第二話「暴力の世界」
夜も眠らない街、蓬莱租界。海に面した南側は発展目覚ましく、ビクトリア帝国の支配下で近代化され栄華を極めていた。対して北側は蓬莱島の中央にそびえる望月山の麓にあって発展途上の閑散とした地域だった。もっとも都会の喧騒を嫌う富豪には人気が高く、こぞって館を立てて暮らす高級住宅街でもあった。
その一角に他の大豪邸と比べれば控えめな洋館があった。どことなくクラシカルな雰囲気を醸し出すのは館主の趣味か。室内も必要最小限の調度品だけが飾られている。
その一室のベッドの上に黒髪の女が下着姿でくつろいでいた。その美貌はずば抜けており、人の者ではない魔性さえ感じさせる。床には脱ぎ捨てられていた、白を基調とする兎耳付きの異質なスーツが。
彼女こそ巷を騒がす仮面ゲットである、とは誰も知らない。一人を除いては。
扉をノックする音がしたが彼女は無視していた。すると相手は勝手に扉を開けて入ってきた。
「帰ってきたのならただいまの一言くらいあっていいものだが、カグヤ」
ラフな格好の男は咎めた。しかしそ知らぬふりをカグヤはする。男は床に散らばる仮面ゲットの外側を見下ろす。
「強制覚醒増幅装甲の具合はどうだね」
「問題ない」
やっとカグヤは返事をする。そんなぶっきらぼうな対応にも慣れているのか、男はわざとらしく肩を竦める。
「とか言ってまた派手に暴れたのはわかっている。朝の新聞を見るまでもなくね」
男の名はオキナといい、35歳の若さでビクトリアの大企業月天重工の重役に上り詰めた俊英である。もっともそれは表の顔で、裏では租界の闇に暗躍する秘密結社ルナリアンのメンバーで、仮面ゲット騒動の黒幕だった。
ルナリアンが出資して考古学者に蓬莱島の奥にある古代遺跡を発掘させていたのだが、そのチームが見つけた物の一つが強制覚醒増幅装甲である。誰がどうやって作ったかは定かではないが、刃も弾も通さぬ外殻と身体能力を極限まで高める効果を度重なる実験で明らかにされた時、実験体として装着していたカグヤはその場にいる研究員を皆殺しにして逃走した。そんな彼女を手懐けて「仮面ゲット」にしたのがこの男なのだ。底知れない。
「弟君の面影を追うのはやめられそうにないのかね?」
今度はベッドに立てかけられているスケッチに注目するオキナ。そこに描かれているのは兎の耳が頭に生えた月兎族の少年少女だった。少女の方が背が高く、お姉さんに見える。それがカグヤの幼少期と知っているのはこの場の二人しかいない。
カグヤはいわゆる咎兎という、兎の耳を削いで人間社会に溶け込もうとした月兎族だ。兎の耳は神から与えられたギフトだと信じる同胞からは恥知らずと罵られ、金髪のビクトリア人にもなれない、半端者だった。
それでも生きていくしかなかった哀れな孤児。カグヤは耳がある自分を唾棄すべきもののように見る。隣の少年に視線を移せば一層顔を険しくする。
「あの子はアポロと違う」
「図星かい」
「……」
「全く……ウサミミ達は君を救世主だの独立運動の英雄だのと持て囃すが、本性はただの狂った雌兎だ。それを知るのは私だけで良いのに」
「なんだか嫌な予感がする……」
カグヤは窓から空を見た。オキナはそういえばと話を切り出す。
「明朝、七番ゲットーの浄化作戦を開始するという話を軍の知人から聞いたね。最近のウサミミの犯罪は目に余るから、見せしめにするんだろう。あそこは一番租界に近いからね」
「七番、ゲットー?」
やっとのことでカグヤはオキナの顔をまじまじと見つめた。能面のような顔で表情が読み取れず、不気味さを感じさせる。しかし、それ自体はさしたる問題ではない。問題は彼の言った内容だ。
七番ゲットーは先程助けたピイタ少年がいる場所じゃないか。カグヤは嫌な予感が的中してベッドから降りた。
「行くのかね?」
答える代わりに耳なし兎は強制覚醒増幅装甲を装着し始める。その様子をオキナはじっと見ていた。兎の耳付きヘルメットを被り、カグヤは仮面ゲットになる。
「いいデータが取れることを期待しているよ」
オキナは微笑む。対するカグヤの表情はもう読み解けない。誰にも。
月が沈みゆく暁の空の下、七番ゲットーのあちらこちらで闇市が開かれ賑わっていた。通りで売られているのは秘密裏に蓬莱租界から密輸した食料品などである。ゲットー内の憲兵に見つかっては没収されるため、出店はこのような早朝の限られた時間にしかやっていない。それをゲットーの住民は知っているから早寝早起きの生活をしていた。
ピイタは市場でパンなどを買い込んでいた。盗んだ金はそれほど多くなかったが、一日の買い物には十分すぎる。
