第2章「対局者たち」
東京・赤坂のアメリカ大使館。その地下にある非公開の応接室に、三国誠一は通された。厚手のドアが閉まり、空調の低い音が響く部屋には、米国国務省のエンブレムが金色に光る。
向かいに座るのは、フィリップ・カークランド。現駐日アメリカ大使館の政務担当公使であり、かつてはCIAのアジアオペレーターだった男だ。
「ミスター三国、久しぶりですね。お元気そうで何よりです」
「皮肉ならやめてくれ。俺はあんたのように“表情の裏を読ませる”プロじゃない」
カークランドは笑いもせず、机の上に一枚の文書を滑らせた。それは、1990年代初頭に中東で交わされた兵器取引に関する、極秘メモランダムだった。
「これを誰が持ち出したか、見当はついていますか?」
三国は視線を落としながら、眉間にしわを寄せた。そこには、ある日本人記者の名前が記されていた。——河本雄也。
「彼がこの文書を手に入れたのか……?」
「正確には、渋沢経由です。しかし、それだけではない。彼は、別ルートからも近づいていました。ある中東筋——過激派ネットワークの理論家とも接触していた」
三国の中に、ひとつの仮説が立ち上がった。河本は渋沢に操られていたのではない。むしろ、その裏をかこうとしていたのではないか?
「なぜ、あんたが俺にこれを?」
「渋沢を止められるのは、あなただけだからです」
カークランドは初めて、声にわずかな感情を乗せた。抑えきれぬ焦燥、それとも恐怖か。
「奴は情報という手段で、国家すら操作しようとしている。CIAを辞してからの彼は、自由すぎる。倫理も、忠誠も、もはや彼には意味をなさない」
「だが……俺に、何をしろと?」
「渋沢の流す“最後の嘘”を止めてください。でなければ、あなたの部下——河本は、ただの裏切者として潰されるだけです」
三国は唇を噛んだ。
編集部に戻ると、森田智子が待っていた。
「おかえりなさい。河本さん、今日は早退したそうです」
「どこへ行ったか、わかるか?」
「官邸記者クラブのほうに顔を出してたって、誰かが……」
三国は即座に内線電話を取った。「日報」の社会部OBで、現在はフリーで動いている元記者・久保茂樹に繋ぐ。
久保はかつて、外務省中東アフリカ局に出向し、「イラン・コントラ」関連の文書管理に関わっていた男だった。
「久保さん……河本と、最近会いましたか?」
受話器の向こうで、間があった。
「お前には……見えてるか? 戦後日本の報道ってのは、ずっとアメリカの背中を見て歩いてきた。その中で記者ってのは、どこで線を引くべきか、分からなくなるんだ」
「久保さん……?」
「河本は、国家の嘘を暴こうとしていた。だが奴が相手にしていたのは国家じゃない。情報そのものだ」
「どういう意味です?」
「奴は、“誰も操作できない情報”を探していた。情報源に忠実なふりをして、逆に情報そのものの支配構造をあばこうとしてた」
電話が切れた。
三国は受話器をゆっくりと置いた。
彼の机の上には、河本が残したアラビア語と英語混じりの未発表の取材メモがあった。そこには、「Operation Phoenix」「Kabul Channel」「Zahra」という文字が繰り返されていた。
森田が後ろから声をかけてきた。
「三国さん、これ……編集会議の録音、机に置いてありました」
そのテープには、河本の声が残されていた。
——“俺は、渋沢を告発する。だが、その前に証拠を確保しなければ意味がない。情報は、命より重い。俺は、それを証明する”
その夜、三国は自宅の小さな書斎で、久々に新聞記者としての血が脈打つのを感じていた。
誰かが嘘をつき、誰かがそれを暴こうとしている。
その狭間で、真実は静かに、息を潜めている——
(第3章へ続く)