第4章「国家と報道の断絶線」
翌朝、永田町。霞が関の地下にある旧庁舎の防音会議室に、外務省、公安調査庁、内閣官房、そして首相補佐官クラスの数名が集められていた。議題は、未明に全国紙「日報」が配信した号外記事——「亡国の作戦記録:CIAと日本の影」についての対応である。
その中には、かつての外務省中東課長・久保茂樹の実名証言、渋沢健吾の関与を示唆する記録、そして“フェニックス計画”と呼ばれる極秘作戦の断片的な記述が含まれていた。
「まさか……ここまで曝露されるとは」
公安調査庁の佐伯拓真は、眉間に深いしわを寄せたまま黙っていた。彼は渋沢と非公式な接触を続けており、渋沢の情報網のいくつかを国内防諜に活用してきたという過去を持つ。つまり、この危機は自業自得でもあった。
外務省の国際情報局長が口を開いた。
「報道機関は、国家機密を盾に免責されてきた。しかしこれは——国家機密を暴露すること自体が目的となっている」
首相補佐官が重々しく言う。
「記者に、そこまでの動機があると考えていなかった。それが誤算だったということだ」
一方、三国誠一は編集部の自席で、今後の続報記事の方向性についてメモを走らせていた。森田智子が静かに近づいてきた。
「三国さん、官邸クラブから連絡です。政府が公式に“遺憾”の意を表明するそうです」
「そりゃそうだろうな」
三国はタバコをくわえながらも火はつけなかった。デスクの上には河本雄也の遺したノート。そこには無数の書き込みがあり、1ページごとに異なる情報源が、慎重に裏取りされて記録されていた。
その日午後、「日報」本社で緊急編集会議が開かれた。社主、編集局長、論説委員長、法務部、そして三国。
「この件、政府側から正式に抗議が来るでしょう。下手をすれば記者クラブへの出入り制限がかかる可能性もある」
「だが、事実だ。我々は虚偽を報じたわけじゃない」
三国の言葉に誰も反論しなかった。
「河本の原稿、俺が最初に読んだとき思ったんだ。こんな記事、誰が通すんだって。だが、あいつは通した。自分の人生ごと、ぶち込んでな」
会議室の空気は重たく、だが何かが動き始めたような緊張感が走っていた。
その夜、森田は資料室で旧新聞記事のアーカイブに目を通していた。河本が書いた、過去の連載「中東と日本外交」。そこに書かれていたのは、数年前からすでにZahraという名を伏線として埋め込んでいた“計画された取材”の痕跡だった。
「情報は断片ではない。線になる。歴史になる」
彼の一節が、森田の心を強く打った。
——そして、その晩、渋沢健吾が姿を消した。
公安の佐伯は翌朝、「所在不明」とだけ発表したが、関係筋によれば、出国管理庁の監視カメラが最後に捉えた渋沢の姿は、東京湾フェリーターミナル。彼がどこへ向かったのかは依然として謎だった。
数日後、ニューヨーク・タイムズが河本の原稿を英訳して掲載。国際的に“Truth Martyr(真実の殉教者)”として報道された。
日本国内では、政界が大揺れとなり、外務省の幹部2名、公安調査庁の次長が辞任に追い込まれた。だが、フェニックス計画そのものの立件には至らなかった。文書はすべて「証拠不十分」として処理され、報道内容の信憑性だけが独り歩きする形となった。
ある夕暮れ、三国は静かに多磨霊園を訪れた。河本の墓前に立ち、彼が遺したジャーナリスト魂の断片と対話していた。
「君の見た地平は……俺には遠すぎた。けどな、少なくとも俺は、君が何を見ていたのかを世に伝える役目を果たしたつもりだ」
墓石の下にそっと置かれたノート。その表紙に書かれた一文。
『記者とは、国家の嘘を照らす灯台であるべきだ』
森田が書き残した一節だった。
三国は空を見上げた。雲ひとつない、秋の高空だった。
国家と報道。その断絶線の上に、なおも立ち続ける覚悟を、三国はあらためて胸に刻んだ。
(第5章へ続く)