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『山蟻』と僕

 

『お別れの時が来たの。ごめんね、ずっと騙していて』


 ぼやけた視界。夜闇に染められたかのように虚ろに歪む景色の彼方から、鈴の音のような声だけが鮮明に届けられる。


『村の人達が言っている通り、私は化生。人とは相容れない、畏れられる災厄の一つ。それが露呈した以上、もうここにはいられない。サダムネの思慕は嬉しいけれど、君と一緒にはいられない』


 声には聞き覚えがあった。

 これは村外れの空小屋にいつしか住み着いていた、透き通る艶やかな黒髪と澄んだ瞳が印象的な彼女のもの。

 僕が誰よりも想い、焦がれるあの人の声。僕は先の見えない暗幕の中に手を伸ばした。


『最初はただの贄でしかなかったのに……まさか、私が人の幼子をね。数年前は想像すらしていなかったわ』


 暗い虚ろの奥から、確かな形が一つ現れる。

 それは、人と呼ぶにはあまりにも異型だった。

 けれど、化生と呼ぶにはあまりにも美しい貌だった。

 記憶よりも遥かに大きくなっている肢体。深い闇の中でさえ際立つ鮮烈な黒に、呆然と呼吸すら忘れそうになる。僅かたりとも目が離せない。

 ああ本当に、貴女はこんなにも美しい。


『サダムネだけよ。これを見て、まだ私に“女”を見るのは。本当に、本当に口惜しい』


 彼女はゆっくりと、4本に増えた両の手を広げる。


『来て』


 誘われるまま彼女の元へ歩ふむ。

 怖れはなかった。この時の僕は、このまま食べられてもいいと思っていたから。だから、耳元まで裂けた口と鋭牙を前にしても、歩みに迷いはなかった。

 手を伸ばせば指が届く距離まで来たとき、彼女も前に出て、僕は優しく抱きしめられた。

 野花のような仄かな甘い香りがした。それに混じって、チクリと首筋に痛みが走る。


『これは呪い。化生らしく、君の百にも満たない一生涯に“私”という害悪を縛り付ける呪い』


 白と黒が反転している瞳が僕を放した。

 温もりが消え、影も遠くなる。嫌だと叫んだ、離れたくないと願った。目を赤くしながら、共に在りたいと手を伸ばすけれど、されどその手が握られることはなく。

 僕から離れた彼女の口からは、紅い雫が一筋垂れ落ちていた。

 それを拭うこともせず、ただ別れを惜しむ色だけを浮かべる彼女は──。


『忘れないで。せめて記憶の中でくらい、隣にいたいから……』


 あまりにも、人間味に溢れていた。



 ◇◆◇◆◇



 ある山の麓にあった村の跡地に建つ、古い和風家屋。

 その縁側で座布団を枕にして寝ていた貞宗は、撫でるような肌寒さに重いまぶたを開けた。


「……ん?」


 眠い目をこすりながら上体を起こして体をさする。少しだけ、部屋着の甚平が冷たい。

 意識が覚醒しきらないまま、貞宗はぼんやりと庭先からの景色を見やった。遠目に見る山々には影が差し、空に穏やかな茜色が広がっていた。


「あらら〜」


 やってしまったと苦笑い

 昼食後、秋の陽気にあてられ少しだけ昼寝をするつもりが、どうやら随分と惰眠を貪ってしまったようだ。日があるうちに山菜でも取りに行こうと予定していたのだが、こうなってはもう遅い。まさに後の祭りである。

 秋は夕暮れが良いとは昔の歌人の言葉だが、何とも複雑な気分だ。山に消え入る夕日を見送りながら、貞宗は大きく息を吐いた。


(それにしても……)


 懐かしい夢を見たものだ。あくび混じりにガチガチに固まった体を伸ばし、貞宗は先程まで見ていた夢に思いを馳せる。

 厭わしい記憶だ。あの日、あの場所で自分は何も為せぬまま、ただ悲嘆に暮れることしかできなかった。無力に打ちひしがれ、眩く輝いていた宝玉が崩れ去る喪失感は、今思い返してもドス黒く胸中に渦を巻く。悔恨と鬱気で、腹の奥が異様に重くなるような感覚が沸々と蘇ってくるようだ。


(できれば、あまり思い出したくないんだがなぁ)


