られたまま、ミカエルを見上げた。
「……ミカエル」
呼ばれた瞬間、ミカエルの肩がぴくりと震えた。自分が“危険な顔”をしていたことを思い出したように、慌てて視線を落とす。
「……すみません」
深く頭を下げる。
「私が……目を離したせいで……はぐれてしまい……」
息が、少し乱れている。謝罪の言葉が、綺麗に並んでいるのに、感情は隠しきれていない。怖かった。焦った。失いたくなかった。全部が、声の端に滲んでいた。
「危ない思いをさせてしまいました」
「大丈夫よ」
イルフェルミナは、穏やかに言った。責める気配はゼロだ。むしろ、彼の焦りをなだめるような声。
「ちゃんと来てくれたじゃない」
その一言が、ミカエルの胸をきゅっと締めつけた。
(……来てくれた、じゃない)
(来たんだ)
(来るしかなかった)
言葉にはできない。言葉にしたら、壊れる。だからミカエルは、喉の奥でその衝動を噛み砕く。
「……はい」
そう答えた拍子に、無意識に一歩近づいた。
抱きしめたい。
ここで抱きしめたら、彼女の体温が自分のものになる気がする。安心してしまう気がする。安心した瞬間に、もっと欲しくなるのが分かっている。だから危険だ。
ミカエルは、手を伸ばしかけて止めた。
指先が宙を彷徨い、結局、握りしめられる。拳の中に、衝動を閉じ込める。
「……戻りましょう」
声が少し硬い。自分で自分を縛る声。
「ええ」
イルフェルミナは、何も気づかないまま頷いた。
その無自覚が、ミカエルには甘くて苦い。
少し離れた場所で、その一連を見ていた男がいた。
領主の代官。街の秩序を守る側の人間。だからこそ、“異物”には敏感だった。
(……今の動き)
ただの護衛ではない。訓練された者の身のこなし。怒りを見せずに威圧だけで制圧するやり方。
代官の視線が、ミカエルの外套の隙間に吸い寄せられる。
風が吹いた。
外套の端がめくれた。
一瞬だけ、光が走る。
――銀。
銀色の髪が、陽に反射して、刃のように煌めいた。
代官の顔色が変わる。
(……銀髪)
(まさか)
この地方に伝わる話が、頭の中で繋がっていく。名。立場。血筋。戦場。噂。生き残り。
(……違う、はずだ)
(そんな人物が、こんな場所にいるわけが……)
だが“見てしまった”以上、なかったことにはできない。
代官は静かに、帽子を深くかぶり直した。
(……報告するべきか)
(いや、下手に動けば……)
判断を迷わせるほどの圧が、あの銀髪の青年にはあった。
そして当の二人は、そんな視線も知らずに歩いていく。
ほんの少しだけ近い距離で。
ほんの少しだけ、ぎこちなく。
イルフェルミナは買い物袋を持ち直し、ミカエルは無言でその半歩後ろを守る。
守っているつもりで、実は自分の心臓を守っている。
追いつきたいのに追いつけない、追いついたら壊れる。
その矛盾が、今日もミカエルを静かに焼いていた。




