第一話「運命と出会う」
魔都、蓬莱租界。その中心部にそびえる七十メートルの嫦娥タワーの頂上から一望できた。夜も眠れぬ煌びやかな街並みが。
街灯が幻惑し、自動車が乱れ走り、人々は極彩色の衣装を纏ってワルツを踊るかのように行き交う。
金髪で肌の白い者共は競技場や劇場、あるいは映画館に通い、モダンな文化を堪能している。
一方で髪が黒く褐色の肌を持つ者や黄色い肌の者達がいる場所からは危険な煙がたなびく。彼らは昼は労働し、夜には売春・麻薬・賭博の三拍子に溺れる。金は容易く動き、麻薬月餅が夢を見せる。日頃の鬱憤を晴らすかのように。
そして租界の外に沈黙する、ゲットーまで見通せた。普段は高い壁に囲まれ、租界から覆い隠された闇。それを塔の頂上から見つめる者がいた。
鳥だろうか? いや違う。それは人のようにも見えた。でも展望台よりずっと上の、こんなところに人がいるわけがないのだ。それに租界の人々とはまるで格好が違っていた。
シルエットこそ人型なものの、全身を甲冑のようなものに覆われていて表情すらうかがえない。甲冑といっても野暮ったくなく、素肌にピッタリと吸い付いているような、白をベースに赤と青の差し色を入れた装束であった。目の当たりはガラスのような素材で覆われているが中からは見えて外からは見えない仕組みになっていた。そして頭から二本の突起物が生えていた。まるで兎の耳のよう。
今、空は赤く燃えている。昼と夜の境界線上に月が輝き始める。するとそいつは嫦娥タワーの頂上から身を投げた。
――蓬莱租界に舞い降りる暴力の化身、そいつを仮面ゲットと人は呼ぶ。
「急げピイタ!」
頭から兎の耳のようなものを生やした少年は瀟洒な煉瓦造りの建物が並ぶ繁華街を駆けながら、檄を飛ばした。後方を走る同族の茶髪の少年に向けて。
「待てウサミミ共!」
さらに後方から声がする。彼らはみすぼらしい身なりに不釣り合いな鞄を肩に掛けて、ビクトリア憲兵から逃走中だった。
ゲットーから出てきた月兎族の子供が銀行の前でビクトリア人の富裕層相手にひったくりをするなど、この租界ではさして珍しいことではなかった。
「はぁ、はぁ」
ピイタは息を切らす。捕まれば二度とゲットーで待つ家族には会えない。そう思えば背筋が凍る。こんな状況に追い込まれたことを恨めしく思いながらも脚を動かす。なんで、こんなことに――
彼は15歳だが、海の彼方のビクトリア帝国が蓬莱島を侵略して租界を作り、先住民の月兎族をゲットーに収容したのは30年も前の話だ。生まれた時からゲットーの、食料などの流通が制限されたことで常に飢餓状態の、過酷な環境を生きてきた。だが金さえあれば闇市で高額のパンを買えた。
金のためなら何でもする――孤児で妹も養わなければいけない彼はつい同胞のベンとこの窃盗計画を実行するに至った。けれど今となっては後悔が汗と共に噴き出す。
「クソ、置いていくぞ、急げ!」
ベンは一足先に目の前の十字路に飛び込んだ――ところを屋根のない自動車に乗って通りがかるビクトリア憲兵二人に銃口を向けられた。
「ベン!」
ピイタが叫んだ時にはこの同胞は頭と胸を撃たれ、倒れた。潰れたトマトみたいに赤い血を撒き散らして。
「ヘッドショット!」
「おい、同じ的を狙ってどうする。もう一匹いるぞ」
紺色の詰襟の服を着ている金髪の憲兵が車から体を乗り出して、次の獲物を嬲ろうとする。車は十字路を曲がり、ピイタに向かって前進する。
何かあったらお互い見捨てていけ。ピイタは事前にベンと何度もこの約束を確かめたのもあって、瞬時に逃げ道を探して疾走する。前は駄目、後ろから来る――なら横道に入れ!