 乱暴に頭をかきむしった。

 厭わしいからこそ、鮮明に記憶に刻まれている。


 愛する人に別れを突きつけられた日。

 己の小ささを底抜けに痛感した日。

 そして、決別を決意した日。


 沈む心中に合わせて貞宗の面も下がる。

 見下ろした庭先は影の侵食がかなり進んでいた。東の方より夜が伸びてきている。日没は近そうだ。

 貞宗は気を紛らわそうと懐をまさぐったが、何かを思い出したかのように動きを止めて手を抜いた。

 うっかりしていた。長年の友である煙草は今、手元にはないのだった。


「……」


 家屋の周りは実に静かだった。

 鳥の鳴き声はなく、虫も今日は輪唱に精を出していない。冷たさを増した風だけが自己を主張し、貞宗の髪を弄んでは空の彼方へ消えていく。

 まるで世界にただ一人取り残されたようで──。


「起きたのねサダムネ」


 いや。

 寂しいこの世界で自己を主張するものが、もう一つあった。


「山蟻」

「なら丁度よかった。頼みたいことがあるの」

「どうかしたの?」


 家屋の奥から現れた“山蟻”と呼ばれた女性は、貞宗の隣に静かに腰を下ろした。

 透き通る美しさの黒髪が肩を流れ、砂時計の砂塵が落ちるように滑らかに揺れている。それが白の装束との光陰を截然にし、著名な絵画を思わせるほどよく映えていた。

 貞宗は緩慢な動きで顔を山蟻へと向ける。山蟻の瞳、黒曜石を埋め込んだとさえ見紛う澄んだ瞳と視線が繋がると、山蟻は不安そうに眉をひそめて貞宗の頬に手を添えた。


「……顔色が良くないわ、具合悪いの?」


 顔を近づけて貞宗をのぞき込む。

 心配そうにしている山蟻に対して、彼はそういうわけじゃない、と言って首を横に振った。


「ちょっと寝すぎて体を冷やしただけだよ。大丈夫」


 適当なことを言って笑って誤魔化す。

 あの日のことは、貞宗にとっても山蟻にとっても大きな岐路ではあるが、反芻すべき思い出でもないのだ。わざわざ気を落とすような話をする必要もあるまい。


「風邪とかじゃないのね?」

「うん」


 貞宗の言葉に、山蟻はホッと安心したように顔を離した。


「なら、よかった」

「心配かけてごめんね」

「いいの。でもそうね、確かに最近冷えてきたし、そろそろ衣替えしないと」


 などと言って虫食いの心配をする山蟻を横目に、貞宗も上手く誤魔化せたことに安堵する。と、同時に僅かな自尊心が傷つくのも感じたのだった。

 貞宗はもう滅多なことでは体を壊さないのだが、山蟻と比類すれば確かに貧弱と言わざるを得ない。かれこれ長い時間を共に過ごしてきたが、彼女の基準からすれば、自分のような()()()はいつまでも庇護の対象なのだな、と。


(……いかんいかん)


 貞宗は頭を振り、弱る気を取り直して面を上げる。

 それはさておき──。


「それで、何かあったの? 用事がありそうな感じだったけど」

「あっ! そうそう、そのことなのだけど」


 貞宗がそう訊ねると、山蟻は両手を合わせ、喜色を爛々と浮かべて口を開いた。


「久々に()が来たわ」


 その声は静かで、けれど生命の危機を直感させる凍てつくような迫力があった。薄く微笑むその口元は大きく裂け、僅かにのぞく鋭利な刃物を思わせる牙が、明確な害意を溢れんばかりに放っている。

 されど貞宗は怯まず、むしろ素っ頓狂な声で驚きを表した。


「え、この時期に? 珍しいね。数は?」

「男1、女3ね」

「んん〜なるほど、時期外れの肝試しかな? こっちにとっては都合がいいけど」

「ええ。だから是非とも確保しておきたいのだけど……」


 貞宗たちの住まう土地は、巷では神隠しの都市伝説が噂される心霊スポットとして有名なのである。その廃村へ足を踏み入れたら最後、二度と戻ってはこれないとネット上では取沙汰され、立入禁止と封鎖されているにも関わらず、夏場には肝試しに足を運ぶ若者たちが後を絶たない。


「わかった。また祠の方に誘導するよ。いつも通り入り口を塞いで、逃げ場をなくして挟み込もうか」

「いつもありがとう、楽に捕獲できて助かるわ」


 どこにでもある普通の都市伝説。だが事実、興味本位で廃村に足を踏み入れた者の中には、忽然と消息を絶ったケースも存在している。

 噂によると、まだ京が政の中心だった時代、この村では外れに住みついた妖怪が一人の少年に恋をして、山奥へ連れ去ってしまったという。その少年の怨嗟が仲間を求め、生者を惑わしているのだとか。


「今はどの辺りにいるの?」

封鎖洞窟(むらのいりぐち)を抜けてすぐの場所で立ち止まってるみたい」

「なら、そこで怖気づいて帰られても困るし、迎えにいってくるよ」

「お願い」


 貞宗は山蟻をその場に残して自室の方へ。

 掃除の行き届いた廊下を歩く度にペタリ、ペタリと軽やかに足音がなる。まるで先程までの鬱屈した感情を、一歩進むごとに一つずつ落としていくかのように。

 自室にて甚平から外出用の和服へ着替える最中、ふと、鏡に映った己の体が目に入った。


(……)


 首筋にある大きな紋様。貞宗は手で覆うようにそれをなぞる。

 烏の羽根を幾重にも重ねたかのような、不吉さを隠せないその紋様は、貞宗にとって決別と覚悟の象徴として印されている。

 禁忌を犯し、魂に不浄を烙いた浅ましき愚者だと示すもの。

 即ち──。


 ()()()()()()()()()()()


 親の懇願も友の罵声も、愛していると叫んだ少女さえ振り切り、人道の理から外れることも厭わず己に呪法を施した。


 これは、人と化生が織りなす儚く美しい恋の物語ではない。

 化生どもが互いに依存し合う、惨めで醜い“アイ”の物語である。


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