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第一画  ジブンギライナコノジブン

第一画  ジブンギライナコノジブン


 「ねぇ、まーしゃん、ホントにダメ?」

 「ダーメ! アタシがついてったら、せっかくの決心が意味ないだろ?

それにアタシ、これから部活だし」

 「うぅ……」

 新校舎の外れにある廊下で、こんなやり取りを繰り広げる女子学生が2人。

 『まーしゃん』と呼ばれた方は、ハッキリとした言葉遣いに相応しい力強い目元。妙に凛々しい眉毛が目立つが、決してオトコ顔ではない。むしろ、コンパクトに整った顔立ちが女性らしい。肩甲骨辺りまで伸びる黒髪と合わさって、少々大人びた印象すらある。

 子供っぽいカチューシャと制服がなければ、実年齢よりもっと年上、大学1、2年に間違われてもおかしくない。

 「ほら! 覚悟決めて行ってくる!」

 「でもぉ……」

 対して、先ほどからゴネている方は、やや舌足らずの発声から想像される通りの外見だ。

 身長はまーしゃんより拳1つほど低いだけ。しかし、相手の瞳を上目遣いに見つめ、人差し指で前髪を巻いては解く仕草が、いかにも子供っぽい。

 「部室棟なんて、初めて入るし……」

 肩口までの髪はフニャフニャのネコッ毛で、おそらくは天然パーマ。それも相当に気まぐれなヤツがかかっていて、後ろ髪に至っては寝グセなのか、パーマなのか、はたまた冬の静電気が盛大に発生中なのか、きっと本人すら分からない状態だ。

 長めの前髪の奥に潜むクリックリのどんぐり眼は、日本人離れした薄い茶色。力強いどころか、終始ウルウルとしていて、自信なさげに見える。

 「物事は最初が肝心だからね。最初に付き添うと、次も次も、ってなっちゃうよ」

 積極と消極、自信と不安。いわば対極に見える2人であるが、極めつけは体型、スタイルの違いだ。

 まーしゃんは、ボン・キュッ・ボンのギリギリ手前。妙なフェロモンが出ない程度にメリハリがついていて、高校1年生としてはこれ以上望むべくもない。

 「そうだけどぉ……」

 片やネコっ毛の方は、『お子様体型』と言い表したら最近のお子様は気を悪くするんじゃないか、というレベル。若い子には無限の可能性が……と励ましてあげたいが、本当に無限大の発展が必要なほど、現状は寂しい。

 まさにペタ・ペタ・ペタでペタの3乗、国際単位のペタは『1000兆』だが、彼女のペタは限りなく『ゼロ』に近い。

 「角を曲がるまでは見ててあげるから、1人で頑張ろう。行っといで、えいりゃん!」

 なんだかんだで面倒見の良さそうな『まーしゃん』は、その一言と共に親友『えいりゃん』の肩をポンと軽く押し出した。

 「うん……分かった、頑張るね。でも、ちゃんと見ててね」

 「分かってる、分かってる」

 小声で不安そうに振り向く親友に向かって、親指を力強く立てて見せると、まーしゃんは最後に付け加えた。

 「しっかりしないと、ユキとかに先越されちゃうぞ。

アタシはえいりゃんのこと、応援してるんだから。ね!」

 「が、頑張る」

 高校1年生も終わりに近づいた1月中旬のこと。『えいりゃん』こと一文字(いちもんじ)(えい)は旧校舎、すなわち部室棟へと足を踏み入れた。


****


 「ここ……かな? あれれ?」

 まーしゃんに送り出された永は、キョロキョロしながら旧校舎の廊下を1往復半ほど彷徨った。ようやく、北の外れの一室の前で足を止めたものの、どうにも納得が行かない顔をしている。

  『書導部』

 扉の上の表示板には、そう毛筆で書かれた半紙が無造作に貼り付けられていた。

 入り口の扉はすっかり煤けて、目視でも歪みが分かり、開くかどうかすら怪しい。ガラス部分は茶色く変色した紙で目張りがされていて、中の様子をうかがい知ることはできない。

 そして、何よりも永の心に引っかかるのは、

 「字が……間違ってる」

 いくら漢字嫌い、書道嫌いでも、永は高校1年生である。それも、地元ではそれなりに名が通った蒼星学園高校で、今のところ何とか赤点も取らずに済んでいる。

 さすがに書『導』に気付かないはずがない。

 漢字間違いをするような部活に入っても、意味ないんじゃないのかな?

 それに全然人の気配がしないし、今日は活動日じゃないのかも。

 そう言えば、今日はエプロンとか持ってないから、汚れちゃったら困るし。

 そうだ、またあした出直そう。

 まーしゃんに押し出された勢いが底を尽き、本来の引っ込み思案が屁理屈で武装し始めた時、狙ったかのように扉の向こうから声がした。

 「おい! そこの女?!」

 こちらを誰何する大声は明らかにイラついた様子で、扉の前で延々と逡巡していた永を批難する調子であった。

 「ごご、ご、ごめんなさい!」

 別に悪事を働いていたわけでもないのに、とっさに謝ってしまう永。反射的にその場から逃げようとした矢先、歪みきっているはずの扉が音もなく開いた。

 「ったく、部室の前で何分うろちょろすれば気が済むんだ?」

 声の主は大柄の男子生徒。部室の奥まった所で偉そうに踏ん反り返っている。

 パイプ椅子が小さく見えるぐらいだから、身長180センチではきかないだろう。丸坊主から2ヵ月ほど放っておいた感じの短髪で、広い肩幅。

 運動部まっしぐらな体躯に似合わない丸眼鏡と目の下の隈が、かろうじて文化部の香りを漂わせている。肌の色も日焼けではなく、単なる地黒のようだ。

 額にはなぜか絆創膏が1枚貼られていて、その部分だけ妙に子供っぽい。

 一方、開いたばかりの扉の側には誰もいなかった。部室にいるのは少年1人。

 「で、なんの用?」

 少年は永を一瞥しただけで興味を失ったらしく、視線を手元の本に戻してしまった。

 よく見れば、壁際の本棚や机の上には、図書室ばりに大量の本がある。不思議なことに、書道作品はどこにも見当たらない。これなら、並みの小学校の教室の方がよっぽど書道部然としている。

