憧れの芽
プールでの勇也の変貌ぶりには驚いたが、椎名と神宮寺の勇也にたいする印象はむしろ良くなった。
いつもは女の尻を追いかけて後ろ蹴りをくらっているような奴だと思っていたのに、怒らせるとキャラが一変するとか、ある種のギャップ萌え要素じゃないか。
中学の時の話はした事がないけど、どんな感じだったのだろうか。
「あのバカって単なるバカじゃなかったのね。」
タカヤナギ楽器店で今日も試し弾きをしていると、嬉しそうにハタキを俺にかけてくる。
「俺も驚いたけど。って人をはたくなよ。」
「ちゃんとドラムの練習やってんの?」
やめろと言ってもハタキをかけながら椎名はニヤニヤする。
「雑誌を叩いて練習はしてるってさ。だから、はたくなって。」
「神宮寺は?」
はたくなと言っても聞かずパタパタ。
「神宮寺は真面目だから大丈夫だろ。この前なんかベース弾いてる動画を添付してきたしな。」
「動画を!?そんな事できるの?」
そうか。椎名は今までスマホもガラケーも持った事がないから何ができるか分からないんだ。
「椎名もスマホ持てば?」
そうすりゃ連絡を取るのも楽になるしと気軽に言ってしまったけど、もしも何か事情があるからかもしれない。
「…………。」
案の定、椎名はハタキを止めて黙り込んでしまった。
「ま、まぁ無理に持つ事はないよな。人にはそれぞれ理由だとか、ポリシーがあるもんだし。うん。」
「………私にはいらない。」
沈んだ声で一言。
やっぱり踏んではいけない地雷を見事に踏んだようだ。
さて、これはどうフォローしたらいいのか。そう考えあぐねているとハタキが頭の上に置かれた。
「って思ってたけど、これからは必要なのかも。」
俺の頭にハタキを置いたまま椎名は考え込む。
「ねぇ、スマホって電話する以外に何ができるの?」
「何って………色々できるけど。メールとかチャットとか。ネット検索もできるし、SNSとかもある。とりあえずハタキを頭に置くのはやめてくれ。」
「チャット?ネット検索?Sえむ………何だっけ?」
「S!エヌ!S!他に客がいたら大変な言い間違いをするなよ。」
「?言ってる事よく分からないけど、で、それ何なのよ?」
椎名って学校の勉強はできるのに知らない事も多いみたいだ。
椎名は情報化社会において端末を持たないと人はこうなる見本みたいだ。
真っ直ぐ純粋に向けてくる瞳に俺はSNSの説明やスマホでできる事をかいつまんで教えてやった。
「なるほどね。ラインっての使ったらバンドの話もやりやすくなるし、SNSを使ったら宣伝とかにもなるのね。」
「ま、そんな感じかな。」
かなりスマホに興味が出てきたようだ。
「じゃあさ、今度スマホ買いに行くのついてきてよ?」
「スマホ買いにって………。スマホ本体を買えば使えるわけじゃなくて契約しなきゃならなくてさ、それには保護者が。」
そこまで言って俺はまたしても地雷を踏んでしまった事に気付いた。
椎名は児童養護施設にいる。という事は保護者である両親から何かしらの理由があって離れて生活しているわけだ。それなのに俺は契約に保護者が必要だとうっかり口にしてしまった。
「…………保護者、いなきゃダメなんだ。」
また沈んだ声で椎名は下を向いてしまう。今度はさっきと違って本当に気持ちも沈んでしまっている。
何かフォローできる言葉をと思考を巡らせてみたが、そんな言葉は俺にはみつけられなかった。
気まずい雰囲気のまま時間だけが過ぎていく中、店のドアが開いた。どうやらお客さんのようだ。
「いらっしゃいませ。」
その人影に椎名は明るい声をかける。
「俺、今日は帰るわ。」
試し弾きしていたギターを元に戻して、明るい声がいたたまれなきなり俺は逃げるようにタカヤナギ楽器店を後にした。
自分の部屋に戻り、何も映さないスマホを眺めながらベッドに寝転がり考えた。
普段、何気なく使っているスマホ。あって当たり前の物で、ゲームをしたり動画を見たりしているけど、それができるのも親がいてこそなんだ。
俺は自分一人ではスマホの契約もできない子供なんだ。
「椎名はいつからあそこにいるんだろ?」