車に乗った憲兵の拳銃が火を噴く。しかしピイタのここぞというところの瞬発力の前に当てることは出来ず、ウサミミの少年は狭い路地に入り込んだ。
「回り込め、ウサミミ狩りだ!」
ビクトリア憲兵の末恐ろしい声が聞こえ、ピイタは頭の兎の耳を震わす。入った路地は人二人分くらいの狭い道なので、後ろから憲兵が来て銃撃されたらかわしようがない。ともかく早く、この路地から大通りへ出なければ。少年は焦り立てられる。
狭い横道に街灯の光が差し込む。やっと通りに出たピイタだが、そこは絶望の行き止まりだった。
ビクトリア憲兵が四人、いやもう一人来て五人、待ち伏せしていたのだ。彼らは一様に銃口を向けていて、生かして返さないつもりだった。憲兵達の後ろに通行人が集ってこのショーを見ていた。その眼差しは興味本位か、憐憫か、愉悦か。
「逃げ場はない。土足で租界を踏み荒らすからこうなるんだ。なのにいくらでもゲットーから湧き出やがって、この汚らしいウサミミ共が!」
憲兵は勝ち誇り、芝居がかった文句を言ってみせる。
「なにを……ゲットーに食べ物がないのはお前達ビクトリア人が」
「まぁ、害獣にいくら説教しても理解しないよな」
完全な意識の隔絶にピイタは絶句する。悔しさと後悔と、そして申し訳なさが彼の頭を浸す。
フモカごめん……兄ちゃんはここまでらしい。
銃声が響く。思わず目を閉じるピイタ。しかし何も痛くない。死んだという実感が湧かない。彼は恐る恐る目を開く。すると――
目の前で両手を広げる何者かが立ち塞がっていた。
白・赤・青の甲冑のようなものを着込んでいて、顔まで覆われて表情は見えないが、頭部には二本の突起物が生えている。ピイタと同じ月兎族のようなシルエットだが誰もその正体を知らない。ただ人々はこう呼んだ。
「仮面ゲット……だと!?」
憲兵達は恐れ戦慄きながらも銃を撃つ。しかし仮面ゲットの装甲が弾を弾いた。そいつはピイタを守るように立っていたが、完全に憲兵達の意識が自分に向いていると自覚すれば、彼ら一人一人に向かって強襲した。
瞬きする間に仮面ゲットは憲兵に接近し、相手の腹部を蹴った。すると憲兵は三メートルくらい先まで吹っ飛ばされた。観客の誰もが度肝を抜く。
仲間がやられて怒り狂ったり恐怖に怯えたりする間もなく、次の憲兵が宙を舞っていた。仮面ゲットに掴まれ放り投げられ、そして地面に叩きつけられ動かなくなる。
ピイタ少年は唖然としていた。これが蓬莱租界に現れては暴力の嵐を巻き起こすという都市伝説の怪人。噂でしか知らないそれがまさか、目の前にいるなんて!