 部室の後ろ半分の窓には暗幕が張ってあって、さながら理科実験室。残り部分もカーテンが引かれているので、中は異様に薄暗い。

 やっぱり、まーしゃんについてきて貰えば良かった。

 あ、でも墨汁と硯はあるんだ。

 少年と室内の雰囲気に気圧された永ではあったが、視界に入った2つのアイテムが、ここに来た目的を思い出させてくれた。

 「あ、あの……入り口、見たんですけど、ここって書道部ですよね」

 おずおずと尋ねる永の姿は、先ほどよりも一段と小さく見える。

 「入り口?……読めたのか?」

 ページをめくる少年の手が、ピタリと止まる。

 傾いた椅子を元に戻すのと同時に、本を机の上に置いて永の方に向き直る。

 「そこの表札、読めたのかと聞いてるんだ」

 「は、はい。でも、書道の道の字が、

 「読めたんだな!」

 「ご、ごめんなさい!」

 あ~ん、誤字なんて指摘したから怒ってる。

 もう、帰りたいよぉ。

 人気のない薄暗い部屋で2人っきり。

 この怖い人に何かされても、ワタシ抵抗できないし、助けも来ないよぉ。

 どうすれば赦してもらえるんだろ。

 とりあえず、その失礼な妄想をやめることが和解への第一歩、そんな天の声も聞こえてきそうだが、本人は至って真剣である。

 少年はと言うと、脳内妄想まっしぐらの永をよそに、机上に半紙と硯、毛筆を用意、硯に墨液を満たした。

 「入って来い」

 「え? で、でも暗いし人気もないしワタシの力じゃ逃げられないって言うかその……赦してください、ワ、ワタシ好きな人がいるんで、あだっ!」

 突発的にまくし立てる永。

 興奮すると異常な早口になるのはいつものこと、舌を噛んで突然停止するのもいつものことだ。

 あいたた……きのう、佐天君と話した時に噛んじゃったせいで、余計に噛みやすくなってるよぉ。お夕飯、シチューなのに……。

 「なんだオマエ? 白昼夢でも見てんのか?」

 少年は、暴走する永の姿に冷ややかな視線を浴びせた。

 「まぁ、いいや。表札見てウロウロしてたんなら、入部希望なんじゃないのか? だったら、入部届、書いてもらわないとな」

 すぐに気を取り直して、机上の半紙へと永をいざなう。

 「さ、ここだ」

 硯に小筆を立てかける瞬間、暗幕の隙間から入った光に照らされたのか、漆黒の筆軸がボォっと瞬いた。

 「入部届……あ、でもまだ入るって決めたわけじゃ」

 永の言葉は大嘘だ。遅くとも今日の昼休みには、書道部に入ると決心していたのだから。

 「勘違いするな。オレも入れるって決めたわけじゃない。いいから、さっさと書け」

 「は、はいぃ……」

 その決心が10分も経たないうちに揺らぎ始めている。

いや既にポッキリと折れて、表皮一枚で繋がっている。

 だって、『書導部』ってなんだか変だもん。ここに入ったって、きっと……。

 もう1人の自分に言い訳しながら、それでも言われるままに奥へと歩を進める。

 怖い人っぽいから下手に刺激しないように、と言うのは表向きの理由で、結局は相手のペースに巻き込まれているだけだ。

 「あの、何も書いてないですけど?」

 セットされた半紙を見て、囁くような小声で永が疑念を発した。

 そこにあるのは無地の半紙が1枚だけ。入部届であることを示す表示や枠線は一切ない。半紙を押さえる文鎮にも、右側に置かれた硯や小筆にも特別な表示は全くないようだ。

 「そこに名前を書くだけだ。合格なら、そのまま入部届になる。オレがダメだと思ったら、土産に持って帰れ」

 「そんな、一方的です……」

 抗議の声を上げる永。そんな彼女を、少年の言葉が追い立てる。

 「四の五の言ってないで、さっさと書け!」

 「は、はい!」

 永はビックリして腰砕けの状態で着席、言われるままに小筆を手に取る。

 「ん…あれ?」

 軸を手にした瞬間に妙な熱っぽさと言うか暖かさを感じ、永の動きが一瞬止まる。

 「ふう、ん」

 その様子に気付いた少年は、少しだけ目を細めると、永の手元を注視した。

 「ほら、早く書けよ。フルネームだぞ、クラスとかはいらない」

 筆先を硯池に漬けたまま数秒間、永は自分の右手を見つめると、意を決して池から筆先を上げ、半紙に自分の名前を書き始めた。

 一文

 字永

 実にたどたどしい手つき、そして驚異的なまでの悪筆であった。

 かろうじて読むことは可能だが、毛筆初体験の外国人でももっとマシに書けそうだ。

 少年は不釣合いな丸眼鏡をいじりながら、永が書くさまを見つめていた。だが、書き終わるとすぐに半紙から目を離し、永の背後や手元、または部室の中を見回し始めた。

 それもほんの数秒でやめると、永の方に向き直る。彼女は、ちょうど余った墨汁を硯の縁でこしとってから筆を置いたところだった。

 「あの……書きました」

 「ひどいな。見た目が小4なら、書く字は小2以下だ」

 顔全体にガッカリ感を漂わせながら、少年が言い捨てた。

 ひ、ひどいのはアナタじゃない!?

