表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/5

第1章「情報の値段」



 締め切り時間が迫る編集部の空気は、まるで火薬庫のようだった。記者たちはパソコンに向かって一心不乱にキーボードを叩き、校閲部の早見は鉛筆を唇にくわえながらゲラに目を通している。


 そんな中、三国誠一は一本の電話に呼び止められた。


「三国さん、電話よ」


 声をかけてきたのは、政治部の若手、森田智子だった。まだ新人の彼女は緊張した面持ちで受話器を掲げていた。


「今はだめだ。夕刊の締め切りまで30分を切っているんだ。後にしてくれって言ってくれ」


「それが……急ぎの用事で、なんでも高岡さんからの照会だって言っているわよ。でも締め切りのほうが優先よね」


 高岡。その名前に、三国は一瞬、心臓を突かれたような感覚を覚えた。冷静さを装いながらも、彼は一歩前へ出た。


「ちょ、ちょっと待って。わかった。すぐに出るよ。そのままつないでくれるかな」


「え、大丈夫なの、夕刊」


「ああ。そうだ、早々君、前から一度校閲してみたいって言ってたよね。いいチャンスだ。今日の夕刊、まかせるよ」


「ええ、私に?そんな……急に言われても。私、心の準備ってものがあるし、いきなり一人でやるの?」


「いやならいいんだよ。そうそう、こういう仕事はまわってこないぜ」


「わ、わかったわよ。やらせていただくわ。それにしても急ね」


 三国はやりかけの原稿を彼女に託し、電話を取った。


「三国です」


 受話器の向こうから、抑揚のない、まるで音声合成のような声が返ってきた。


「渋沢です」


 その名を聞いた瞬間、三国の背筋に冷たいものが走った。


「買い付けに応じてくれたんですね」


「いえ、まだ売買契約を締結するかは未定です」


 三国は深く一呼吸置いて、問い返す。


「それなら、どういう要件で電話をしてきたんですか」


 受話器の向こうに、沈黙が流れた。


「買い付けに応じる前に、ひとつ頼みがあります」


「はっきりと言ってください」


 その言葉にかぶせるように、渋沢は言った。


「ある新聞記者を始末したいんです」


 三国はその言葉に、危うく受話器を取り落としそうになった。


「始末とは……物騒な話だ。私は人を傷つけるようなことをするつもりはない。ましてや人殺しなど……」


「いやいや、誤解しないでいただきたい。始末というのは、社会的に抹殺するという意味です。その記者は、私から得た情報で多額の金を、ある筋から手に入れた。いわゆるアングラ情報を使ったゆすりです。情報をどのように使おうが、もちろん私には関係ない」


 渋沢はそこで一息つき、続けた。


「だが、私をゆするとなると話は別です。その相手は、ゆすった相手からの申し入れで情報源を明かしました」


 三国の思考が一瞬、凍りついた。記者が、情報源を明かした?そんな背信がありうるのか。


「それで、そいつを社会的に——つまり、報道記者として抹殺する、と」


「そのとおりです」


「どうやって」


「ニセの情報を流します」


「だが、すでにあんたの正体をあばこうとしているわけだろう?あんたから流される情報など、もう信用しないはずだ」


「そのとおりです。だから、あなたの助けが必要なのです」


 再び、重い沈黙。


 そして、低く重い声が響いた。


「イエスですか、ノーですか」


 三国は沈黙した。


「わかりました。話は以上です。もう連絡することもないでしょう」


 三国は慌てて言った。


「ま、待ってくれ。わかった。とにかく話を続けてくれ。それで、その記者というのは、一体誰なんだ」


「あなたのよく知っている人物です」


「俺がよく知っている人物?」


「河本さん。あなたのデスクです」


 三国の視界が、一瞬白くなった。


 河本——あの、誰よりも冷静で、有能で、そして記者魂の強い男。


 まさか、彼が情報源を売った?金で?そんなはずは——。


 だが、渋沢の語った内容は、すべてが詳細だった。嘘ではない。


 三国は椅子にもたれかかり、天井の蛍光灯を見つめた。まるでその光が、自らの倫理の深部を問うているようだった。


 果たして、自分はこの申し出を拒絶できるのか。


 情報という名の蛇が、ゆっくりと三国の心を締め上げていた。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