妹には飢餓を味わわせたくない。そう思うと同居している他の四人の幼い孤児のためにすら金を使いたくない気がしてくる。いけない、とピイタは首を横に振る。孤児の基本は助け合いだ。しかしベンの弟達をどうするかについてはほぼほぼ結論を出していた。
流石に面倒を見きれない。ベンが死んだのは彼が迂闊だったからだ。自分の幸運を棚に上げピイタはそう思い込もうとした。
「よお兄ちゃん、随分羽振り良くないか?」
ピイタは考え事をしていると、他の客に因縁をつけられる。相手が見知らぬ男だったので関わらないようその場を立ち去ろうとするが、腕を掴まれた。
「その鞄も随分立派だな。何やった? 盗みか? それとも殺しか?」
「毎日コツコツ稼いでいるんですよ」
「言うねぇ」
嘘を看破されていると冷や汗をかきながらピイタは男の手を退けようとするが、強く握られていてできない。男は舐めるような視線を注いでくる。強請り方を心得ているのだ。
しかし幸か不幸か、群衆が騒いでそれどころではなくなった。
「おい見ろ、西の方が燃えてるぞ!」
男もピイタもそんな風な言葉に反応して西の空を見た。決して朝焼けとは違う、確かに火の手が上がっているのがわかった。さらに声高にして通りを駆け抜ける者が現れた。
「大変だ、ビクトリア軍が街を焼き払ってる! みんな逃げろ!」
「チッ、なんてこった」
ピイタを掴んでいた男は手を離して、一目散にどこかへ消え失せた。現実感がなくて少年は一瞬ボヤっとするが、すぐにハッと我に返る。
フモカが、妹達が危ない。
ピイタは慌てて自分の家に向かう。人の流れに逆行して。
火の手は瞬く間に広がる。ゲットーの家屋はほとんどボロい木造建築だからひとたまりもない。あっという間に焦土と化していく。そして外に炙り出された月兎族達を出迎えるのは、銃声だった。
ビクトリア軍2000人ほどが七番ゲットーに侵攻し、次々と住民達を撃ち殺す。何の予告もなしに、老若男女問わず。武器を持って立ち向かえるものなどおらず、ただ逃げるのみだったがその背中が的になる。
動員されたのは歩兵が主だったが、トータス重戦車が5台投入され、左右に備えた57mm砲二門と中央の7.7mm機関銃が月兎の民を蹂躙した。トータスはキュラキュラと煩いキャタピラの音を立てて前進する。屍を踏んでも気づかずに。
「朝っぱらから仕事仕事、こう忙しいとそろそろ嫁に別れ話切り出されちまう」
トータスに乗り込む戦車長がぼやく。
「ったく、こんなのウサミミの防衛隊にやらせりゃいいのにな」
「同族殺しはさせないという人道的配慮だよ」
「マークの皮肉はキレ味が違うな。大佐殿は功を独り占めしたいだけさ。性急すぎるよ今回は」
「言えてる。仮面ゲットがゲットーに潜伏してるなんて眉唾だろ」
戦車の中で次々と愚痴が反響する。ゲットーの住民を虐殺しながら。外の断末魔などは分厚い装甲に阻まれ響かない。聞かない。住む世界が違うのだ。
戦車に乗り込めるのは生粋のビクトリア人のみで、歩兵として駆り出されるのには褐色の肌のインダス人や黄色い肌のシン人も混じっていた。彼らはビクトリア帝国の他の植民地から連れてこられた者達だった。同じビクトリア人に虐げられる者だが、月兎族に対しては容赦なかった。兎の耳が頭に生えた奴らなんて、同じ人間じゃない。そういう意識を持って、ただ戦果を挙げて給料が上がることを祈りながら、貪欲に殺して回る。
煙が立ち、悲鳴が木霊する。ビクトリア軍の焦土作戦は苛烈を極めた。七番ゲットーをまさしく「浄化」する勢いだった。
月兎族はゲットーを東に東に逃げるが、先回りして包囲されているなどとは知らない。ビクトリア軍を指揮するシュトローム大佐は誰も生かして返さぬつもりであった。
何も知らぬままピイタは西に西に走っていた。渦巻く炎に飛び込んで叫ぶ。
「フモカー! フモカ無事か!」
逃げ惑う人の流れが邪魔で中々進めないのにやきもきするピイタ。彼はなおも妹の名を叫ぶ。家から逃げ出したなら向こうからこの通りに来るのではないかと。少年はどんな小さな声も漏らすまいと兎の耳をそばだてる。
すると彼を呼ぶ声が聞こえた。
「ピイ兄! ピイ兄いるの?」
フモカが子供達を連れてやってくるのをピイタは確かに見た。人の流れに翻弄されながらも、お互い近づこうとする。
「フモカ! よかっ」
言いかけた言葉を言い切ることは、ピイタにはできなくなった。あまりにも突然すぎて信じがたい。だが少年の眼は確かに見たのだ。砲弾が飛んできてフモカ達を潰したのを。
「うわぁぁトータスだぁぁぁぁ!」
誰かが絶叫していた。その場から誰も彼も退散する。ただ一人、ピイタを覗いて。
彼は立ち尽くしていた。最愛の妹が肉片に変わったことをすぐには受け入れられずにいた。嘘だ、こんなこと。こんなことがあってはならない。少年にはそう思えた。