 そりゃ、まーしゃんが『永は中2って言っても通るからなぁ』って言う時は、正直、オマケしてくれてるんじゃないかな、とは思うけど。

 それでも、せめて中1には……んと小6くらいには見える自信、ある、もん。

 それに、字が汚いのは、

 「高校生で自分の名前の書き順を間違ってる奴、初めて見た」

 「え?」

 「『文』の字。3画目にコッチ先に書いただろ? 左右間違ってんぞ」

 「あ!」

 いつの間にか用意された朱で、書き上がったばかりの半紙に直しを入れられてしまった。

 永は、慌てて左手の人差し指で空中に文字を書いてみる。

 「ちょっと待った! オマエ、左利きか?」

 「は、はい。そうですけど」

 つかまれた左手首が少しだけ痛んだが、指先は『永』の字を書き終わるまで動かし続けた。地味にしぶといのも、3人姉妹の真ん中である永の特徴だ。

 「なるほどねぇ。つまり右手は、スクライビングに不慣れってことか。普段と逆の手で書くと、見える景色も違うしな。どうりで」

 永の手首を開放した少年は、腕組みをして1人納得していた。

 自由を取り戻した永は右手で左手首をさすりながら、怒る風でもなく、少年の一言に共感していた。


 そう、

 右手で筆を持った時は目の前に広がる光景が全然違ってて、

 いつもは見える部分が見えなくて、

 そこを目で追うと体と視界が傾いちゃって、

 なんとなく周りが歪んで見えて、

 いま書いてるのが何かも分からなくなってきちゃって、

 書き上がった字も最悪で、

 でも左手で筆を使うと筆先が割れて使えないし、

 左利きって言うと『ああ、だからか』って分かったように言われちゃうし、

 右でもヘタクソだと分かると『あれぇ?』って笑われるし、

 だから、筆なんて大っ嫌い。字を書くのも嫌い。

 

 「オマエ、よく息が続くな」

 気がつくと、丸眼鏡の意地悪な人が、眼鏡の奥の眼もまん丸にして、ワタシを見つめていた。

 もしかして今の、声に出してた?! どこからどこまで?

 「ってことは、今のは無効だな。オマエ、なんかお気に入りの筆記具で書き直せ」

 「それって、どういう?」

 「はぁ? オンナだったら、なんか1本くらいあるだろ。色が可愛いとか、好きなキャラクターがついてるとか、どーでもいい理由で気に入ってるボールペンとかシャーペン。そういうのでいいんだよ。

 とにかく、自分が一番気に入ってる奴だ。それで書き直せ」

 少年は乱暴に言い放つと、永が記名したばかりの半紙を丸めてポイ。フェルトの下敷きも脇に除けた。

 続いて、戸棚から埃をかぶったビニール袋を引きずり出すと、中から色紙を1枚サルベージ、永の目の前にセットした。

 「半紙ってワケにも行かねぇだろうから、コイツに書きな」

 金箔に縁取られた正方形の厚紙を見て、永は動揺した。

 まさか、書いた物を壁に掲示されたりするんじゃあ……。でも、ワタシの一番の筆記具って言ったら、

 「コレ、だよね……」

 愛想のない本革の筆入れから取り出したのは、1本のボールペンだった。

 インクがゲル状の、特に珍しくもない普及型の品物だ。キラキラとラメの入ったキャップもどうってことはないが、インクの色はやや独特だった。

 乳白色がかったピンクに銀色のアクセントが混じる、まさにファンシーな色。

 一昔前に女子中学生の間で流行ったシリーズのペン。今となっては生産中止で、誰もが記憶から抹消しかけている物。それが、一文字永の『とっておき』だった。

 どうしよう、この色紙にピンクのボールペンで?

 あの時用にとっとこうって思ってたのに。インク、無くならないかなぁ……。

 ボールペンを持ったまま躊躇する永の姿を見て、『丸眼鏡の意地悪な人』が決断を促した。

 「どうした? 変えたいことがあるからココに来たんじゃねぇのか? だったら、4文字分のインクぐらいは覚悟してもらわないとな」


 そうだ。ワタシは、そのために来たんだった。


 自分が来た動機を少年が知っている風であることに疑問も抱かず、永は意を決してペンを握り直すと、ペン先を色紙の上に降ろした。一画、一画、丁寧に。


 ワタシは変わるんだ。

 この汚い字、みんなに見せられない字を捨てて、

 勇気のない自分ともサヨナラして、

 そして、今の自分じゃない新しい、


 「ふぅ……」

 長い時間をかけて、今度は縦書き1行で自分の名前を書き終わると、ペンのキャップを丁寧にしめる。と同時に、ほとんど止めていた息をゆっくりと吐き出す。

 「文字の機能としては、ギリギリだな」

 今度は利き手にボールペンで書いたのに、右手&筆で書いた字と比べても大差ない悪筆である。ミルキーピンクにメタリックのアクセントまで付いた色使いが、終わってる感に拍車をかける。

 「だが、今回は……うん」

 先ほどと変わらない、誤字寸前の4字だが、少年は満足そうな声を上げる。

 「ん……あれれ?」

 永の眼には、色紙に書いたばかりのインクがぼんやりと光っているように見えた。

 その光がだんだんと大きくなってきて、

 「あぶねぇ!」

 光が炸裂するのとほぼ同時に、永の体は大きな衝撃を受け、部室の中ほどまで吹っ飛ばされた。正確には、少年が永に飛びかかって、自分もろとも永をそこまで移動させた。

 「あいたたた」

 一体、このヒトは何を……ってヤダ! スカートめくれてる!

