第1章「情報の値段」
締め切り時間が迫る編集部の空気は、まるで火薬庫のようだった。記者たちはパソコンに向かって一心不乱にキーボードを叩き、校閲部の早見は鉛筆を唇にくわえながらゲラに目を通している。
そんな中、三国誠一は一本の電話に呼び止められた。
「三国さん、電話よ」
声をかけてきたのは、政治部の若手、森田智子だった。まだ新人の彼女は緊張した面持ちで受話器を掲げていた。
「今はだめだ。夕刊の締め切りまで30分を切っているんだ。後にしてくれって言ってくれ」
「それが……急ぎの用事で、なんでも高岡さんからの照会だって言っているわよ。でも締め切りのほうが優先よね」
高岡。その名前に、三国は一瞬、心臓を突かれたような感覚を覚えた。冷静さを装いながらも、彼は一歩前へ出た。
「ちょ、ちょっと待って。わかった。すぐに出るよ。そのままつないでくれるかな」
「え、大丈夫なの、夕刊」
「ああ。そうだ、早々君、前から一度校閲してみたいって言ってたよね。いいチャンスだ。今日の夕刊、まかせるよ」
「ええ、私に?そんな……急に言われても。私、心の準備ってものがあるし、いきなり一人でやるの?」
「いやならいいんだよ。そうそう、こういう仕事はまわってこないぜ」
「わ、わかったわよ。やらせていただくわ。それにしても急ね」
三国はやりかけの原稿を彼女に託し、電話を取った。
「三国です」
受話器の向こうから、抑揚のない、まるで音声合成のような声が返ってきた。
「渋沢です」
その名を聞いた瞬間、三国の背筋に冷たいものが走った。
「買い付けに応じてくれたんですね」
「いえ、まだ売買契約を締結するかは未定です」
三国は深く一呼吸置いて、問い返す。
「それなら、どういう要件で電話をしてきたんですか」
受話器の向こうに、沈黙が流れた。
「買い付けに応じる前に、ひとつ頼みがあります」
「はっきりと言ってください」
その言葉にかぶせるように、渋沢は言った。
「ある新聞記者を始末したいんです」
三国はその言葉に、危うく受話器を取り落としそうになった。
「始末とは……物騒な話だ。私は人を傷つけるようなことをするつもりはない。ましてや人殺しなど……」
「いやいや、誤解しないでいただきたい。始末というのは、社会的に抹殺するという意味です。その記者は、私から得た情報で多額の金を、ある筋から手に入れた。いわゆるアングラ情報を使ったゆすりです。情報をどのように使おうが、もちろん私には関係ない」
渋沢はそこで一息つき、続けた。
「だが、私をゆするとなると話は別です。その相手は、ゆすった相手からの申し入れで情報源を明かしました」
三国の思考が一瞬、凍りついた。記者が、情報源を明かした?そんな背信がありうるのか。
「それで、そいつを社会的に——つまり、報道記者として抹殺する、と」
「そのとおりです」
「どうやって」
「ニセの情報を流します」
「だが、すでにあんたの正体をあばこうとしているわけだろう?あんたから流される情報など、もう信用しないはずだ」
「そのとおりです。だから、あなたの助けが必要なのです」
再び、重い沈黙。
そして、低く重い声が響いた。
「イエスですか、ノーですか」
三国は沈黙した。
「わかりました。話は以上です。もう連絡することもないでしょう」
三国は慌てて言った。
「ま、待ってくれ。わかった。とにかく話を続けてくれ。それで、その記者というのは、一体誰なんだ」
「あなたのよく知っている人物です」
「俺がよく知っている人物?」
「河本さん。あなたのデスクです」
三国の視界が、一瞬白くなった。
河本——あの、誰よりも冷静で、有能で、そして記者魂の強い男。
まさか、彼が情報源を売った?金で?そんなはずは——。
だが、渋沢の語った内容は、すべてが詳細だった。嘘ではない。
三国は椅子にもたれかかり、天井の蛍光灯を見つめた。まるでその光が、自らの倫理の深部を問うているようだった。
果たして、自分はこの申し出を拒絶できるのか。
情報という名の蛇が、ゆっくりと三国の心を締め上げていた。