表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

シャーロットのハーブカフェ

作者: みこみこ



 幼い頃は幸せだった。

 私を宝物のように愛しむ母と、そんな母と私を微笑ましく見守る使用人たち。それが、私の小さな世界の全て。

 その小さな世界を形成する絶対的な幸福が失われたのは、いつだっただろうか。

 病に侵された母が、この世を去ってしまった時だろうか、喪があけないうちに、父が再婚し新しい母と妹がやってきた時だろうか、その妹が、父の血を受け継いだ実子だと知った時だろうか。

 男爵令嬢だった継母と父は、若い頃から恋仲で結婚の約束をしていたが、伯爵家の跡取りである父は、政略結婚の相手である私の母と結婚せざるを得なかった。

 父の結婚後も関係を続け、私の腹違いの妹までもうけた二人は、私の母が死ぬことで晴れて一緒になれたのだった。

 そして、長い間日陰の身に甘んじていた継母は、その原因を作った私の母を恨み、母の娘である私を憎んだ。

 まず、継母は私専属のメイドを妹のメイドに配置換えした。そして、私には貧民街から拾ってきたろくに仕事のできないサーシャという少女を充てがった。

 それから、私に勉強とマナーを教えていた家庭教師を妹の家庭教師にした。その後私に新しい家庭教師がつけられることはなく、一冊の本すら与えられることはなかった。

 母の愛で満ち溢れていた私の小さな世界は、みすぼらしく悲惨なものに変わっていった。

 着古したサイズの合わない服と、何度も読み返しボロボロになった子供向けの本。粗末な部屋で食べる硬い黒パンと、具の入っていないスープ。繰り返される義母からの嫌味、妹のいやがらせ、父の無関心。それが、私の世界の全てになった。

 新たな伯爵夫人として社交界に出入りするようになった継母は、私を家庭教師に匙を投げられたまぬけだと吹聴した。

 実際、受けるべき教育をまともに受けていない私は、同年代の少年少女に比べて知能は低かっただろう。それは継母に教育を受ける機会を奪われたせいなのだが、私に弁明する機会が訪れることはなかった。

 こうして、馬鹿でまぬけなシャーロット・ローゼンクランツとして、私の名前は知れ渡ることになったのだった。


 それは12歳の時だった。

 私は屋敷を追い出され、敷地内にある物置で暮らすようになった。

 それは継母による嫌がらせだったのだが、私にとっては嫌がらせでも何でもなかった。

 物置は埃っぽく、決して快適とはいえなかったが、継母や妹の顔を見なくてすむのだから、それだけで私の心は軽くなった。メイドのサーシャに私を見張らせ報告させるつもりでいたようだが、サーシャはいかにして仕事をサボり楽をするかばかりを考えているような子で、好きにさせておけば私のことなどまるでお構いなしだったので、私は何年ぶりかの自由を得ることができたのだった。

 物置の裏にある塀が崩れ、そのまま放置されていることに気づいた私は、そこから屋敷の敷地外へ抜け出すようになった。

 人気のない小道をまっすぐ歩くと、20分ほどで図書館に辿り着く。それは、元は隣にある学校の生徒の為の図書館だったが、数年前に学校が移転した為に今は使われておらず、新しく建てた図書館に入りきらない本を置くだけの場所になっていた。

 表口は施錠されていたが裏口は施錠されておらず、そこから中に入ることができた。乱雑に置かれた本は埃を被っていたが、人の出入りはない。

 思う存分本が読める環境を手に入れた私だったが、受けるべき教育をまともに受けていないせいで、簡単な字しか読むことができない。そんな私が好んで読んだのは図鑑だった。図鑑なら、書かれてある文字の半分も読めなくても絵を楽しむことができる。

 ある時、ハーブ図鑑という本を手にとった私は、その中の1ページに目を留めた。そこに載っているフェンネルという名のハーブを、図書館まで続く小道の道端で見たことがあったからだ。

 そのハーブが生でも食べられるということをかろうじて読み取った私は、帰り道にフェンネルの葉をちぎって口に入れた。甘くスパイシーな香りと独特の苦み。決して美味しくはなかったが、その出来事は私の心を弾ませた。

 ハーブのことをもっと知りたくなった私は、図書館で見つけた辞書と照らし合わせながら、図鑑の解説を読み解くことに熱中した。図鑑の内容が全て頭に入るほど繰り返し読んだ後は、ハーブの本を見つけてはそれを読み知識を深めていった。そうして、いつの間にか習っていない難しい字を読めるようになっていたのだった。

 図書館から帰ると、物置のすぐ隣にある厨房の中を、窓から覗くのが日課だった。

 物置で見つけたハシゴを立てて、高い位置にある窓から覗くと、料理人達の手元がよく見えた。それに、覗いていることを気づかれることもない。

 バラバラの材料から一つの料理が出来上がる様を見るのは楽しかった。父や継母や妹の口に入る、見目麗しい豪華な料理も面白かったが、一番興味をひかれたのはまかないだ。

 余った材料で、いかにして美味しくて腹に溜まる料理を作るか。料理人達は腕の見せ所だと、日々工夫を凝らしながらまかないを作っていた。そしてそのまかないは、私の食事として物置に運ばれてくる。おかげで私は、どの材料を使えばどんな味になるかを、実際に食べて確認することができたのだった。

 

 そんなふうにして4年が過ぎ、私が16歳になってすぐ、私に縁談が持ち上がった。

 突然物置に入ってきた見慣れないメイドに飾り立てられた私は、継母に入ることを禁止されていた庭園のガゼボに連れて行かれ、その男と対面した。

 ジョルジュ・シュナイダー伯爵令息。柔らかそうなアッシュブラウンの髪にペリドットの瞳をした、私より幾つか年上のその男性は、誰が見ても美男子というような整った顔立ちをしていたが、私はそのにやけた笑い顔に嫌悪感を覚えた。

 とりとめのない世間話を一方的に喋り続けた後、ジョルジュ・シュナイダーは、

「あなたに伝えておかなければならないことがあります」

 と、にやけた笑いを引っ込めて言った。

「私には愛する女性がいるのです。その女性アンジェリカとは屋敷で共に暮しており、今後もそれは変わることはありません。あなたにはそれを受け入れて頂きたいのです」

 その時、私は全てを理解した。

 ジョルジュには愛人がいるが、身分的に結婚することは叶わない。身分の釣り合う貴族令嬢を妻に迎えるにしても、この先愛人と一緒に住むならば、妻と愛人との間で諍いが起きることは明白だ。そうなれば、妻の実家である家門との関係も悪化してしまう。