 尻もちをついた永は、慌ててスカートの裾を直すと、少年の様子を確認した。

 良かった、見られてない。

 少年の視線が、寸前まで自分たちがいた場所、色紙の置かれた机に向けられていると知って安心したのも束の間、永の視線も少年と同じ向きで固まった。

 「うそ……」

 机の上には、永に似た姿をした物体が1人、いや1体いた。

 背格好も服装も、顔の各部の特徴も似通っている。

 違いと言えば、永がどう頑張っても出来なさそうな、非常に攻撃的な表情を浮かべている点だ。

 「やべぇな」

 右袖から流れる血を舐めながら、少年は不快そうに吐き捨てた。


****


 「なな、なんですか、アレ?」

 「見りゃわかんだろ、オマエだよ、オ・マ・エ」

 机上で身構える永のそっくりさんは、こちらを睨みつけながら、うなり声を上げている。

 鋭い牙はあるわ、よだれは垂らし始めるわ、スカートから伸びる脚はやけに筋肉ムキムキだわで、凶悪なこと甚だしい。

 こんなのを『オマエだ』と言われても、俄かに認めたくはない。でも、あの牙を抜いたらワタシに見えなくもない?

 一方、丸眼鏡の少年はというと、流れ出る血を気にする素振りも見せずに立ち上がり、机上の怪人と睨み合った。ちょうど、永の真正面に立って、彼女を守っている格好になる。

 「メジャーな呼称で言えば、ドッペルゲンガーってヤツだな。名前くらいは聞いたことあんだろ?」

 「出会ったら死ぬ、っていうアレですか?」

 「それそれ、知ってるじゃないか。で、見りゃ分かるだろうが、アレがオマエのドッペルゲンガーな」

 事も無げに言い切る少年とは対照的に、永の心は大わらわだ。


 どどど、どうしよう。会っちゃった、コレって出会っちゃってるのよね?

 まだ15なのに!

 キスもデートも、それどころか告白すらしてないのに、死にたくないよぉ。


 「おいおい。また口に出てんぞ」

 目の前に立ちはだかる少年の広い背中が、僅かばかりすくめられた。

 「ま、安心しな。オレがいれば、死ぬようなことはないからよ。

キスやデートできる日が来るかどうかは、知ったこっちゃないけどな」

 軽口を叩きながらも、少年は永のドッペルゲンガーから目を離さない。ドッペルゲンガーの方も、机の上を少しだけ前進して間合いを詰める。

 そして、

 〝キシャアァッ!〟

 これまで、そしてこれからも、本物の永は発しないであろう邪悪な奇声を上げて、ドッペルゲンガーが飛びかかって来た。その指先にはギラリと光る長い爪が見える。

 少年は膝を曲げて構え、

そして突然、永の視界から消えた。

 代わりに永の目の前には、爪を振りかざすドッペルゲンガーが!

 「ぎゃあっ!」

 死ぬまで発するはずがなかった奇声を上げて、横っ飛びに転がる永。

 かろうじてドッペルゲンガーの爪をかわした彼女の眼に映ったのは、身を翻して机の向こう側へと転がり込む少年の姿。

 ウソ? 守ってくれてたんじゃなかったの?!

 振り返ると、ドッペルゲンガーが勢い余って部室の端っこの机の山に突っ込むのが見えた。潰れた机を押しのけながら起き上がる彼女?の額は、パックリと割れている。自分と同じ顔が流血する姿は、見ていて気持ちの良いものではない。

 やだ、スカート……。

 永の目に留まったのは、自分ではなくドッペルゲンガーの穿くスカートだった。今しがたの自爆のせいで大きく裂け、太もも辺りまでが露出している。

 「え、えと。ちょっと何とか……」

 ドッペルゲンガーだけに、自分の分身の様に感じるのは理解できよう。とは言え、自身の命が危険に晒されている時に、分身の肌の露出を恥ずかしがるとは、変な方向でマイペースだ。

 その間にも、立ち直ったドッペルゲンガーが、永に向かって第2次攻撃の構えを見せる。

 「おい、ブス」

 不意に部室の反対側から声がした。

 ドッペルゲンガーはともかく、不覚にも永さえもが、その声に反応してしまう。

 声の主は、丸眼鏡の少年。机に腰掛け、右手には飴色の軸の小筆を、左手には細長い台帳を持っている。少年は筆先を机上の硯に漬けながら、左手の中指を立てて挑発した。

 「テメェの相手は、このオレだ」

 少年の言葉を理解しているかは怪しい。それでも、ドッペルゲンガーは自らに向けられた敵意に反応して、矛先を少年へと変えた。

 妙に猫背で、牙の先からは唾液が滴っていて、それでも顔の基本構造は一文字永そのまんま。怪物は、足元を確かめながら一歩一歩、丸眼鏡の少年に近付いていく。

 「とは、言うものの。抹殺するわけにもいかないんだよな」

 ドッペルゲンガーとの距離を保ちつつ、手にする台帳に何やら書き付けた少年は、筆を人差し指と中指の間に挟むと、台帳から1枚目の紙を剥ぎ取った。

 「とりあえず、これか」

 文字らしきものが墨で書きつけられた紙を手に、ドッペルゲンガーと対峙する。

 その姿は、永がかつて動画サイトで見たキョンシー映画の導師にも似ている。最大の相違点は、動きの鈍いキョンシーからお札を剥がすのが目的ではなくて、それよりも攻撃力も機動力もありそうなドッペルゲンガーにお札を貼ろうとしている点だ。

