姉が死んだけど死んでなくて死んだんだが
下駄箱に靴がない。
雨の音が聞こえくるなか僕は立ち竦んだ。
イジメっ子が隠したんだろう。
冬風に震えながら、昇降口のガラス扉に映る自分の姿を見つめた。
高校二年生になったのに背は低いまま。
成長に期待して買った学ランもダボダボで、手先なんて萌え袖のようだ。
男としては最悪の容姿だった。
女からも、男からも見下される。
イジメもその延長にちがいない。
自分の勘違いに期待してもう一度下駄箱を睨んだ。
安藤藍の靴入れにはやはり何もない。
これから靴を探して、校舎中を歩き回らないといけないのか。
いつ見つかるかわからない。
あか姉との時間が削られるのは嫌だ。
僕はイジメっ子の靴を取り出した。
イジメっ子の靴を盗っちゃいけないルールなんてない。
少々ブカブカする靴を履いて、雨の下を歩きはじめた。
父は地主という奴だったらしい。
だから、僕の住んでいる家は立派な方で、広い庭には井戸だってある。
しかし、年季が入っていると言えば聞こえはいいが、畳からは変な匂いがするし、広いせいで掃除もままならない。
横に長い日本家屋よりも、二階建ての民家の方が性に合ってそうだ。
でも、あか姉が帰ってくるならどこだって天国。
僕は玄関の前であか姉を待った。
時計の動く音が雨音に混ざって聞こえてくる。
いつもならとっくに玄関を開けている時間だ。
もしかしたら帰ってこないかもしれない。
そう思うと心臓が激しく痛んだ。
イジメでもこんなに辛い気持ちにはならない。
その時、玄関が軋みながら開いた。
「おまたせ。藍くん」
あか姉はニッコリと笑いながら現れた。
艶のある長い黒髪を右手で抑えている。
白いセーターを押し上げる双瓜は大胆だけど、焦げ茶色のロングスカートは清純そのものだ。
あか姉の方が頭一つ分背が高いから、傍から見れば親子のようにも見えるかもしれない。
「遅いよ。あか姉」
「ごめんね。藍くん」
あか姉は僕の頭を優しくさすった。
硬かった表情筋がみるみる緩んでいく。
心を強く保たないと、犬みたいに『くーん』と鳴いてしまいそうだ。
「今日も一日頑張ったね」
あか姉は僕の顔を胸に埋めた。
あか姉の体は温かく、匂いを嗅ぐだけでも気持ちがいい。
でも、恥ずかしくて僕は黙り込んだ。
「どうしたの? 何かイヤなことあった?」
「…………」
「うーん。風邪でも引いたの?」
「…………」
「そっかぁ。じゃあ、今日はお風呂入れないから、身体も洗ってあげられないねぇ」
「くーん」
あか姉は毎日夕暮れに帰ってきて、僕が朝起きる前にいなくなる。
あか姉が家の外で何をしているのか僕は知らない。
一度聞いたことはあるけど、はぐらかされてしまった。
知りたくないと言えば嘘になる。
けど、あか姉に嫌われることを考えると詮索できなかった。
「じゃあ、おやすみね。藍くん」
僕の部屋の前であか姉は僕の頬を撫でた。
シルクの寝間着に着替えている。
前屈みで僕の顔を覗きこんでいるため、豊満な双乳が目の前に迫り、僕は生唾を呑みこんだ。
「どこ見てるのかな? エッチだねぇ」
「だって、目が前についているから」
「変な言い訳しないで。お風呂の時もじっと見てきた癖に」
あか姉はニマニマと僕を見下げる。
意地悪な視線なのに妙に心地が良かった。
だけど、僕にだって言いたいことがある。
「あ、あか姉だってお風呂の時、ずっと僕の身体見てたよ。なのにあか姉は服着てるし。ずるいよ」
「あ、あか姉はいいの」
そう言ってあか姉は僕の頬を抓った。
痛みはなく、むしろこそばゆい。
あか姉も顔を火照らせているが、吊り上がった口角は楽しそうだ。
ずっとこの時間に浸っていたい。
けれど、もうお別れの時間だ。
「じゃあ、藍くん。おやすみ」
ふとあか姉は僕の頬を放す。
胸に籠っていた温かい空気がスーッと抜けていき、今が冬だったことを思い出した。
「そんな顔しないで。藍くん。ほら、いつものやつしてあげるから」
「うん……」
僕は姉に促されるまま顎を上げた。
そして、姉の柔い朱唇に僕の唇が覆われる。
歯磨き粉の味がわずかにするけど、甘い唾液と生温い息が僕の中に入ってきて、身体はみるみると熱くなっていく。
「もう寂しくないかな?」
あか姉は唾液でテカっている唇を緩ませて言った。
息が上がっていて、目もトロンと蕩けている。
明らかに発情していた。
今すぐに姉を押し倒したい。
だが、そんなことをすれば嫌われてしまう。
僕は男の欲求を抑えつけて首を縦に振った。
「ふふ。よかった」