 そこで目を付けたのが、馬鹿でまぬけなシャーロットと呼ばれている私だ。

 社交界で笑い者にされ、デビュタントにすら参加していない私には、この先まともな縁談が来ることはないだろう。そんな令嬢を貰ってやるのだから、愛人のことは目を潰れと言っているのだ。

 何が面白いのか、再びにやけた笑みを浮かべ私の反応を探っていたジョルジュは、とどめを刺すかのようにこの言葉を放った。

「あなたのお父様、ローゼンクランツ伯爵にはすでに許可は頂いておりますよ」

 私は、私にしか聞こえないくらいの小さな溜め息をついた。すでに父の許可を得ているならば、私には選択肢などないのだ。

 それに思ってしまった。もしかしたら、そこはここよりましな所かもしれない。そこにいけば、一人ぼっちではなくなるかもしれないと。

 けれど、私のそんな淡い期待は、直ぐ様崩れ去ることになるのだった。

   


 シュナイダー伯爵邸に嫁いた私は、一人ぼっちではなくなった。

 嫁の教育と称して朝から晩まで小言を言ってくる姑のイザベルと、その後ろを金魚のフンのようについてまわり、同じ様に小言を言ってくる小姑のミケイレ。1日に何度も用事を申し付けてくる夫の愛人のアンジェリカに、私を見下しながらも監視するかのように見張っている使用人たち。

 実家にいた時とは比べものにならない豪勢な食事を口にできるようになったものの、食事の間中嫌味やら自慢話を聞かされるのでろくに味がしない。

 この屋敷の人間たちは、馬鹿でまぬけと評判な私には、何を言ってもいいと考えていているようだった。もしかしたら、私が馬鹿でまぬけせいで、何も理解できていないと思っているのかもしれない。

「あのアバズレのせいで、馬鹿でまぬけな社交界の笑い者を嫁にもらわなければならなくなるなんてね!」

 と私を罵倒しながらも、当のアンジェリカには何も言わない。溺愛する息子に嫌われたくないのだろう。その点私ならば、どんな扱いをしようがジョルジュの機嫌が悪くなることはない。

 こんなことなら、ローゼンクランツ邸の物置にいた方がましだったかしらと思わないではなかったが、遅かれ早かれ父は私を訳ありの相手に嫁がせただろう。そこがここよりましな場所とは限らないのだ。私は馬鹿でもまぬけでもなかったが、ただただ無力だった。


 この屋敷の主であるシュナイダー伯爵は、仕事人間で、いくつもの事業を手がけそれを成功させていた。殆ど屋敷にはいなかったので、私はいつまでたっても顔を覚えることができないでいるくらいだ。

 息子ですら信用できないのか、ジョルジュが事業に関わることを許さず、ジョルジュの方もあくせく働くなどまっぴらごめんだというように、日がな愛人であるアンジェリカと遊び呆けていた。

 シュナイダー伯爵家はこの世を春を謳歌するように贅沢な暮しをしていたが、その世にも美しい春に翳りが見え始めたのは、私が嫁いでから1年が経った頃のことだ。

 外国で買い付けた商品を乗せた商船が沈没し、シュナイダー伯爵が運営する商団は莫大な損失を被ることになった。その損失を埋めようと焦った伯爵は、普段なら絶対に手を出さない怪しげな投資話に乗り、更に莫大な借金を作った。借金返済の為にまた借金をし、借金はどんどん膨れ上がっていった。その最中、シュナイダー伯爵は突然倒れ、あっけなく亡くなってしまった。

 借金の形に屋敷も家財道具も一切合切を失い、挙句の果てに領地を失い爵位まで失った。

 シュナイダー家に残されたのは、他の家門の領地となった郊外の街にある小さな屋敷だけ。私達は、その屋敷に移り住むことになった。


 街の名前はグリーフィルド。

 王都とは比べものにならないものの、大きな商店街や大聖堂がある美しい街。

 その街を見下ろす高台の上にある、小さな一軒家。

 街全体を見下ろせるのが気分が良いからと、伯爵夫妻がそこに住む老夫婦を追い出してまで手に入れたその屋敷は、資産価値はないと判断され借金の形に取られることはなかった。

 雇った管理人を住まわせ管理をさせていたが、給料の支払いが滞った為に、管理人は数か月前に出ていったそうだ。それでも住んでいる間はきちんと管理をしてくれていたらしく、最低限の家財道具は揃っているし、少し掃除をすれば問題なく住むことができそうだった。

「こんなボロ屋敷に住むなんて、冗談じゃないわよ!」

「もう最悪よ! どうして私がこんな目に合うの!?」 

 イザベルとミケイレのヒステリックな叫び声が、がらんとした屋敷の中に響く。それから、忌々しそうにこちらを見たイザベルが、金切り声を上げた。

「この疫病神!」

 私が嫁いで1年余りで家門が没落したことから、彼らは私を疫病神と呼ぶことにしたようだ。グリーフィルドに向かう馬車の中、何度そう呼ばれなじられたかわからない。

「さっさと掃除をして、食事の支度をしなさいよ!」

 俯いた私は、誰にも見られないように小さく溜め息をついてから、屋敷の掃除を始めた。ローゼンクランツ邸の物置で暮らしていた頃、何もしないメイドのサーシャの代わりに掃除をしていたのでやり方はわかる。

 あらかた掃除が終わると、私は私の唯一の荷物である小さなトランクを持って台所へ向かった。

 鍋にフライパンに包丁。台所には、埃を被ってはいたが道具は一通り揃っていた。食材はなかったが、戸棚の中に食器と使いかけの調味料、それからマッチが置いてあるのを見つけた。

 小さなトランクを開ける。中には僅かな着替えと日用品の他に、じゃがいもとにんじんと玉ねぎ、小麦粉が入っていた。さすがの借金取りも食材までは持っていかなかったようで、厨房の床に捨て置かれて転がっていたのを拾っておいたのだ。