瞬く間に五人の憲兵は一瞬の飛行を体験した後、墜落して再起不能になった。動きが早すぎてまさに竜巻のような現象としか誰にも思えなかった。通行人達は蜘蛛の子散らしたように逃げ出す。
ピイタだけはそいつに魅せられて動けなかった。仮面ゲットは立ち竦む彼の前に来て、手を差し伸べた。
「来て」
くぐもっていたが女の声だった。ピイタは冷静に考えようとするが出来ずに反射的に手を取った。すると仮面ゲットはグイっと彼を引っ張って、お姫様のように抱きかかえた。そして――助走をつけて跳んだ。
いや、飛んだと言うべきかもしれない。十メートルはゆうに超えて、近くの建物の屋上にまでジャンプした。さらに駆けて跳んで、別の建物に乗り移る。その脚力はあまりに人間離れしている。仮面ゲットとは一体何者なのか――
ピイタは彼女を恐れつつ、だが助けられたということは理解していた。とはいえこの先どうなってしまうのか、不安も大きかった。兎の耳をぶるぶると震わす。
薄暗くなった空を二人は往く。地上の方が街灯で煌めいていて天地をひっくり返したかのようだ。月明りはこの魔都・蓬莱租界には届かない。
ほどなくして、彼らは闇に紛れ消えた。
蓬莱租界を東西に分かつ河川、龍河に流れ込む下水道に入り、さらにその内部の壁に無理やり開けられた穴に入れば、月兎族がかつて掘ったとされる地下坑道にまで続いている。
通称モグラ通り。仮面ゲットに連れられピイタはここに来た。いや戻ってきたというのが正しい。彼がゲットーから蓬莱租界に侵入するのに使ったのがこの地下坑道なのだから。
少年はマッチに火をつけてか細い灯りを頼りにしていたが、仮面ゲットは何もなしにずいずい進む。暗所に強いのだろう。それより彼女の行く先が気になって仕方ないピイタだった。
そういえばまともに話も出来ていないことにピイタは気付く。相手が超然としていて声を掛けるのも躊躇われたからだ。しかし身の安全も確保できたし、思い切って礼を言うところから始めた。
「あの、ありがとうございました……僕は七番ゲットーのピイタって言います。ええと、仮面ゲット、さん?」
すると彼女は立ち止まり、ピイタの方を見た。それから少しの沈黙に少年は威圧感を受ける。だが彼を安心させようとしたのかは定かではないが、仮面ゲットはいきなりヘルメットを取った。
仮面の下の素顔が晒され、ピイタは思わず息を飲む。そのあまりにも麗しい顔立ちに艶やかな黒髪、想像を絶する美女だったのだから。
「カグヤでいいわ」
それが仮面ゲットの正体。ピイタは見とれると共に意外に思う、彼女には兎の耳がない――同じ月兎族だから助けてくれた、とは勘違いだったのかと少年は悟る。と同時にわからなくなる。何故彼女は自分を助けた?
仮面ゲットといえば圧政に苦しむ月兎族の希望でビクトリア帝国軍と戦う独立運動の英雄。そういう印象をピイタも持っていた。だから余計気になる。
「仮面……いやカグヤさんはどうして、月兎を助けてくれるんです?」
「君を助けたかったから。それだけ」
カグヤはぐいっと顔を近づける。ピイタは思わずドキッとしてしまう。高鳴る鼓動。今まで経験したことのない感覚に少年は狼狽える。
対して誘惑するかのようにカグヤは囁く。
「君はゲットーにいるべきじゃない。私と一緒に租界で暮らそう。今から」
「えっ、いっ今すぐ!?」
流石にピイタは困惑を隠せなかった。しかしカグヤは無言で、真剣な眼で彼を射抜く。初心な少年は耐えられずに目線を外す。
「無理です、租界に不法侵入して住むだなんて。見つかったらタダじゃ……」
「見つからない。安全を保障する」
「けど……ゲットーには妹が待ってるんです。唯一の家族で……これもあいつを食わせるためで」
ピイタは盗んだ鞄をこれ見よがしに見せる。
「そう、やはり。身内を大事にね」
カグヤはヘルメットを被り、再び素顔を隠した。その意味は決別を示していた。