あか姉はゆったりと僕を抱きしめる。
優しい匂いがふんわり香ってきて、僕は逆に苦しくなった。
本能を押さえつけるのがこんなにも辛いことだなんて。
するとあか姉は見透かしたように笑った。
「大丈夫。もうすぐ、ちゃんと満足させてあげるから」
「え?」
「今日はもうおやすみ。藍くん」
僕が真意を聞く前に、あか姉は身体を翻して自分の部屋に向かった。
姉の残り香に呆け、僕は大きな背中を見送ることしかできなかった。
姉も僕と同じことを望んでいるのだろうか。
自分の部屋に入っても、布団に潜っても、姉の匂いや言葉が全身にこびり付いている。
しずかな雨音が部屋に響いているのに、心臓がバクバクと落ち着かない。
今すぐ確かめたい。
あか姉が僕を大切に思っているかどうかを。
僕はついに我慢ができなくなり、布団から立ちあがって姉の部屋へと向かった。
周りは真っ暗で手探りに歩くしかない。
廊下が軋むたびに身体が震え上がった。
嫌われるかもしれない。
その考えが僕を臆病にしているのか。
でも、もしあか姉が僕を受け入れてくれたら、嫌われることに敏感にならずに済むんだ。
何度か引き返そうと思ったけど、結局あか姉の部屋に来た。
「あか姉? 起きてる?」
襖をゆっくりと開け、ビクビクと部屋を覗きこんだ。
しかし返事はなく、部屋の中も真っ暗で何も見えない。
僕はおそるおそる部屋に足を踏み入れた。
その時、雨雲が去ったのか、月明かりがうっすらと部屋に差し込んできた。
あか姉の姿が浮かび上がり、心臓の鼓動が早くなっていく。
だが、あか姉の姿を捉えた瞬間、頭が突然痛くなり、悪寒が背筋を走り抜けた。
なぜ急に体調を崩したのだろう。
ぼんやりと視界が曇っていく中、僕はようやくその理由に気づいた。
姉の頭が、長い黒髪が、布団の中にある身体と、離れて――
△▼△
「――ッ」
自分の叫び声とともに僕は目を覚ました。
全身が汗で濡れていて気持ち悪い。
あれ? 全部、夢だった?
僕は硬くなった首で周りを見渡した。
ここは見慣れた自分の部屋で、姉の部屋ではなかった。
そうだ。今のは夢にちがいない。
僕は窓を開けて外の空気を思い切り吸った。
朝日が僕の意識を目覚めさせていく。
嫌な夢だ。
いや、本当に夢だったのか。
頭だけのあか姉。
夢と断言するにはリアリティがありすぎた。
しばらく考え、姉の部屋を見ることにした。
どう考えても夢だ。
でなければ、僕が自分の部屋にいるはずない。
疑念を払拭するべく、僕はあか姉の部屋を開けた。
僕はため息をついた。
死体なんてなかった。
部屋には布団もなく、きちんと片付けられている。
あか姉らしい部屋だった。
今まで悩んでいたのがバカらしく感じた。
ホッとした拍子に学校のことを思い出す。
時計を見ると登校時間がとっくに過ぎていた。
まぁいいや。
どうせ行ってもイジメられるだけだ。
それに体調があまりよくない。
僕は二度寝をすることにした。
△▼△
今夜、決着をつける。
僕は玄関の前でそう決意した。
あんな悪夢を見るほど、僕はあか姉がどこかへ行ってしまうことを恐れていた。
あか姉が死んでいないことがわかっても、心が不安定なままで何もできず、ご飯もなかなか進まなかった。
この状態から早く抜け出したい。
僕は逸る心を落ち着かせながら姉の帰りを待った。
しかし、時刻はとっくに18時を過ぎている。
夕日も落ち、外は淡い電灯がわずかに光るだけだ。
いくらなんでも遅すぎる。
分針が進むたびにあの悪夢が脳裏に浮かび、眩暈で倒れそうになった。
だが、やっと玄関に人影が現れる。
あか姉だ。
僕は待つのが耐え切れず、玄関の扉を開けた。
「あか姉!」
しかし、外にいたのはあか姉ではなく、
「ど、どうしたの? 藍?」
幼馴染の伊佐坂依美だった。
栗色のポニーテールをつまんで、訝しげに僕を見てくる。
あか姉じゃなかったことに肩を落としつつ、制服姿の伊美を見て、今日配られたプリントを渡しに来たのだと察した。
「それよりプリントでしょ」
僕は取り繕いながらそう言った。
あか姉以外に狼狽された姿を見られるのは嫌だった。
「え、あ、そだね。はい。これ」
「ありがと」
僕は二、三枚のプリントを受けとった。
こんなものに興味はない。
僕が興味あるのはあか姉だけだ。
「そうだ。依美。来る途中であか姉見なかった?」
「え?」
依美は表情を固くした。
何か悍ましいモノでも見ているかのような目だった。
「な、なに言ってるの? あか姉はもう亡くなってるんだよ」