 持ってきた野菜と戸棚の中のコンソメと塩と胡椒を使って、コンソメスープを作る。ローゼンクランツ邸にいた頃飽きるほど厨房を覗いていたので、竈の使い方はわかった。包丁を握るのは初めてだったが、毎日のように窓から料理人の手つきを見いていたおかげで、包丁をどう動かして皮を剥き野菜を切ればいいかが理解できていた。戸棚にあるのが何という調味料でどんな味がしどう使えばいいのかも知っていた。

 こうして私の初めての料理、野菜のコンソメスープが完成したがパンがない。というより、パンを買うお金がなかった。朝から何も食べていないので、スープだけでは腹の虫は収まらないだろう。

(どうすれば……)

 その時、トランクの中の小麦粉が目に入る。小麦粉はまかないの強い味方だ。ローゼンクランツ邸の料理人達も、まかないのかさを増やすために小麦粉を工夫して使っていた。そして、私は毎日のようにそれを見ていたのだ。

 小麦粉に少しの水を加えて捏ねて、小さくちぎったものを鍋に入れていき、再び火にかける。これが腹にたまる上に美味しい。今日の所は何とかなるだろう。

     

 ダイニングテーブルに全員分の食事を用意すると、それを見たイザベルは、

「私にこんな貧乏くさいものを食べろっていうの!?」

 と私を睨みつけ、ミケイレは、

「まるで家畜のエサじゃない!」

 と声を荒げた。

 ジョルジュは舌打ちをし、アンジェリカはつまらなそうに自分の爪を眺めている。けれども、

「食材がこれしかないのです。他に食べものはありません」

 と告げると、全員観念したように食事を始め、最後には額に汗を滲ませながらスープを飲み干していた。

 夜、それぞれが2階にある個室で眠りについたが、私の部屋はなく、団欒室の長椅子で膝を折りながら眠った。

 次の朝も同じメニューを作り、皆がそれを平らげた。けれども、もう食材がない。食材を手に入れる為にはお金がいる。私は、街へ行き仕事を探すことに決めた。

 長く緩やかな坂道を下り、幾段もある長い階段を降り、街に足を踏み入れる。

 様々な店が並ぶ商店街はどこまも続いていて、これなら私を雇ってくれる店が一軒くらいはありそうな気がした。けれども現実はそんなに甘いものではなく、一日中街を歩き回ったが、私を雇ってくれる店は見つからなかった。働いた経験のない17歳の少女の労働者としての価値は、私の想像より遥かに低かったのだ。

 けれども、店の店主達は私に酷い態度をとったわけではない。みな申し訳なさそうに眉を下げながら、うちでは雇えなかいがきっと良い働き口が見つかるよと励ましてくれた。この街の商店街で働く人々は、みな気さくな良い人達なのだ。

 気を取り直して歩き続けたが、気がつくと商店街の端まで来てしまっていた。その時、その端にある店の看板が目に入る。

『ナターシャのハーブ店』

(ハーブ……)

 店のガラス戸から中を覗くと、奥にあるカウンターの前で、腰に手を当てながらしゃがみ込み、苦しそうに顔を歪めている老婦人の姿が目に入った。咄嗟に店に入り、老婦人に駆け寄る。

「大丈夫ですか?」

 痛みを堪えるように歯を食いしばりながら、老婦人が私を見上げた。

「ああ、可愛らしいお嬢さん。腰をやってしまってね、悪いが手を貸してくれないかい?」 

 壁際にあった椅子を運んで、老婦人を支えながら椅子に座らせる。「アイタタタ」と何度も呻きながら、やっとの思いで椅子に座った老婦人は、弱々しい声で私に礼を述べた。

 その時、カウンターの後ろの壁に備え付けられた、大きな棚が目に入る。その棚に整然と並べられた、幾つものガラス瓶。そのガラス瓶の中には、色とりどりの乾燥させた植物の花穂や茎や葉が入っていた。

(これって……!)


 その時、カランカランという音で我に返った私は、店のガラス戸に目をやる。店に入ってきたエプロン姿の中年の女性が、椅子に座った老婦人を見て驚いたように目を見開いた。

「ナターシャさん、どうしたんだい?」

「ああ、ハンナさん。ちょっと腰をやってしまってね。通りがかりのこのお嬢さんが手を貸してくれたんだよ」

「そうなのかい? 親切なお嬢さんだね。いつもの薬草を買いにきたんだけど、出直したほうがよさそうだね」

「気にしないでおくれ。持病みたいなものなんだから。ところで、いつもの胃の不調に効くブレンドでいいのかい?」

「そうだよ。いつものようにこれに詰めておくれ」

 ハンナと呼ばれた女性が、大きめのガラス瓶をカウンターの上に置く。

「ああ。カモミールとペパーミント、それからレモングラスだったね」

 そう言って立ち上がろうとしたものの、「いたたた」と顔を歪めながら再び椅子に座る老婦人。私は堪らず声をかけた。

「お手伝いしましょうか?」

「ああ、助かるよ」

 それから、棚の上をざっと見渡し、カモミールとペパーミント、レモングラスの入ったガラス瓶を下ろして作業台の上に置く。

 カモミールはコーン状の黄色い花穂で、抗炎症作用があり、胃酸の過剰な分泌や痛みを鎮める作用がある。

 ペパーミントは深緑色の葉で、その中に含まれるメントールという成分には、胃筋の緊張をほぐし、胃の不快感を緩和する働きがある。

 レモングラスは同じく深緑色の細長い葉で、消化を助け、消化不良や胃もたれに効果を発揮する。

 ローゼンクランツ邸の物置で暮らしている間、私は毎日のように図書館に通い、ハーブの図鑑や本を読んでいた。実際に見るのは初めてだが、ドライハーブに関する知識だけはある。

 三種類のドライハーブをガラス瓶に詰めて、女性に渡す。ガラス瓶を受け取った女性は、老婦人に代金を渡すと、「助かったよ、ありがとう」と言って店を出ていった。

 ガラス瓶を棚に戻す私に、老婦人が尋ねる。

「お嬢さん、どうしてわかったんだい?」

「えっ?」

「それがカモミールで、ペパーミントで、レモングラスだとなぜ知っているんだ?」

「それは……」

 図鑑や本を読んで知った知識しかないのにおこがましいとは思いつつも、私は正直に話した。

「私……ハーブが好きなんです」

「そうなのかい!」

 老婦人の表情がぱっと明るくなった。けれども、顔を綻ばせたのも束の間、次の瞬間には痛みで顔を歪ませる。痛みは時間を追うごとに強くなっているようだ。

「良ければ、ハーブ湿布の準備をしましょうか?」

 私の問いかけに、老婦人が答える。

「ああ、お願いするよ。道具はそこにあるのを使っておくれ」 

 使用するのは先程と同じカモミール、それからローズマリーとラベンダーだ。ハーブの温湿布は、植物の持つ作用と湿布の温熱効果で血行を促進し、筋肉のコリや痛み、冷えなどを改善してくれる。