 あの牙や爪を避けた上で、体に触る。先ほどの衝突でグシャグシャになった机を見れば、それがいかに難題かが分かる。

 「一文字!」

 「は、はい、なんでしょう?!」

 少年は、ドッペルゲンガーに合わせて室内を徐々に移動しながら、いきなり永の名前を呼んだ。

 「オマエ、何かスポーツとか出来るか?」

 「いえ、全般的に不得意です……」

 「やっぱ、そうか。体も硬いな?」

 「は、はい。すみません」

 低身長、悪筆……永が気にする部分を無神経に指摘し続けてきた少年は、今度は彼女の運動神経まで否定した。しかも、それが見事に正解だからタチが悪い。

 「じゃ、なんとかなるか。行くぜブサイク!」

 嘲るように罵声を放つと、ドッペルゲンガーに飛びかかっていく少年。

 その言葉を聞いて、永の胸がチクリと痛んだ。実際のところ、ドッペルゲンガーは時間を追うごとにヤバイ風貌になってきていて、永本人とは随分かけ離れているのだけれど。

 「ハズレっ!」

 ドッペルゲンガーの懐に飛び込む素振りを見せた少年は、振り下ろされる爪を前転で回避すると、背後に回りこみ、振り返りざまに後頭部にお札を貼ろうとする。

 「ぐっ!」

 すかさず飛んできた後ろ蹴りが、体重をかけた直後の左脛にかすり、思わずよろめいた少年。続けて、反転しながらの裏拳が襲う。

 両膝の力を瞬時に抜き、沈み込んでかわすと、後転を入れて再び距離をとり、立ち上がってドッペルゲンガーと正対する。

 「あっぶねぇ……」

 あの爪をまともに食らったら、ただでは済まない。必然的に、少年はヒット・アンド・アウェイ戦法を取ることになる。

 一瞬のスキを狙って接近しては、深追いせずに離れる。そんな攻防を何度か繰り返すうちに、徐々にドッペルゲンガーの攻撃が正確さを増してきた。かする程度とは言え、かわし切れない攻撃が増えてきた。逆に、少年は未だに一撃も入れていない。

 「ホントにオマエの分身か、っつーくらいにパワーアップしてやがんな。

一文字、なんか他にオマエの欠点とかないのか?

胸がねぇとかは要らねぇぞ。運動とか頭脳関係だ」


 が~ん!

 ついに胸まで。

 そんなこと分かってるけど、まだ発展途上だもん、

 だよね……

 だといいなぁ。

 神様、お願いします!


 「えと……よく、つまづきます」

 ディスりの嵐にもめげず、永は自らの短所を更に1つ付け足した。

 この悲しみは、就活の際の自己分析に生かされると信じたい。そうでも思わないと、やってられない。

 「……評論は勘弁してやる。この際、ベタだがやってみるか」

 少年は机の上に残されていた文鎮、いかにも学習用品な金属メッキの角棒、を左手で持つと、ドッペルゲンガーの視界から消すために背中側に隠した。

 そして、ドッペルゲンガーの顔をにらみつけると、右手のお札を今一度握り直してから、大きく一歩踏み込んだ。

 〝ギョオォッ!〟

 少年の動きに触発されたドッペルゲンガーが、一層醜悪な叫び声を上げた。さすがに今度こそは、永も真似できないだろう。

 「そこっ!」

 怪物が自分に飛びかかるタイミングを見計らい、少年はすかさず、その足元に先ほどの文鎮を放り投げる。

 いつの間にか裸足になり、足の爪さえ鋭く露出させていたドッペルゲンガーの右足が、文鎮の上で大きくステップを踏み、

  ズルッ!!

 見事に前のめりに転んだ。

 「しめた!」

 少年は間髪いれず、うつぶせ状態のドッペルゲンガーにのしかかり、後頭部にお札を貼り付ける。

 お札にはカタカナの『ト』を複雑にしたような図案が書かれている。それは金色に輝いたかと思うと、ほんの数秒で紙と共に消えた。

 「あっぶねー。やられるかと思った」

 額の汗を拭いながら、少年はドッペルゲンガーの腰の上に座り込んだ。

 ほんの1、2分の攻防なのに、見るからに息が上がっている。対するドッペルゲンガーはというと、ピクピクと体を痙攣させたままで動かない。

 「やっつけた、んですか?」

 部室の片隅で戦いの惨禍から逃れていた永が、少年とドッペルゲンガーの様子を窺う。

 「そうしたいのはヤマヤマだが、一時的に拘束しただけだ。こいつをぶっ殺すと、オマエに悪影響があるかも知れないからな」

 「ほぇ?」

 予想外の一言に、間抜けな応答をしてしまう。

 やっつけられないとしたら、どうすればいいのだろう? まさか、このまま!?

 「コイツは、モジバケって言ってな。書かれた文字が、間違った形で発現したモンだ。で、その文字を書いたのはオマエ。

抹殺してもいいんだが、もしかしたら、いや結構な確率で、オマエに何らかの反動が来る」

 えぇ~っ!