児童養護施設ひまわり園。神宮寺が案内してくれたわけだから中学もあそこから通っていたんだろう。
いつから、どんな理由で。椎名について知らない事は多い。だからといって本人に聞けるはずもない。
「神宮寺なら知ってるかも?」
そう思いつき早速メッセージを送ってみた。
数分後。神宮寺から返ってきたのは「私にも分かりませんわ」の一言。
あまり詮索するのは悪いから礼だけ返して俺は一人で考える事にした。
ぼんやりとした景色は公園。ブランコが揺れる音。そこに腰かけ椎名はうつむいている。
だけど、その椎名は俺が知ってる椎名よりもさらに小さく、髪が長い。
うつむきながら吐く息は白いのに、上着は身につけていない。
そして、頬には涙の跡とアザ。
俺は声を出そうとしたけど声にはならず、そんな椎名を見る事しかできなかった。
もどかしい気持ちに歯ぎしりしていると、椎名に誰かが近寄ってくる。
それは若い男。トゲトゲに立てた金髪。そこらじゅうに鋲を付けた革ジャン。見るからに危なそうな奴だ。
『椎名に何しようとしてんだよ!!』
しかし声は出ない。
俺は見る事しかできない。
苛立つ気持ちの俺に構わず男は手にぶらさけでいたビニール袋から何かを取り出し、それをブランコの椎名に差し出した。
それは湯気を立てる肉まん。
拍子抜けする俺に椎名は気付かず、差し出された肉まんを受け取り頬張る。
頬張りながら笑顔を浮かべる椎名。
それを見る男の顔は優しさに満ちていた。
『悪い奴じゃなかったんだ』
一安心していると、男が不意に目を合わせ、俺に近付いてきた。
そして、声も出せず身動きもできない俺の肩に自分の肩を軽くぶつけてくる。
「あの子の事は頼んだぜ。」
確かに男はそう呟いた。
あの子?
それは椎名の事か?
それで、あんたは誰だよ?
疑問は口からは出てこない。
しだいに景色は白く塗りつぶされ、そのまま消えてしまった。
ぼんやりと開いた目には見慣れた天井。ああ、どうやらいつの間にか眠っていたのか。
「頼んだぜって、あいつ一体誰なんだよ。」
夢の中の見知らぬ男に呟き、のそりベッドから起き上がるとドアをノックする音。
「飯だぞ。」
それは父さんの声。
「分かった。すぐ行く。」
ベッドにスマホを置いたまま言われたとおり一階のリビングに向かうと、すでに姉貴はテーブルについていた。
父さんと姉貴と三人で夕食を囲む。つけっぱなしのテレビにはクイズ番組。いつもなら会話らしい会話もないのが今日は少し違った。
「雅之さ。あんたギター買わないの?」
箸を進めながら姉貴が唐突に言うと父さんの眉が歪んだ。
「ギター?雅之、おまえ弾き語りでもするのか?」
父さんは進めていた箸を止めて目を丸くする。
「いや、弾き語りじゃなくてバンドをしようって、友達と。」
冷凍食品の唐揚げを飲み込んでから俺が言うと、姉貴が口を挟む。
「ギター買わなきゃ練習できないでしょ?てか、ギター買うお金がないとか?」
「………いいだろ。練習なら楽器屋で試し弾きでやってるし。」
話題を変えようとテレビに目を向けたが生憎コマーシャル。
「楽器屋さんで試し弾きでって、それかなり迷惑よ?」
迷惑。タカヤナギ楽器店の店長さんは笑顔で構わないよと言ってくれたから今まで気にしてなかった。少し考えれば分かる話なのに。
「だからお年玉は大切に貯金しときなさいって言ったのよ。」
「うるさいな。」
姉貴の小言に食欲がなくなり俺は箸を置き席を立つ。
「お風呂さっさと入ってよね。」
部屋に戻ろうとする俺に姉貴は追い討ちをかけ、俺は溜め息で答えた。
俺は何も知らない。分かっていない。子供だ。
情報はスマホがあれば簡単に手に入るけど、それだけでは全てを知る事も分かる事もできないんだ。
それに俺は金の使い方もヘタクソで、それを稼ぐ手段も持ち合わせていない。
「椎名はスゲーよな。」
養護施設で集団生活をし、学校に通いながらバイトもしている。
学校でギター掻き鳴らし歌った時は変な奴だと思ったけど、自分と比べたら椎名が大人に思えてくる。
スマホやインターネットの事を知らなくても、椎名は俺なんかより色々な事を知ってるのだろう。