 もちろん実際に作るのは初めてたが、私は図書館の数少ないハーブの本を、来る日も来る日も幾度となく読み返したのだ。詳細な作り方が頭の中に入っている。

 カウンターの内側には二口コンロの竈門と水場。まずやかんで湯を沸かし、その間に棚からカモミール、ローズマリー、ラベンダードライハーブの入ったガラス瓶を下ろす。ラベンダーは紫色の花穂と茎。ローズマリーは幾重にも別れた薄いグリーンの葉だ。

 それから、ガラスポットに三種類のドライハーブを入れ熱湯を注ぐ。通常より濃く煮出すために15分置き、洗面器に漉しながら注ぎ入れ、清潔なタオルを浸す。それを絞ればハーブ温湿布の出来上がりだ。

 私が手渡した温湿布を腰に当てた老婦人は、ほっとしたように息を吐き、全身の力を抜いた。

「とても気持ちがいいよ。これでだいぶ楽になる。少しすれば動けるようになるだろう。ありがとう、お嬢さん……ああ、名前を聞いてなかったね」

「私は……、シャーロットです」

「あたしはナターシャだよ。それにしても、あんたのお陰で本当に助かったよ。ところで、見かけない顔だけどこの街の子かい?」

「昨日越してきたばかりなんです。仕事を探すために商店街に来たんですけど、なかなか見つからなくて……」

「それじゃあ、この店で働かないかい?」

「えっ?」

「あたしは腰がこんな状態だろ? 暫くはまともに動けそうもないし、暇な店だが常連の客がちらほらと来るから店を閉めるわけにもいかないんだよ。あんたが働いてくれたら助かるんだけどね」

「だけど……。本当に私でいいんでしょうか?」

「ああ。あたしはあんたを気に入ったよ。ハーブを好きな人間に悪い人間なんていないからね」

「あっ……ありがとうございます! 宜しくお願いします!」

「それじゃあ、悪いんだけど今日から宜しくたのむよ」

「はい!」

 その日は動けないナターシャに変わり店番をした。ナターシャが言っていた通りお店は忙しくなく、常連さんが二人来ただけだった。常連さんは1リットルの液体が入るくらいの大きさのガラス瓶を持ってきて、「いつものやつ」をと注文した。ナターシャの指示通りにブレンドハーブを瓶に詰め、常連さんに渡す。

 合間にハーブ温湿布を何度か作り直してナターシャに渡した。ハーブ温湿布を当てているうちに、ナターシャの腰の痛みはだいぶ引き、店が閉店する頃にはゆっくりだが一人で立ち上がり歩けるようになった。

 それから、ナターシャは私に日当をくれた。その日当は今日の儲けよりも多い気がしたが、ナターシャは働いた時間で計算した正当な日当だと言った。

 帰りに隣のパン屋へ寄ると、最初に店に来た中年の女性が店番をしていた。

「ああ、お嬢さん、まだナターシャさんの店にいたのかい?」

「はい。今日から働かせてもらうことになったんです」

「それはよかったよ! ナターシャさんは一人暮らしだからね。腰があんな状態だし、お嬢さんが来てくれたら助かるだろう。ところで、あんた名前は?」

「私はシャーロットです」

「あたしはハンナだよ。よろしくね!」 

 貰った日当で丸パンを5つ購入すると、ハンナが売れ残って固くなったフランスパンを「良かったら持っていきなよ」と言って渡してくれた。

 その後パン屋の向かいの商店に行き、ベーコンとアスパラと卵、それからバターとミルクを買い、それで貰った日当を全て使い切った。それから長い階段を登り、長い坂道を登って屋敷に帰った。

 台所へ向かう道すがら談話室の前を通ると、イザベルとミケイレのヒステリックに喚き散らす声が聞こえた。お腹が空いてイライラしているのだろうが、二人の今日という一日は、恨み言を言うだけで終わってしまいそうだ。

 台所へ行き、買ってきた食材を作業台の上に乗せる。丸パンは明日の昼食用だ。パンを三食分買うことはできなかったので、今ある食材でお腹に溜まるメニューを作らなくてはならない。

 その時、台所にジョルジュがやって来る。作業台の上の食材を見たジョルジュは、

「この食材はどうしたのだ?」

 と尋ねた。

「仕事を……見つけたんです。日当を頂いて、そのお金で買いました」

 私の言葉を聞いたジョルジュの眉毛がピクリと動き、ペリドット色の瞳がユラリと揺れる。

「仕事?」

 何故だかナターシャのハーブ店のことを口にしたくなくて、私は嘘をついた。

「日雇いの仕事を見つけたんです。それで……」

 ジョルジュは少しの間考え込んだ後、いつものにやけた笑みを浮かべながら私の肩を掴んだ。

「なあ、よく考えてごらん。君が金を稼いだとわかれば、母や妹は君からその金を根こそぎ奪おうとするだろう。そして不必要な装飾品でも買うに違いない。その点僕が稼いだ金ならば、母も妹もそんな暴挙に出ることはない。もうわかるだろう? 君が稼いだ賃金は、僕が稼いだことにした方がいいのではないだろうか? それがシュナイダー家の為でもあり君の為でもあるんだ」

「はぁ……」

 言いたいことがないわけではなかったが、これ以上ジョルジュと会話をすること自体が億劫だった。何より、肩を掴んでいる手を早くどけてほしかった。ジョルジュに触れられていることも、にやけた顔が目の前にあることも、吐き気を催しそうなくらい嫌だったのだ。