ワタシの書いた文字がどうとかいう時点でプンプン臭ってるけど、とりあえず『反動』って何?!

 「だから、巧いこと状態の正常化を図って、穏やかに消えて欲しいんだが、

 「じゃあ、さっきみたいにお札を貼ればいいんですね」

 「理論上は」

 「え?」

 「オレは攻撃系はともかく、回復系は不得意だ。たぶん、書いてもハツドウしない」


 それって、どういうこと?

 この人は攻撃しか出来なくて、

 でも、やっつけちゃうとワタシに悪いことが起こって、

 このままだとドッペルゲンガーが動き出して

 ……どっちにしても、ワタシが悲惨な目に遭うってこと?!


 「そんなわけで、オマエがなんとかしろ」

 丸眼鏡の少年はやや腰を浮かし、それでもドッペルゲンガーの背中に馬乗りになったままで、永にとんでもない要求をした。

 当のドッペルゲンガーは、手足の痙攣の幅が徐々に大きくなってきているように見えた。背筋もゆっくりとうねり始めたようだ。

 「……」

 予想外の指示に言葉を失う永。それに構わず、少年は言葉を続けた。

 「ドッペルゲンガーをゴドーしたくらいだ。おそらく、オマエにはチカラがある」

 「ゴドー? チカラ……って?」

 「コイツを正常化させるような、自分が書いた文字に戻すイメージを心に描きながら、文字を書け。そして、オレがやったように貼り付けろ。なるべく頭部に近い所だ」

 「で、でも、どんな字を?」

 先ほど少年が書いたような特殊な文字など、永が知るわけもない。

 「オマエの感覚に任せる。いいから早く、わっ!」

 言い終わらないうちに、ドッペルゲンガーが麻痺から回復し、背中に乗る少年を跳ね上げた。不意をつかれた少年は、まともに床に叩きつけられ、苦しそうに咳き込む。

 立ち上がったドッペルゲンガーが最初に目に入れたもの、それは永の姿だった。

 「あ……」

 筆入れからお気に入りのペンを取り出したばかり。顔を上げた瞬間にドッペルゲンガーと目が合ってしまった。

 「ちょちょ、ちょっと待って。あれ? さっき、ここら辺に……」

 ペンは手にしたが、お札にして貼り付けるべき紙はまだだ。

 しかし、ドッペルゲンガーの最優先標的になってしまった永は、自分の分身から目を離すわけには行かなくなった。数秒前の記憶を頼りに、手探りで紙を探す。


 どうしよう、

 何を書けばいいの?

 落ち着けワタシ、

 あんなのウチのお婆ちゃんに鈎爪がついてる程度じゃない、

 ってソレ、十分怖いよぉ、

 ……じゃない正常化正常化、

 元の状態に、

 正しい状態に、


 机上をさ迷っていた永の右手が、ようやく紙らしき物をつかむ。

 すかさず取り上げると、それは折込チラシの裏紙を束ねた物だった。魔法まがいの儀式に使うには、どうにも頼りない。

 「あっ! そうだ!」

 だが、それを見た永はパッと表情を明るくすると、ミルキーピンクのペンでサラサラと文字を書き綴った。

 「来るぞ!」

 少年の声と同時に、ドッペルゲンガーが飛びかかってきた。

 永は机の下を潜って最初の攻撃をかわすと、床に転がる文鎮を拾ってから少年の傍に立った。少年はものの見事に息が上がったままで、未だに立ち上がれない様子だ。

 てっきり、共同戦線を張るんだと思ってたのに。

 「スタミナ、ないんですね」

 「うるせー! なんとか星雲から来た赤と銀の巨人だって3分しか保たねぇだろが!」

 「赤と銀の人は、その3分で何とかしてますよ」

 「ちっ! 悪かったな!」

 永からの口撃が予想外だったのか、単に痛いところを疲れたからなのか、ワケの分からない言い訳をする少年。それを尻目に、永は左手にチラシの裏紙、右手に文鎮を構えた。

 その表情は既に覚悟を決めている。

 「おい、同じ手が二度は通じないと、

 少年の忠告に耳を貸さず、永はドッペルゲンガーに向かって1歩踏み出し、よりにもよって単に文鎮を投げつけた。

 「えいっ!」

  がしっ!

 小柄で華奢な少女が、利き腕とは反対の腕で投げても何ほどのものか。文鎮は、ドッペルゲンガーにやすやすとキャッチされた。しかも、左手で。

 怪物が本当に永の分身なのだとしたら、利き腕も永と同じ左腕。永は、敵にわざわざ武器を与えてしまった格好になる。

 案の定、ドッペルゲンガーは棒形の文鎮を武器として認識し、永に向けて構えた。

 だが、永はそのことを気にする風でもなく、ゆっくりとドッペルゲンガーに近付いていく。それも、こともあろうに、いまや武器を持った左側に回りこむように。

 「待て! 少しは考えろ! くっ!」

 永の無謀な行動を見かねた少年は、再び右腕から流れ始めた血を使って、指で台帳に文字を書き込もうとするが、疲労と痛みでまともに筆記ができない。

 そうこうするうちにも、永とドッペルゲンガーの距離は縮まってゆく。


 アレがワタシの分身なら、


 牙をむき出し、うなり声を上げながら自分を凝視する怪物を睨みつけながら、永は考えていた。


 アレが本当にワタシの分身なら!


 ドッペンゲンガーが、文鎮を持った左腕を振り上げると同時に、永は思いっ切り踏み込んで怪物に接近した。


 ワタシなら……当たらない!


  しゅっ!!

