真昼の庭であなたと朝食を
卵三個をボウルに割り入れ、卵の数掛ける小さじ分量のお砂糖とお塩ひとつまみ。甘さの中にキリッと塩味が効いて、我が家の卵焼き定番の味。
卵焼き器を熱し、一度濡れ布巾で粗熱を取ってから再びコンロの上に戻し、うすーく油を敷く。
そっと混ぜた卵を流し込めば、途端にじゅわわわ、と卵に火が入り、ポコポコと出てきた泡を菜箸で潰しつつ半熟になったらクルクルと手前に巻いていく。
それを何回か繰り返し、黄金色の長方形になったら巻き簀の上にあげて形を整えながら冷ましていく。
出来上がりはかなり半熟だけど、冷ましてる間に余熱で火が通り、食べ頃にはほどよい固さになっている。切るのはそれまでの我慢。
「おはよう、真宵」
「おはようございます、白銀さん」
カラリと裏口の引き戸が開けられ姿を現したのは、白い髪に白い肌、映える瞳と唇は赤く、背の高い美丈夫。浅葱の着物に肩から掛けている紺の羽織は、庭に咲く桜の花が色を添える。見た目は私と変わらない年齢に見えるが、実年齢はとても長い時間を過ごしてきたのを知っていた。
彼はすっと通った鼻梁をくん、と蠢かせ、安堵するように淡く目を細める。まず匂いに関しては合格と見ていいだろう。まだ私が食事を作り出した頃は、時折柳眉を不機嫌にしかめてた回数の方が多かった位だ。
「これから味噌スープとおにぎりつくるので、庭の縁側で待っていてくれますか? あ、おにぎりの具はなににします?」
私の言葉に背を向けて、出ていこうとする人を引き留めてしまう。いつも同じだと分かっているけど、彼の清涼な声を聞きたいのだ。
「塩むすびを頼む」
「……はい」
了承を込めて目を細めて笑みを浮かべると、彼は今度こそ振り返らず出ていってしまった。
湧き上がる寂寥感に手を伸ばしかけるものの、私はぎゅっと握ってすがらないように耐える。代わりに、彼のひとつに纏めた絹糸の髪から見える、うなじの銀の鱗の艶めかしさに目を眇めた。
ああ、駄目だ。ぼんやりしている場合ではない。
私は古びた台所の中で異彩を放つ新型の冷蔵庫から人参、白菜、葱にベーコンを取り出し、ベーコン以外は細く千切りにしていく。ベーコンは一口サイズのぶつ切り。こうしておけば短時間でも火が通りやすいし、コンソメキューブを使うにしても良い出汁が出る。
「あ、そうだ。豆腐も出しておかなきゃ」
早朝に近所の豆腐屋さんで買っておいたおぼろ豆腐を冷蔵庫から出しておく。三つのお椀にスプーンで掬ってざっくりと入れておく。スープの熱で豆腐が温まって、食べる頃には適温になっている筈。
近所の豆腐屋さんは国産大豆を潰した豆乳から豆腐を作っているので、スーパーで売っている市販品よりも味が濃厚で美味しいのだ。むかし、叔母と一緒に温かい絞りたての豆乳を飲んだ時には、あまりの濃厚さと喉越しに感動したものである。
『ここの豆腐は白銀さんも好きでね。もし、私が死んで、真宵が食事を供するようになったら、豆腐を使ったものを出すといいわ。それだけで機嫌が良くなる人だから』
叔母の真昼は、そう言って優しく微笑んだ。きっと白銀さんのことを思い浮かべているのだろう。その時の彼女はすでに四十代になっていたが、まるで十代の少女のように無垢な笑顔をしていた。
私はあの日の彼女の言葉通り、毎朝豆腐を使った物を一品提供する。
夏には冷奴で。
冬には餡掛け豆腐を。
今日のように和風なスープや、お味噌汁に入れたり、厚揚げにしたりするものの、お揚げだけは使っていない。白銀さん曰く『狐とは相容れない』らしい。
不貞腐れたように言い放った白銀さんの当時の様子を思い出し、思わず笑みが零れる中、私は人参や葱、白菜を千切りに、ベーコンはざっくり切り分けたものを、鍋にサラダ油を引いた中へと入れる。じゅわっ、と水気と油が反応し、弾ける。
少し菜箸を動かして野菜がしんなりしたら、薬缶を手に取り、鍋に沸騰したてのお湯を注ぐ。こうすれば時間短縮にもなるし、今日は使わないけども油抜きしたり、葉物野菜に湯通しする時にも利用できて便利なのだ。
白銀さんを余りお待たせすると、色んな意味で大変なので時間勝負なのもある。
「さて、コンソメも入れたし、野菜に火が通るまでにお魚を焼こう」
呟きながら冷蔵庫を再び開けてお皿にラップを被せたものを取り出す。中にはガーゼに包まれた三つの物体。
「上手く浸かっているといいけど」
ラップを外し、ガーゼをそっと開くと中には金色の味噌にまみれた白身魚の切り身。鰆の味噌漬け。しかも自家製の。
西京味噌に酒と味醂と砂糖を混ぜたものを味噌床にしてある。
本当は四~五日漬け込むのがいいらしいけど、今回は様子見で二日漬けたのを焼く。白銀さんってあんまり自分の好みを話さないから、日々試行錯誤の連続。