「わかりました。そのようにいたします」

 私の答えを聞いたジョルジュは、満足そうに鼻歌を歌いながら台所から出ていった。

 気を取り直した私は、調理に取りかかった。

 ボウルに小麦粉とミルクと塩を混ぜて生地を作る。バターを熱したフライパンに生地を流し入れ、フライパンを回しながら薄く伸ばしていく。軽く茹でたアスパラガスとベーコンを乗せ、中央に卵を落とす。蓋をして蒸し焼きにし、生地が乾いてきたら正方形になるよう生地の端を折っていく。最後に胡椒を振れば、アスパラとベーコンのガレッドの完成だ。ガレッドは、小麦粉があれば余った食材で作れるので、ローゼンクランツ邸のまかないでよく作られていたメニューだ。

 それから、少しだけ残っていたじゃがいもとにんじんと玉ねぎを一口大に切り、ミルクとコンソメを入れ煮立たせ、塩コショウで味を整えてミルクスープを作った。

 

 食卓に並んだ料理を見たイザベルは舌打ちをした。

「この疫病神! 今日もこの私にこんな貧乏くさいものを食べさせる気ね!」

 余程お腹が空いていたのか、文句を言うのを忘れてガレッドに齧り付いたミケイレが明るい声を出した。

「だけどお母様、これにはベーコンやアスパラが入っていますよ」

「へぇ……。昨日の家畜のエサより少しはマシみたいね。ところで、このベーコンやアスパラやらはどこで手に入れたのかしら?」

 イザベルの質問に、ジョルジュが間髪入れずに答えた。私が何か言うとでも思ったのだろう。

「実は、今日仕事を見つけてきたのです」

「仕事?」

「はい。この食材はその労働で得た賃金で買ったものなのですよ」

 イザベルとミケイレの顔が綻ぶ。

「さすがよ、お兄様!」

「ジョルジュ、何て素晴らしい子なんでしょう! 平民に混じって労働など屈辱的だったでしょうに、私達家族の為にそこまでしてくれるなんて……。それに比べて!」

 突然口調を荒げたイザベルが、私をキッと睨んだ。

「お前は今日一日一体何をしていたの?」

「私は……。仕事を探していました」

 ジュルジュの手前そう言い繕う。

 その瞬間、イザベルがグラスを手に取って、中に入っていた水を私に浴びせた。

「この役立たず! 穀潰し! 少しはジョルジュを見習いなさい!」

 頭から水を被った私を見て、ミケイレが堪えきれないというように吹き出す。

「お母様、仕方ありませんわ。なんたってこの疫病神は馬鹿でまぬけのシャーロットですよ。いくら平民のやる仕事だろうと、馬鹿でまぬけではすぐには仕事は見つからないでしょう」

「本当ね!」

「ミケイレの言う通りだな!」

 ミケイレの言葉に、イザベルとジョルジュが賛同するかのような高笑いをした。

 そして、アンジェリカだけがつまらなそうな顔をしながら、黙々とガレッドを口に運んでいたのだった。

 


 翌朝。

 昨日パン屋で貰った固くなったフランスパンで、フレンチトーストを作る。

 昨夜のうちに、卵とミルクと砂糖を混ぜた液体に漬け込んでおいたフランスパンを、バターを熱したフライパンで両面がこんがりするまで焼く。

 出来上がったフレンチトーストをダイニングテーブルに並べ、自分の分は台所の作業台でさっと頂く。

 それから、昨日買った丸パンを籠に入れて作業台の上に置いておく。こうしておけば昼食時に誰かが見つけるだろう。自分の分の丸パンをハンカチに包んでスカートのポケットに入れ、屋敷を出た。

 長い坂道を下り、長い階段を降りて商店街に入り、目当ての店まで歩く。

 白い壁に、紺藍の三角屋根の小さな店。

 ナターシャのハーブ店。ここが私の職場だ。


 お客さんは日に10人ほど。常連さんもいれば初めてのお客さんもいる。ガラス瓶を持ってきた常連さんには、その中にブレンドしたドライハーブを詰めて渡し、新しいお客さんからは、ハーブの代金の他にガラス瓶の代金を頂く。

 単品のドライハーブをグラム単位で購入することも可能だ。欲しいハーブが決まっているお客さんもいれば、ナターシャがお客さんの改善したい症状を聞いてブレンドする場合もあった。

 以前は旦那さんと二人でハーブカフェを営んでいたが、旦那さんが亡くなり、ドライハーブの専門店に変えたそうだ。儲けはほとんどないが、旦那さんが残した店を失くすのが忍びなくて、店を手放す決心がつかないらしい。

 18時に店が閉店すると、ナターシャが日当をくれる。その日当を持って隣のパン屋へ行き、丸パンを5つ買うのが日課になった。時々ハンナが売れ残ったパンを譲ってくれるし、私がハーブ店で働いていると知った商店の店主が、少し痛んだ野菜や賞味期限切れの缶詰をくれるので、5人分の食費を何とかやりくりできていた。 

 三食分のパンは買えないので、朝食と夕食は小麦粉やじゃがいもを工夫して使って、なるべくお腹に溜まる料理を作った。

 小麦粉と卵でラビオリを作ったり、じゃがいものガレッドを作ったり、貰ったフランスパンと缶詰でブルスケッタを作ったりした。ローゼンクランツ邸の物置で暮らしていた頃、まかないとして出ていた料理だ。

 シュナイダー家の人々は文句をつけながらも必ず完食したし、昼食用のパンも一つ残らず無くなっていた。

 イザベルとミケイレは、ジョルジュが働いて得た賃金で食材を買っていると思っていたし、仕事が見つからない私は、毎日街に降りて仕事を探していると思われていた。

 ジョルジュは毎日アンジェリカと屋敷や屋敷の周辺をぶらぶらしているだけなのに、なぜジョルジュが働いていると思えるのか不思議だったが、深く考えないことにした。見たくないものに目を瞑るのが、あの人たちの得意技なのだから。


 私がナターシャのハーブ店で働き始めてから2週間がたったある日、ナターシャが店の裏にあるハーブガーデンを見せてくれた。  

 カモミール、ローズマリー、マシュマロウ、ラベンダー、カレンデュラ、ゼラニウム、ユーカリ、レモングラス、エキナセア、ネトル、ジャスミン、リコリス、エルダーフラワー、パッションフラワー、ホップ。

