ナトリウム・ランプ
全身の筋肉が震えているのが鮮明にわかった。いくら拭っても吹き出す汗を煩う気持ちはとうに失せた。接近を知らせるフォークリフトの警戒音がぼんやりと聞こえたが、声を上げる気にもならなかった。白濁し、薄汚れたチワワのような眼をしたジジイがいまにも突き飛ばしてやるという表情でこちらを見ていた。70を越えてよくこんな仕事を続けられると思った。大分経ってからチワワは30代だと知った。チワワは無口だからまだ許せた。北條はいつか殺してやろうと思った。40過ぎまでニート崩れのような生活を続けた挙句、ようやくここに「自分の居場所」を見つけられたというような、そんな雰囲気があったから引導をわたしてやろうと思った。倉庫内は暑かった。壁に掛けられた温度計は40度を示し、その上に「仕事があること自体に感謝しているか?」と書かれた古びたポスターが無造作に貼られていた。遠くで北條が「ヤゴ!」と叫んだ。ヤゴは店番85を意味し、85の物品は板橋区高島平に運ばれた。何もかもが空しかった。
「俺たち、ふつうの感覚がずれてないか?」
杉並が言った。俺らはその辺の一般大衆より一周も二周も先を行っている。そう言いたいのが分かったから、何もずれてねえよ。と答えた。ホットコーヒーの湯気が細く立ち上り、杉並の顔をゆらした。階下から東南アジア系の中年女が現れ、慣れた手付きで斜め上に掛けられた出窓を半分だけ開けて周る。俺たちはいつもそれで朝を知った。
杉並の部屋は旧白山通り沿いのマクドナルドから歩いて5分もしないところにあった。そこが自分の寝城だった。夜勤を終えるとそのままマクドナルドに寄り翌朝8時までたむろし、そして杉並の部屋で夕方まで寝た。その繰り返しだった。大学受験に失敗した杉並は浪人を決め、夜勤を終えて部屋に戻ってから昼過ぎまで勉強をしていた。机に向かう杉並の猫背と、机が小さいために盛大にはみだした赤本が上下する様を呆然と眺めた。
「歴史的思考力が合否を分ける」
「なんだ、それ」
「それだけ幅広い知識量が問われるってこと」
「思考に、歴史的もくそもあるかよ」
なだめる様に言い、猫背のまま、杉並が首だけで振り返った。それらしい一言を見つけると口に出して読むのが杉並の癖だった。そういう時は大抵杉並の意識は勉強の外にあることもよく知っていた。
「今日の夜も行く?」
「行く」
「米田も来るかな」
「どっちでもいい」
「これで受験落ちたら、確実にヨウのせいだから」
「そう言ってるうちは、まだ大丈夫だろ」
杉並は、答える代わりに乾いた笑い声を短くあげた。部屋の奥隅に取り付けられた正方形の小さな窓が白くなっていた。日差しの入らない4畳半の居室がやんわりと明らみ、全体の埃っぽさと壁から染み出す煙草の香気にヨウは心地よく瞼を閉じた。「歴史的思考力」言葉にはせず、呟いた。過去という過去から逃れたかった。逃げているつもりは一切なかった。しかし、事実そうなっていた。
杉並が大きな欠伸とともに仰向けに倒れ込み、ヨウの腹上にもたれかかった。際どい位置でバランスを保っていた赤本が机上から滑り落ちた。
「たまに、自分が今、生きてるのか死んでるのか分からなくなる」
「生きてるよ。ただし、動物としてな」
「人間としては死んでるってことか」
「人間らしく生きたいのか?」
「人間らしいってなんなんだろうな」
呟くと、杉並はヨウの腹上で寝返りを打った。ヨウは白地がやや霞んだ天井をぼんやりと眺め、今が何時頃かを漠然と思った。夜の倉庫内作業のことが頭をよぎり、瞬間すべてがどうでもよいような投げやりな気分になった。とにかく、このまま夕方まで寝て、その後で倉庫に出向く。目先のことだけに集中すればよい。目先のことだけに。――これも、動物への退行だろうか。
目を覚ますと、杉並は朝方まで着ていた作業着に着替え、単語帳を気だるげに捲っていた。ヨウが目覚めたことに気がつくと立ち上がり、作業着を投げて寄こした。
「いつまで寝てんだよ」
「起こすだろ。普通」
「嫌だよ。人に起こされるとすぐ機嫌悪くなるくせに」
ヨウの答えを待たずに杉並は部屋の鍵を無造作にズボンのポケット突っ込み、外へ出ようとする。ヨウがそれに続くと、杉並はああと思い出したように振り返る。