「七番ゲットーへはこの道をずっと東へ進めば辿り着ける」
「それじゃあ僕行きます。本当にありがとうございました」
一礼してピイタはカグヤの指差した方へ歩き始めた。運命の分岐点があるとしたら、おそらくここだった。
「どうかしてるな、私も君も」
仮面ゲットもまた地下坑道の闇へと消える。
ピイタが蓬莱租界に隣接するゲットー、七番ゲットーに戻ってきた頃には夜も更けていた。
租界と違って街灯のないゲットーは昏く、天上に輝く月と星灯りだけが頼りだった。それでも月兎族はビクトリア人より夜目が効く方で、何よりも土地勘のある少年にとっては十分だった。
壁に囲まれ煌めく租界から隠された闇。そこで蠢く住人にとっては目を背けられない惨状があった。
古い伝統的な木造建築が立ち並ぶが、この30年ですっかりあばら屋となったのが大半だ。それでも家に住める者はまだマシで、路上に寝そべっている者も少なくない。その半数以上が孤児で、食べ物にありつけず飢えて死ぬか、伝染病にかかって死んでいた。不衛生なゲットーでは疫病が猛威を振るい、大抵は医者にかかることもできず命を散らす。30年で月兎族の人口は半分以下になった。
闇の中にまた一つ、子供の腐乱死体を見つけたピイタは顔をしかめる。自分や妹がこうなるかもしれないと思うとゾッとして血の気が引くのだ。盗んだ鞄を抱きしめる。
道中、ピイタは仲間のベンのことを何度も思い出した。彼の弟達に兄の死を知らせなければならないと思うと気が重い。もっと言えば責任が自分にあるから彼の遺族も今後養うか、そんなことは土台無理だから切り捨てるか、決断しなければならないのが少年を憂鬱にさせる。
――やめだやめだ。それを考えるのは後にして、今はフモカの下へ帰ろう。
真夜中、月が最も輝く時。ピイタはやっと自分の家に辿り着く。灯りもなく、真っ暗で何も見えそうにない。廊下の床が軋む音だけがする。しかしその足取りは確かなもので、少年にはしっかりと見えていた。
孤児五人が雑魚寝している寝室に入るなりピイタは安堵した。自分の妹と他の幼い同居人達は無事だとわかって。
「兄ちゃん、帰ってきたぞ」
「……ピイ兄?」
「フモカ? 起きてるのか?」
歳は12の月兎族の少女がゆっくりと体を起こす。瞼を擦りながらも兄の傍に寄り、抱き着いた。
「ピイ兄! 本当に本当に、ピイ兄なんだね」
「ああ……そうだよフモカ。帰ってきた。お金、手に入ったぞ。これでフワフワのパン食わせてやるからな」
「ピイ兄の馬鹿! そんなのどうでもいいよ! いっぱい心配したんだから、もう二度とこんなことしないで……」
「あ、ああ……」
フモカは静かに涙を流す。妹を抱き返し、ピイタはその触れては壊れそうな華奢さを確かめる。そうは言われてもやはり自分の家族にはたらふく食べさせたいのだ。そのためならまた租界に行くこともやむ無しと思えた。あれほど危険だったことは忘れて。
「わかったよ。フモカ、学校はどうだ」
「うん、ちゃんと勉強してる。憲兵に見つからないように。勉強していつかいい仕事に就いて、ピイ兄を楽させるから」
「そうか、頑張れよ……ふわぁ」
ピイタは大きな欠伸をした。妹に会えたことで緊張が解け、一気に疲労感が押し寄せたのだ。地下坑道では休み休み進んだとはいえかなりの距離を歩いたので、足も棒のようになっている。
「ピイ兄、しっかり休んでね」
「ああ、早朝の闇市に行くからそれまでは横になるよ」
「じゃああたしの隣で」
フモカは兄から一旦離れ、自分が寝ていたスペースに彼を招く。鞄を置いてピイタは妹の言う通りに寝転んだ。唯一の肉親の天使のような笑顔に心地良くして、すぐ眠りに落ちた。
少年はまだ知らない。知っているつもりでもわかっていない。自分達のいる場所がどんなに積み上げてもちょっとした拍子で崩れてしまう砂上の楼閣に過ぎないと。
彼が幸せの夢を見たのは、それが最後だった。
新連載です。よろしくお願いします。