 幼い私が憧れたハーブガーデンが、目の前に広がっていた。その日から、店番だけではなくハーブガーデンに水をやったり、雑草を抜いたりするのも私の仕事になった。

 それから、ナターシャはドライハーブ作りを教えてくれた。

 開花直前のハーブを刈り取り、泥や埃などの付着物を優しく洗い落とす。少しずつ麻紐で結んで束を作り、風通しがよく、直射日光が当たらない場所に逆さに吊るし乾燥させる。


 その頃には、ナターシャの腰の具合は全快とはいかないまでもだいぶ良くなっていたが、無理をしてまた腰を痛めないために、お客さんの来ない時間帯に二階の住居スペースを掃除したり、ナターシャの夕食の支度をすることも私の日課になった。

 ナターシャがくれる日当のおかげで食べるのには困らなかったが、不安もあった。

 屋敷の管理人が残してくれた薪は残り少なくなっていたし、冬になればもっと薪が必要になる。けれど、私の日当では食材の他に薪を買う余裕はない。

 そのことをジョルジュに相談しようとしたが、全く聞く耳を持たない。そこで、意を決してミケイレに話しかけた。家庭教師の仕事をしてみてはどうかと。

 貴族令嬢としての教育を最後まで受けていない私と違って、伯爵令嬢として淑女教育を受けたミケイレならば、家庭教師として迎えたいという裕福な平民は多くいるだろう。数時間で、私の日当を遥かに超える賃金を得られるはずだ。

 けれど、私の話を聞いたミケイレは激怒しながら私をぶった。

「あんたね! 疫病神のくせに何様のつもり!? なぜこの私が平民の下で働き施しを受けなければならないわけ!?」

 諦めた私は、食費を切り詰めてお金を貯めることにした。いくら切り詰めようと5人分の食材を買えば残るのは僅かな金額だったが、何もしないよりはいい。貯めたお金は巾着に入れて、私のベッド代わりになっている長椅子のくぼみに隠した。

 アンジェリカがいなくなったのは、私達が丘の上の屋敷に来て一ヶ月が経った頃のことだ。

 キッチンで朝食を作っていると、いつもならまだ寝ているはずのアンジェリカがやって来てこう言った。

「私出ていくわ」

「えっ?」

「この家の人達が、この先どうなるのか興味が湧いたから着いてきたけど、面白くもなんともなかったわ。貧民街で育ったから貧乏は慣れてるけど、退屈ってやつには耐えられないの。私は一抜けよ。あんたも早く逃げなさいよ」

「逃げる?」

 わけがわからず問い返す私の顔を見たアンジェリカは、呆れたような表情をしながらもフッと笑った。

「もう行くわ。あんたの料理、なかなか美味しかったわよ」


 その日仕事を終えて屋敷に帰ると、アンジェリカの姿はなく、ジョルジュの姿もなかった。

 3人分の夕食を作り、イザベルとミケイレの罵声を浴びながらそれを食べ、後片付けをし、いつものように長椅子に横になると、くぼみに隠していた巾着がないことに気がついた。

 その時、談話室のドアが開く。泥酔した様子のジョルジュが、体を前後に揺らしながらその場に立っていた。その姿を見て、巾着を盗んだのがジョルジュだと察した。

 アンジェリカがいなくなり自暴自棄になったジョルジュは、たまたま見つけた巾着を盗み、中に入っていたはした金で安酒を浴びたのだろう。

 これまで高級なブランデーやらワインしか飲んだことのない人間が、場末の酒場で出される安酒など飲めば、悪酔いするに決まっている。

「おい! 旦那様のお帰りだぞ」

 そう言って、おぼつかない足で近づいてくるジョルジュ。それから、私の肩を力いっぱい掴むと、勢いよく長椅子に押し倒した。

「お前などお飾りにもならない妻だったが……。喜ぶがいい。今夜が俺達の初夜だ」

 ジョルジュの唇が私の首元を這った瞬間、背中に悪寒が走り、全身に鳥肌が立った。身の毛もよだつというのはこういうことなのだろう。

 私は渾身の力でジョルジュを突き飛ばした。激昂したジョルジュが、私の髪の毛を引っ張り長椅子から引きずり降ろす。そして叫んだ。

「お前! 旦那様を拒むとは何様のつもりだ!」


 その時、騒ぎをききつけたイザベルとミケイレが談話室に入って来た。私とジョルジュの様子を見た二人は、何があったのかをすぐに察し、意気揚々と捲し立てた。

「まあ、情けない! 穀潰しの疫病神のくせに、夫の機嫌一つまともにとれないなんてね! 一体お前は何の役に立つの?」 

「本当ね。そうだわお兄様、いっそのこと追い出してしまえばいいじゃない! こんな穀潰し、この家に必要ないわ」

 ジョルジュは酔いが回り、頭がうまく働かなかったのだろう。それとも、わかっていながら引っ込みがつかなかったのだろうか。目を充血させながらニヤリと笑うと、

「そうだな! お前など俺の妻でいる資格はない! 今すぐこの屋敷から出ていけ!」

 と怒鳴った。

 それから私がしたこと。寝間着からいつものシャツとスカートに着替え、小さなトランクに脱いだ寝間着を入れて屋敷を出た。

 長い坂道を駆け下り、長い階段を駆け下り、商店街を駆け抜けて目的地に辿り着く。私はナターシャのハーブ店の前にいた。


 とうに日付の変わった真夜中。当然店の灯りは消えている。私はその場にしゃがみ込み、乱れた呼吸を整えた。

 その時、店の中に明かりが灯り、ドアが開く。

「シャーロット?」

 驚いた表情をしたナターシャが、私を見下ろしていた。


「急に目が覚めて、何だか外が気になってね。虫の知らせってやつだね」

 そう言いながら、ナターシャが私にカップを手渡す。カモミール入りのホットミルクだ。一口飲むと、温かさと優しい味に体の強張りが少しだけ解ける。

「何があったんだい?」

 と尋ねるナターシャに、私はこれまでのことを洗いざらい話した。

「ああ、シャーロット。つらかったね。よく頑張ったね」

 そう言いながら、ナターシャが私の頭を優しく撫でる。

(そうか……。私つらかったんだ)

 そして私は気づく。自分の心が死にかけていたことに。

いつからかはわからない。だけど、私の心はゆっくりと死に向かっていた。ハーブに出会っていなかったら、ナターシャに出会っていなかったら、私の心は完全に死んでいただろう。

 だから、馬鹿でまぬけなシャーロット、シュナイダー家の疫病神と罵られても、何も感じなかったのだ。

(ううん、違う。何も感じないために、傷つかない為に、私が私の心を死に向かわせていたんだ。だけど、このままは嫌だ。私は死にかけの心を抱えたまま生きたくなんかない)