だが目の前の燃え盛る炎の赤と血の赤が網膜に焼き付いて離れない。
キュラキュラキュラ。遠くからキャタピラの音が近づいてくる。しかしピイタはその場に留まる。
「おい、撃つな。逃げない奴がいるぞ、面白い」
そんな声がしても、耳を通り抜けていく。いつの間にか歩兵四人に囲まれてやっとピイタは声を上げる。
「どうして……どうしてこんなことができる! 僕らはただ生きようとしただけだ! なんでだよ」
「気持ち悪いんだよ!」
兵士の一人がずかずかと歩いてきて少年の顔を殴った。
「お前らのような汚らしいウサミミが租界に湧くから、駆除しなきゃなんない身にもなれよ」
「悪ぃな坊主、こっちも仕事なんだわ。ところで仮面ゲット見なかったか? 上が探してんだよ」
「知ってる……と言ったら?」
「生け捕りにする」
ビクトリア兵は銃をピイタに向け、彼の片耳を撃ち抜いた。灼けるような痛みに少年は悶絶する。追い討ちをかけるように兵士は彼の腹を殴る。
「吐かせろ」
一人が命じると他の兵士が暴行を加える。ピイタは痛みで意識が薄れそうになりながら、強い怒りに震えていた。
自分に力があれば――
思い出される両親の死、フモカの死、そして租界で出会った仮面ゲットの姿。あんな風に強ければ、こんな目には遭わなかったのに。少年は悔しくて涙をこぼす。
力が欲しい!
彼が心の底から願った時、そいつはやってきた。
ピイタを取り囲む兵士が一斉に放り投げられ、その姿を見せる。白・赤・青色の強制覚醒増幅装甲を纏い、舞い降りた暴力と狂気と戦慄の化身。その名は――
「仮面ゲット!? カグヤさん!」
「出たなぁ、仮面ゲット!」
紙切れのように千切られて吹き飛ばされた同僚を見た兵士は狂乱して、仮面ゲットを銃撃する。しかし全く動じないのが仮面ゲットである。瞬きするより早く兵士に接近し、その首をねじりきった。片腕の腕力で。驚嘆すべきパワーとスピード!
白いスーツを返り血で赤く染めても彼女は気にしない。ただピイタを生かすことだけが気掛かりで、今まで探し求めていた。そう背中で語る。
「仮面ゲット、本物だ! トータスを出せ!」
新手のビクトリア兵士が叫んだ。自分では相手にしたくなくて。しかしこの兵士は不幸にも目をつけられた。仮面ゲットは思いっきり跳び、勢いのままにそいつの腹を殴ってぶっ飛ばした。その体はトータスの装甲に当たって肉塊へと変わる。
重戦車トータスの乗員は思わぬ攻撃に動揺するが、すぐに戦車長の命で57mm砲の照準を仮面ゲットに合わせる。だが撃とうとした時にはすでに仮面ゲットの姿はなかった。
逃げたのではない。近づいていたのだ。五十メートルはあろう距離を一瞬で詰めていた。たった一回のジャンプで。機関銃も当たらないままに、仮面ゲットはトータスの直上から落ちてきた。
そのキックが装甲を貫通して、戦車内は血の赤で満たされた。断末魔が響き、ほどなくして完全に沈黙した。仮面ゲットは外に出て燃料タンクを破壊すれば、たちまち戦車は燃えさかって崩れる。
今や仮面ゲットは真っ赤に染められていた。大火の中に彼女は消えていく。ビクトリア軍を壊滅させるために。
ポツポツと雨が降り出す。それはやがて豪雨になり、火を消し止めていく。だが七番ゲットーは血の池地獄と化していた。月兎族に加え、ビクトリア兵の屍が積み上げられていった。仮面ゲットただ一人によって。
ピイタは立ち尽くしていた。
やがて通り雨も止み、視界いっぱいに荒野が広がる。全てを失った。失ったのに自分はまだ生きている。それが少年には不思議でならなかった。
一体何を間違えた。租界に行って窃盗を働いたことの罰か。それにしては重すぎるとピイタは頭を抱える。
いつの間にか、彼の傍に仮面ゲットが戻ってきていた。ピイタは拳を震わせる。
「また助けられた……ありがとう、けど……どうしたら……どうしたらあなたのように強くなれる?」
「私のようになるな」
カグヤは冷たく返した。この惨状がいつか見た故郷の破壊された姿と重なって、彼女は仮面越しにしかピイタを見れなかった。自分を誘き寄せるためにこの浄化作戦が実行されたのではとは思わずにはいられなかった。本当は責任感から目を逸らしたかった。
力を振りかざしては、人を不幸にさせる。弟のアポロを死なせてしまった時からそうなのだ、とカグヤは自らを戒めていた。
「巻き込んですまなかった」
「待って!」
仮面ゲットは再びピイタの前から去る。あまりに速すぎてただの少年に追いつけるはずもなく、それが別れとなった。
しかしこれは始まりに過ぎない。ピイタと仮面ゲットの因縁の、そして蓬莱租界とゲットーに吹き荒れる暴力の嵐の。