 特に永の動きが速かったわけでも、巧みだったわけでもない。だが、怪物が振り下ろした一撃は、永の髪を凪いだだけで空を切った。テニスやバドミントンでの空振りを彷彿とさせる、いかにも不器用なスウィング。

 だが、それでも永と怪物との間には、まだヒト1人分ほどの距離があった。永のリーチでは、相手の頭部には微妙に届かない。間合いを詰めてチラシを貼り付けようにも、振り下ろされた左腕を引き上げての肘打ちが先んじそうである。


 大丈夫!


 永は迷わず間合いを詰めた。なぜか、怪物の動きが一瞬止まる。

 そのスキに永は、怪物の真横に寄り添うように立ち、

  ぺたり

 チラシの裏紙を、その後頭部に貼り付けた。

 永と同じく、パーマがウネウネとかかったドッペルゲンガーの後ろ髪。そこに一瞬だけ、ピンク色の光で『正』の字が浮かぶと、ドッペルゲンガーは蜃気楼のように消滅した。

  ことん

 ほんの1秒前にドッペルゲンガーが立っていた場所に、先ほど永が記名した色紙が舞い落ちた。ピンク色の文字もそのままで。

 「ふえぇ……」

 永は、凶悪な分身の消滅を確認した途端、情けない声を上げてヘナヘナとその場に座り込んでしまった。


****


 「その、文字の持つ力、とやらとワタシの力が合わさった結果が、さっきのドッペルゲンガーだって言うんですか?」

 「簡単に言えば、な」

 ドッペルゲンガー消滅後、暫く床にへたり込んで呆けていた永だが、少年が右腕を止血する姿を見て我に返った。手持ちのハンカチを差し出して応急処置を手伝うと、少年は永に改めて椅子を勧めた。

 丸眼鏡の少年の名は、雛鳥(ひなどり)(とうと)弌年陸組(いちねんろっくみ)の生徒、つまりは同級生だ。ちなみに、永やまーしゃんは弌年壱組に所属している。

 尊は一年生ながらに、この部室を使用する『書導部』の部長を務めている。部長とはいうものの、他に部員はゼロ、幽霊部員すらいない。

 部室棟として使用されている旧校舎の教室数が存外に多い事情と、マイナー部活に好意的な生徒会長の温情で、余った机の置場であるこの教室を使用することを許されている。

 「馬鹿にも分かるように説明すると、霊感みたいなものだと思ってくれていい。入り口の表札は、能力のないヤツには無地に見える」

 「あ、あの間違った字の、

 「間違いじゃねぇ! 『書で導く』で正しいんだよ。

文字が本来持つ力と、人間の潜在能力を融合させて、様々な事象を操る術、それが書導だ。その効果を発生させることを、発するに導くで『発導(はつどう)』と呼んでいる」

 「さっきの、ドッペルゲンガーを呼び出したりとか?」

 「ありゃあ、誤って導くと書いて『誤導(ごどう)』、誤作動みたいなもんだ。オマエの書式がおかしかったから、間違った形で発導したんだ」

 「そんなぁ……」

 事情を何も知らなかったんだから、ワタシの間違いだなんて言われても。まぁ、事情を聞いた今でも半信半疑だし、ちゃんと使えるとは思えないけど。

 「ほとんどの場合、間違った書式は何も結果を生じない。実際、オマエが最初に右手で書いた時は何も起きなかっただろ」

 尊の説明は続く。

 本当のところ、永はやや置いて行かれている。だが、今まで散々欠点を指摘されているだけに、『馬鹿でも分かる説明』が理解できてないなんて気取られるわけにはいかない。

 「だが、ごく稀に、エラーを含んだ形で結果が実体化することがある。そんな風に顕れた化物を、オレたち書導師はモジバケと呼んでいる。文字が化けた怪物と書いて『文字化怪』な」

 「ん~、間違ってシャツの袖に脚を通しちゃったけど、なんとなく穿けちゃった。けど、やっぱり変、みたいな感じですか?」

 「……馬鹿以下の考える例えはワカランな」

 「うぅ……」

 分かっていないことを誤魔化そうとして、墓穴を掘ってしまった。またもや尊からなじられ、凹む永。

 「ふん……なるほど、そういうことか」

 自信なさげにしょげる永を見て、尊は納得の表情を浮かべた。

 「さっきのドッペルゲンガーな、形質的な異常や知能の低さは、オマエの悪筆が1つの原因だ」

 「はぁ……」

 永はますます肩をすくめる。すると尊は突然、こんなことを尋ねた。

 「オマエ、自分自身が好きじゃないだろ?」

 「え?」

 「自分のことを肯定的に捉えてないだろ、って言ってんだよ。

ドッペルゲンガーってのは、そういう奴が誤導させちまうんだ。だから、見た奴は死ぬ。自分を嫌う気持ちがドッペルゲンガーにもコピーされてるから、本体を襲ってくるのさ」


 だって、仕方ないじゃない。

 見ての通りのお子様体型だし、

 まーしゃんみたいにキレイでスポーツ万能でもないし、

 字も汚いし、

 不器用だし、

 くせっ毛だし、

 それに…


 自己嫌悪の悪循環に陥り、目に涙まで浮かべ始めた永。

 「辛気くせえなぁ」

 その姿を見て、呆れたように尊が言った。

 「正直、オマエのことは全っ然、知らねぇけど。あの字が見える、イコール書導の資質があるってだけで、10万人に1人もいねぇんだぞ。しかも、あんだけのドッペルゲンガーを出せるなんて、その中の1%弱。それこそ、漢の仙人が泣いて悔しがるレベルだ」