 涙が頬を伝う。それは、母を失ってから初めて流す涙だった。

 自分の心の変化に戸惑う私を、ナターシャが抱きしめる。私はその腕の中で、子供のように声を上げて泣いた。そしてその夜は、ナターシャの隣で泣きつかれて眠った。


 

 次の朝、目を覚ました私は、二階の寝室を出て階段を降りた。階段の途中で、包丁のトントンという音が聞こえてくる。それから、グツグツという鍋の音と食欲をそそる匂い。幸せな朝の音と匂いだ。

 向かい合ってダイニングテーブルに座り、朝食を取った後、ナターシャが話し始めた。

「実は、街の外れのクラフト工房で働く息子が、私の腰の具合を心配していてね。息子夫婦の家で一緒に暮らそうと言ってくれているんだ。少し前から、そろそろ潮時だとは思っていたんだかね。私は決めたよ。シャーロット、あんたにこの店を譲るよ」

「えっ?」

 ナターシャの言葉をすぐには飲み込めずに、私は瞬きを繰り返した。

「そんな! 私なんがが……。私には無理です」

「シャーロット」

 ナターシャが、真剣な顔をして私の名前を呼ぶ。

「あんたは、自分は自由に生きてはいけないと思っていないかい?」

「自由……ですか?」

「あんたは何者でもない、グリーフィルドに住むただのシャーロットだ。自由に、好きなことをして生きたっていいんだよ」

「好きなこと?」

「ああ、そうだ。あんたにはその権利があるんだから」

 ナターシャの言葉は厳しくも優しく、そして温かい。

「私……。ここが好きです。この店で、これからもハーブに携わっていたいです」

「それじゃあ、決まりだ!」

 ナターシャが、少しいたずらっぽい表情をして、嬉しそうに頷く。

「ありがとうございます。ナターシャさん」

 私が礼を言うと、ナターシャは再び真剣な顔をした。

「シャーロット、私はあんただからこの店を譲りたいと思ったんだ。ただし、一つだけ条件があるんだよ」

「条件……ですか?」

「私のハーブガーデンを大切にしておくれ。あのハーブガーデンは私の人生、これまで懸命に生きてきた証なんだ」

「はい……はい! 約束します」

 何度も頷く私の手を、ナターシャが優しく握る。

 こうして、私はナターシャのハーブ店を譲り受けることになったのだった。

 

 私はまだ未成年の為、店の名義はナターシャのままで、私が成人するまでは、ナターシャから店を借りるという形を取ることにした。

 ナターシャが家を離れるまでの三ヶ月の間、ナターシャは私に自分の持つハーブの知識の全てを教えてくれた。それから、計算の出来ない私に計算を教えてくれた。

 そうして、ナターシャが息子夫婦の家に発つ日がやって来た。別れの時、ナターシャは言った。

「この店とハーブガーデンを頼んだよ。それからシャーロット。これが一番大切なことだ。幸せにおなり。誰にも遠慮せず、自分の幸せを一番に考えるんだよ」

 私は、ナターシャの姿が見えなくなるまで手を振った。


 それから、店の看板を新しい看板に変えた。クラフト工房で働くナターシャの息子が、自作したものをプレゼントしてくれたものだ。

 店の名前は、シャーロットのハーブカフェ。


 そうして、私の新しい人生が始まった。




「くそ!」

 ジョルジュ・シュナイダーは、長い坂道を下り、長い階段を降りていた。「くそ! くそ!」と小さな怒号を上げながら。

 二日酔いの重たい頭を抱えながら街へ降りてきたのは、妻であるシャーロットを探すため。

 昨夜、ジョルジュは絶対に言ってはならない言葉を口にした。

「今すぐこの屋敷から出ていけ!」

 酔って気が大きくなっていたし、母と妹の手前強気にもなった。それに、シャーロットには行く宛などない。まさか本当に出ていきはしないだろうと高を括ったのだ。 

 それなのに……。正午過ぎに母親であるイザベルと妹のミケイレのヒステリックな声に起こされると、シャーロットの姿はなく、二人は腹が減ったと喚いている。それだけなら仕事に行っただけと思っただろうが、母と妹の話によれば、毎朝ダイニングテーブルに用意されていた朝食がないのだという。昼食用のパンを食べたがそれでは足りない。そう言って、血走った目をしながら騒ぐイザベルとミケイレ。そこで初めて、ジョルジュは談話室の隅に置いてあったシャーロットの小さなトランクがなくなっていることに気がついた。そして、昨日の出来事が夢ではなく、シャーロットが本当に出ていったことを知ったのだった。

 この街に来てから、働いて賃金を得て、一家の生活を支えていたのはシャーロットだった。シャーロットがいなければ今日食べるものすらない。だけど、イザベルもミケイレもそのことを知らない。働いて賃金を得ているのはジョルジュだと思っている。だから、二人は平気でシャーロットを追い出したのだ。

(何としてでもシャーロットを見つけないと……!)

 ジョルジュは一歩一歩力を込めてゆるやかな階段を下り、街に入った。


 ジョルジュがアンジェリカと出会ったのは、ジョルジュが18歳になる少し前のことだ。豊かな金髪に、真夏の空のように煌めく紺碧の瞳。女性らしい体躯に甘い声。そして貴族令嬢にはない奔放さ。ジョルジュはアンジェリカに夢中になったが、父であるシュナイダー伯爵はその交際を許さなかった。平民であるアンジェリカを嫁に迎えることができないのは明白だったが、それだけではない。アンジェリカは多くのパトロンを渡り歩いて贅沢な暮らしをしているような女で、その存在は社交界の紳士の間でもよく知られていた。おまけに出身は貧民街。シュナイダー伯爵は潔癖で融通の利かないタイプであり、到底アンジェリカを受け入れることはできなかった。

 そして、何度忠告してもアンジェリカとの交際をやめないジョルジュに匙を投げ、18歳になったら当主としての仕事を教えるという約束を反故にし、ジョルジュに与える予定だった一切の権限を奪った。これによりジョルジュはシュナイダー伯爵家の跡継ぎとしての権利を失ったのだが、そこまですれば目を覚ますだろうと伯爵が期待したにも関わらず、ジョルジュはアンジェリカとの交際をやめなかった。それどころか、伯爵の仕打ちに憤ったジョルジュは、アンジェリカを屋敷に招いて共に暮らすようになった。そこまでくれば、もはやジョルジュだけの問題ではなく、伯爵家の体面の問題である。