ねっとりな味噌をまとった鰆をキッチンペーパーで拭ってグリルへ。焦がさないように注意しつつ、今度は合わせ味噌を出して鍋に溶かし入れる。
「ん、野菜の甘みとベーコンの脂の旨みが合わさって美味しい」
この和風スープは、叔母から私に代替わりしてから供するようになったものだ。
それまでは純和食ばかりだったので、初めて出した時はドキドキしたものだけど、白銀さんが珍しくお代わりしてくれて、それ以来時々出すようにしている。
『別に真昼と同じにしなくてもいい』
初めて作った味噌スープの二杯目を飲み終えた白銀さんが、ポツリと呟く。
『真宵は真宵だろう? 君が無理してまで真昼になろうとしなくてもいいんだ。真昼はもう、黄泉へと逝ったのだから』
あれはそう、叔母が亡くなってすぐの話。私が成人して間もなくの頃だった。
元々、実母と叔母の実家は、龍神である白銀さんに神饌を供する巫の役割を持つ一族で、代々長子が役割を果たすのだが、母は昔から料理音痴なのもあり、妹の真昼に役割を譲り、母は普通のサラリーマンをしていた父と結ばれた。
私は母の実家がそんな役割を持っている事を知らずに育ち、小学生の頃両親の不慮の事故により叔母に引き取られ、その役割を聞かされたのだ。
もし、叔母が亡くなったら、私にその役割を継ぐように、と。
多分、叔母は自分の死期を知っていたのではないかと思う。引き取られてからというもの、普段は優しい叔母が、こと料理に関しては厳しく私を躾けたからだ。
そして、私が叔母の補助として入るようになった短大卒業間際、叔母は飛び出した子供を助けるために自らが車に轢かれ亡くなってしまった。
彼女は私の両親の遺産だけでなく、自らの遺産も私に遺してくれた。そして、この家と白銀さんに神饌を供する権利も。
本来、何の力もない普通の娘が、神に神饌を供するなんてありえない話なのだ。
それを叔母は私の気持ちに気付いていたのか、遺言として遺してくれた。
それが、とても残酷な事なんて知りもしないで……
叔母は語ってくれなかったけど、白銀さんと恋人同士だった。龍神と巫の恋。
私はただの邪魔者でしかないのに……
苦い気持ちが広がりそうになるのを、パチ、とコンロから聞こえた音に我を取り戻す。いけない、お魚焦げてないかな。
慌ててコンロの扉を引けば、端っこに少し焦げ目が出来て、美味しそうな鰆の味噌漬けが姿を現す。角皿にそれぞれを盛り付け、次は塩おにぎり。
卵を焼く前に土鍋で炊いて蒸らしていたご飯は、蓋を取るとぶわりと湯気と共に米の甘い香りが立ち上る。しゃもじで掬い、ホロホロと崩すように解していけば、ふんわりと艶のあるご飯になる。
用意していた氷水に手を浸し、布巾で軽く水気を切ったら、塩を摘んで掌に広げる。塩の量は指三本で摘んだ位が丁度いい。
そこに炊きたてのご飯を乗せ、空気を潰さないように、形を整える程度の加減で握っていく。ひとり二個程度が程よい量だ。
「よし、完成」
卵焼きも切って、お魚に添えてあるし、味噌スープも豆腐の入ったお椀によそった。口直しに、板ずりしたきゅうりを梅おかかで和えたものを。
龍神・白銀さんに供する神饌を前に満足な溜息をついていると、コンコンと裏口の戸を叩く音が聞こえる。
「丁度良かった、蛟さん。今お呼びする所だったんですよ」
「おはようございます、真宵様」
カラリと戸が開き姿を見せたのは、白銀さんの御付である蛟さん。黒髪黒目の美丈夫で、この人も年齢不詳だ。そんな人から様付けされると胸がこそばゆい。
「こちら白銀さんのお食事です」
「ありがとうございます。こちらは私がお持ち致しますので、先に白銀様へと供していただけますか?」
「はい」
私ともう一人の分の膳を持ち、私に白銀さんの膳を持っていくように促す。私は蛟さんを従え、台所を後にした。
「お待たせしました、白銀さん。本日は塩にぎりと鰆の西京味噌焼き、おぼろ豆腐の味噌スープと卵焼きです」
「ああ……ありがとう。いただきます」
縁側でぼんやりと庭を眺めていた白銀さんに声をかけると、彼はゆっくりと表情を緩め、そして手を合わせる。彼の目には私の後ろに叔母を見ているのだろう。私ではなく、恋人だった彼岸の人を。
私は黒く塗られていく感情を押し込め、白銀さんに「どうぞ」と笑みを見せる。
絶対にこの想いを知られないように、深く、深く底へと押し込めて、白銀さんの隣で誰も食べる事のない膳を挟み、塩にぎりを噛み締める。
甘い筈のお米が、どこか苦味を感じたのは、私が決して結ばれる筈のない恋をしているからだろう。
未だに叔母を恋慕う神様へと──