深まる夜の隅で眠れない俺は夜通し天井を眺めた。
八月も半ばを過ぎた。お盆には墓参り。しばらくタカヤナギ楽器店に行けなかった。
そうして久しぶりに顔を出すと椎名が出迎えてくれた。
俺はまた試し弾きをといつものギターの元に。
「あれ?」
いつものギターがない。
「あれ、売れたわよ。」
キョロキョロと探している後ろから椎名が教えてくれた。
愛着もわいてきたギターだったけど、あれはれっきとしたタカヤナギ楽器店の商品。いつか売れてなくなるとは分かっていたけど、それがこんなに早くになるとは。
「あのさ。」
落胆の息を落としていると椎名が背中を突っついてきた。
「分かってるよ。あれは売り物だから、売れなきゃ店としては困るって。売れて良かったんだよ。」
「そうなんだけど。でも、欲しかったんでしょ?」
「仕方ないさ。」
すぐに買えない。金も稼げない。そんな自分が情けなく思えて、俺は多くの言葉を口にできなかった。
「あのギターは残念だったけど他にもギターはあるから。」
「だな。」
椎名らしくもないフォロー。ここは楽器屋なんだから当たり前だと少し気が軽くなった。
伸びをして並んだギターを眺めると、椎名はタイミングを計ってからまた背中を突っつく。
「ちょっと、さ。少し教えてほしいんだけどさ。」
振り向くと、その手にはスマホが握られていた。
「買ったんだけど、その、使い方が分かんないのよね。」
「そう、なんだ。」
自分と椎名の差を感じはしたけど、真新しいスマホを大事そうに持ちながら緩んだ椎名を見ていると自分の事は二の次で良くなってしまった。
最新のスマホでも基本的な操作や使うアプリはあまり変わらない。
「とりあえず電話とメールとラインが使えないとな。」
その使い方を教えていると小さなスマホの画面を二人で覗き込む形になる。
今にも頬と頬が触れそうな距離なのに、興味津々の椎名は気付かない。
その子供みたいな横顔と夢で見た少し腫れた幼い椎名か重なり、同時に男の声が甦る。
『頼んだぜ』
頼まれたつもりはない。でも、頼まれなくても俺は………。
「あんたの電話番号とメールアドレスを入れといてよ。あとラインもできるようにしといてくんない?」
そう言いながら椎名が横を向くと、至近距離で目と目とが合い、二人して動けなくなってしまった。
「………。」
「………。」
息を吐けばかかる近さに息を飲んで固まる二人。
澄んだ丸い瞳には微かに潤んだ光。
どうすればいいのか。きっと椎名も分からないんだろう。
押し黙ったまま。だけど沈黙が心地よく、ずっとこうしていられそうだ。
いや、ずっと、こうしていたい。
そんな気持ちになっていく自分に戸惑っていると、店のドアが開き店長が飛び込んできた。
「留守番ありがとう。椎名さんも休憩に入っ………。」
「とととととりあえず俺の連絡先を登録しておくから!あとラインのほうも!」
「よよよよよろしく!あ、ああ!店長!お帰り!!」
その場で二人して飛び上がり、俺はスマホをタップしまくり、椎名はハタキを逆さまに持って振り回した。
椎名が休憩に入り、店長さんから俺もスタッフルームにと言われて従うと、そこはどこにでもありそうな民家の居間だった。
住居兼店舗なのだから当然なんだけど、店舗のほうはアメリカンな感じなのに、住居のほうは和風というアンバランスさがあるからか居間に来た途端に空気が変わったかのように感じられた。
「テキトーに座れば?」
まるで自分の家みたいに椎名は上がりこみ、俺はよそよそしく言われるがままテキトーな座布団にあぐらをかく。
「アイスコーヒーしかないけどいい?」
居間の奥にある台所へ椎名は向かうと冷蔵庫が開く音。
「あ、ああ。」
さっきの状況もあり何を話せばいいか分からない俺は返事をするので精一杯だ。
しばらくして椎名は両手にアイスコーヒーの入ったグラスを持って居間に戻り、冬にはこたつになるであろうテーブルに置いた。
「ありがと。」
出されたアイスコーヒーで乾いた喉を潤す。うん、苦い。本当はガムシロップとミルクが欲しいけど、平然と同じ物を飲む椎名に言えるわけがない。