 そこで伯爵は、ジョルジュに結婚を命じた。結婚しなければ屋敷から追い出すと脅して。結婚すれば、妻の手前、そして妻の実家の手前、アンジェリカとの関係は清算しなければならない。さすがに別れるしかないだろうと考えていた伯爵だったが、ジョルジュが結婚相手として選んだのは、馬鹿でまぬけなシャーロットとして有名なシャーロット・ローゼンクランツだった。シャーロット本人だけでなく、父であるローゼンクランツ伯爵にまで、シャーロットを貰ってくれるなら愛人の一人や二人いてもかまわないと言質までとっている。伯爵はジョルジュを説得するのを諦めて、全てを傍観することにした。そして1年後病に倒れ、シュナイダー伯爵家の名は、貴族名鑑から永久に消え去ることになったのだった。


 街中で聞き回ったジョルジュだったが、シャーロットを雇っている場所は見つからなかった。ジョルジュはシャーロットの言葉を鵜呑みにして、日雇いの労働者を雇うような店や工場ばかり探していたし、商店街の端にある小さなハーブ店のことは視界には入らない。結局、商店街の明かりが消えるまで探したもののシャーロットは見つからず、諦めたジョルジュは屋敷に帰った。

 屋敷では暗闇の中で、母と妹が恨めしそうにダイニングテーブルに座っていた。二人はランプの付け方すら知らなかったのだ。ジョルジュを見るなり「お腹が空いたじゃない!」と喚いた二人は、ジョルジュが手ぶらで帰ってきたことに気づくと、なぜ食べ物を持っていないのかと責めた。

「なぜ今日は食べるものがないの? なぜいつものように食べものを買ってきてくれないの?」

 空腹で虚ろになった目で瞬きを繰り返しながら、ミケイレが唸るような低い声を出す。それから、ミケイレと同じ目をしたイザベルが、

「ジョルジュ、今日も働きに行っていたのよね? どうして今日は食べる物がないのかしら?」

 と尋ねると、ジョルジュは目眩を覚え、その場に倒れそうになった。

 食べることしか頭にない物乞いのような姿。この浅ましい女達が、優雅で気品に溢れていた母の姿か、社交界の花と呼ばれていた妹の姿なのか。

 ジョルジュは何もかもがどうでもいいような気になった。そして全てを暴露した。

「シャーロットだ。働いていて賃金を得ていたのは俺じゃない。シャーロットだったんだ」

 二人はわけがわからないという顔をし、虚ろな目を何度も瞬かせていたが、やがて全てを察すると、その目には絶望の色が滲んだ。

「ジョルジュ、働いているのはあなただと言っていたじゃないの!」

「それは嘘だったんだ。この家で働いて金を稼いでいたのはシャーロットだけだ」

「なっ……!」

 自分の髪を鷲掴みにしながら、荒い息を吐くイザベル。すると、絶望を目に滲ませていたミケイレが、気を取り直したように明るい声を出した。

「別にいいじゃないお母様。シャーロットがいなくたって、これからはお兄様が働けばいいんだから」

 ミケイレの言葉を聞き、取り乱していたイザベルも落ち着きを取り戻す。

「そうよね。あの馬鹿でまぬけなシャーロットですら仕事にありつけたんだから、ジョルジュがその気になればいくらでもお金を稼げるわ。そうしたらこんな貧乏くさい家とはおさらばして、もっといい暮らしができるわね」

 ジョルジュは思った。

(なぜ俺だけが働くことが前提なんだ? なぜこいつらは、自分達は何もせず俺だけが働くことを当然のように思っているんだ?)

 ジョルジュがそんなことを考えているとは露も知らず、ミケイレが無邪気な声を出す。

「それよりお母様、私お腹が空いたわ。今日は何も買っていないとしても、台所には何かしら食材があるでしょ?」

「そうね。この際貧乏くさい料理でもいいから、何か食べないとね。ジョルジュ、頼んだわよ」

 ジョルジュは絞り出すような震える声を出した。

「何を言ってる? 竈門の使い方もわからないのに料理だと?」

 生まれた時から貴族令嬢として生き、ただ座っているだけで豪華な食事が運ばれてくる環境で育った二人には、竈門で火を起こさなければ、材料を切り調理をしなければ料理は完成しないという当たり前のことが、頭の中から欠落していたのだ。

「俺達はシャーロットがいなければ竈門に火をつけることもできないんだぞ! 料理なんてつくれるわけがないだろ!」

 理解が追いつかず目を泳がせる母と妹。そんな二人の姿を見たジョルジュは、あることに気がついた。

(どうして今まで気づかなかったんだろう。もうシュナイダー伯爵家は存在しないんだ。俺が受け継ぐべきものは何もない。それなら、俺がこいつらを養う義理だってない。一緒に暮らす必要なんてないんだ。俺一人ならどこへだって好きな場所にいけるじゃないか。そうだ! 外国にでもいって一攫千金でも狙えばいい。自由と金が手に入れば、またいい女が寄ってくるぞ)


 次の朝、荷物を持って屋敷を出たジョルジュは、宝石店に行き隠し持っていたサファイヤのネクタイピンとルビーのカフスを売り、その金で旅券を買って船に乗った。

 晴れて自由を感じ未来への希望に打ち震えたジョルジュだったが、それから2週間後、船の上で他の乗客と口論になり、大怪我を負わせた罪で牢屋へ入ることになる。

 そして更に2週間後、丘の上の小さな屋敷で、汚物にまみれ気の触れた二人の女が発見され、隔離病棟に送られることになるのだが、そのことをシャーロットが知ることはないし、知る必要もない。

 というより、シャーロットの知ったことではない。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
シャーロットが幸せになれて良かったです。 町の人達が皆優しい人達で良かった。 アンジェリカも、悪女なのは確かですが他人の不幸を積極的に喜ぶタイプではなさそうな、なかなか面白い女性でした。 そして最後の…
作者さまの意図とは齟齬があるかもしれませんか、境界知能のことを想起させられました、せつないです。 続きがあればタイトルに添ったお話しになってくれればと願います。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