「………。」
グビグビと苦いアイスコーヒーを飲む椎名を見ていると、どうも自分がお子様に思えて仕方ない。
こんな小さい奴なのに。そう感心している視線に気付いたのか椎名は一瞬だけ俺と目を合わせ、すぐにそらしてしまった、
やけに落ち着ける居間で椎名と二人テーブルを挟む。どちらからとも話しかけられず、休憩時間は費やされていく。
何か話さなくては。
「と、とりあえず勇也と神宮寺の連絡先も入れておかなきゃな。あと二人には俺から椎名の連絡先を教えておくから。」
店舗にいた時の続きをと椎名に促しながら、持ったままになっていた椎名のスマホを取り出してみせる。
「へ?あ?ああ、うん、よろしく。」
「それとスマホカバーかケースを買ったほうがいいぞ。画面にも保護シート貼ったほうがいいし。」
俺はブックタイプのスマホケースを使っている。それを見せると椎名は「どこに売ってんの?」と興味を示した。
「ケータイショップとかスマホアクセサリーショップ。ネット通販でも買える。」
言いながら俺が通販サイトで検索して見せると、ゾロゾロと縦に並ぶケースに椎名は面倒くさそうに「全部一緒に見えるわね」と投げやりにコーヒーを啜った。
「あんたのと一緒でいいわ。」
「一緒ってのは無理だな。機種によってサイズが微妙に違うから。」
「そうなの?」
さらに椎名が面倒くさそうにするから俺は並んだケースの中から自分のと似た物を探し、それを見せてみると「じゃあ、それにするわ」と即決。
「俺に買わせる気かよ。」
「お金なら払うわよ。」
そうしてもらわなきゃ困る。
「仕方ないなぁ。それならついでに保護シートも買っておくか?」
「よろしく。」
スマホを持ち始めたばかりで通販サイトの仕組みを知らない椎名だからと俺は代わりに購入する事にした。
その値段を見せると椎名は財布を取り出して一万円札を渡してくる。
「お釣りは返してよね。」
「当たり前だ。」
すぐに一万円札を取り出せる事に驚いたけど、それを悟られないように笑顔を努めた。
スマホを椎名に返し、やがて休憩時間が終わったからと立ち上がった椎名に合わせて立ち上がり空のグラスを残して後に続いた。
店に戻ると店長さんの他に数人の客。ピックなどの小物を吟味する者や教則本を立ち読みする者。店長さんは店長さんで客と雑談をしていた。
「そろそろ帰ろうかな。」
これから忙しくなりそうな気がして俺が呟くと、椎名は「それならちょっと待ってて」と早足で来た道を引き返した。
一体どうしたのかとしばらく待つ。
「このままだとギターの練習できないでしょ?」
先に声だけ戻ってきた。
「だからさ、これ貸してあげるわ。」
次は声と共に戻ってきた椎名は黒い革製のギターケースを手に持っていた。
「貸すって、それ椎名のだろ?なかったら困るんじゃ?」
「いいから。ギターなくて練習できないって言われるほうが困るわ。」
それはそうかもだけど、だからといって簡単に『はい』とは言いづらい。
「アンプとシールドも貸すから。あ、でも近所迷惑になるからボリュームはほどほどにしなさいよ。できたらヘッドホン使ったほうがいいわね。」
早口で言いながら強制的に俺に渡すと椎名は客の元に急いで行ってしまった。
「…………いいのかよ。本当に。」
押し付けられたギターと小型アンプを持ちながら、それでもいつまでもその場にはいられず、俺は椎名から借りる事にした。
客の相手をする店長さんに軽く会釈をしてから店を出ると、雑踏とセミたちが競っているかのような音の渦。
俺はギターケースを肩に掛け、アンプと自転車を交互に見てから乗って帰るのを諦めた。
左手にアンプを持ち、右手だけで自転車のハンドルを握り歩くのはバランスが難しい。少し歩いただけで、さっき飲んだアイスコーヒーが汗になっていく。
フラフラしながら家に向かい、車道を爽快に走る車たちを横目に思う。
「大人はいいよな。」
つくづく自分が子供だと痛感してしまう。
椎名に借りたギターとアンプ、それと託された一万円札。早く大人になりたいと、心の片隅に小さな芽が出た盆過ぎの俺がいた。