 「でも、あんなの出しても困るだけだモン。書導っていうのは、結局は字が汚いと正しく出来ないんでしょー?」

 永はすっかり凹んで、と言うか拗ねてしまっている。喋り方がまるで子供だ。

 「あ~あ」

 若干、怒気を含んだ声でため息をついた尊。

 椅子の背もたれが歪むほど大きく後ろに反り返ると、天井を見据えたままで続けた。

 「調子ん乗るといけねぇから、黙っとこうと思ってたけどよ」

 永に釣られたわけでもないだろうが、口を尖らすようにして喋る姿は、拗ねているようにも見えた。

 「さっき書いた、『正』の字あるよな? アレは完璧だぞ、神の域だ。神が言うんだから間違いない」

 「プッ!」

 永は、尊の口から思いもよらぬ言葉を聞いて、思わず吹き出してしまった。

 何を言い出すかと思ったら、

 「もしかして、ツンデレ路線、狙ってますか?」

 「んだと?!」

 落ち込む永を何とかしたいと思ったのも確かだが、どちらかと言えば、永が過剰に自分を卑下する姿にイラついたからという理由が主だった。

 それが、ツンデレ・キャラを演じていると解釈されるとは、不本意を通り越して屈辱だ。

 「あはは、こう言ったら失礼ですけど、似合わないですよ。それにツンデレは、もっとツンで引っ張らないと深みがないですし」

 「……この、ツルペタ女が」

 高1にして187センチという体と、乱暴な口調、そして良好な学業成績。入学以来、尊は常に一目置かれるというか、人から距離を置かれる立ち位置にいた。

 その自分に対して、このような安っぽい評価を下す奴がいるとは。それも、たった1つの文字を書くのが上手いだけが取り柄の、チンチクリン女がだ。

 「まぁ、いい」

 尊は驚きのあまり、永が丁寧語に戻ったこと、つまりいつもの彼女に戻ったことに気付かないまま、仕切り直しを試みる。

 「それで?! いわゆる普通の書道をやりたいと思った理由は?! 3学期にもなってから行動を起すんだ、なんかあるんだろ?!」

 努めて平静を装う尊だが、語尾の鋭さに攻撃性がアリアリと見て取れる。

 一方、ツンデレ尊に失笑した永は、すっかり機嫌を直したらしく、唇に指を当てながら話し始めた。

 「え、と。やっぱり見ての通りの字の汚さなんで……それを直したいなぁ、って」

 「そりゃそうだろうけどよ。オレに言わせれば、何で今さら、って部分を聞きたいワケ」

 「それは、その……」

 尊の容赦ない追及に、永は言葉を濁す。

 たかだか入部動機である。そんなに深刻に考えなくても、適当に答えておけばいいようなものだが……。

 「なんと言いましょうか……」

 それが出来ないのは、永の心根が真面目だからでもあるが、ジッと見つめる尊の目に宿る独特の威圧感による方が大きい。

 「最初に筆で書いた時、あまり気乗りしてなかっただろ?」

 「やっぱり、右で書くこともないので……文字というよりデザイン感覚になっちゃいますから」

 「ふぅん。つまり、やるなら利き手でボールペン習字、みたいな感じか?」

 「はい」

 「なんだ。男か」

 「えぇっ!」

 つまらなそうに言い捨てる尊を見て、永は仰天する。

 なに? この人、エスパー?

 「いや、さっき戦ってる時に告白とか、ブツブツ言ってたからよ」

 「あ……」

 「けっ!」

 真っ赤になる永の純情さも、尊の心を動かす気配は全くない。

 何しろ、興奮してパニック状態になり、心の声を早口でさらけ出す姿を二度三度と見せられたのだ。思い出したようにシャイになられても、今さらである。

 「くっだらね」

 両の掌を軽く挙げ、失望感をあらわにした尊は、パイプ椅子の位置を戻し、机上の色紙に手を伸ばす。

中央には、ドッペルゲンガー出現の原因となった、というより先ほどまでドッペルゲンガーに変化していたミルキーピンクの文字が記されている。一方、永が『正』の字を書いたチラシの裏紙は、効果の発現と共に消滅してしまっていて跡形もない。

 「特別可愛いわけでもない、体型は小学生、運動神経ナシ。成績は?!」

 「え、あ、んと。中くらいです」

 「しかも、押しの弱い性格、と。ま、行き着くところはラブレター。ところが、書く字がこの有様ってことか」

 ピンクの文字色は別として、女子高生が書いたとは到底思えないほどに刺々しい4文字を眺めながら、尊のコメントは容赦ない。

 「……ごめんなさい」

 「いや、オレはどうでもいいんだけどよ。お前の欠点を補うほどのラブレターに相応しい字が目標だろ? 分かってるだろうけど、難題だぞ。

いっそ、告って玉砕した方がスッキリすんじゃねぇの?」

 「ぎょぎょ、玉砕?!」

 「玉砕で思い出したんだが」

 不満そうなふくれっ面を見せる永を完全無視、尊は人差し指を立てて、天井を見上げた。

 「ドッペルゲンガーに武器まで与えた挙句、不用意に接近してっただろ? ありゃなんだ? オレに言わせれば、頭がイカレたようにしか見えなかったんだが」

 「ああ! あれですか」

 ふくれっ面が一転、余裕の笑顔になると、今度は永が解説を始めた。人差し指を立てる仕草が、変に芝居がかっている。

 「ワタシって、スポーツ全般がダメなんですけど、特に道具を持ってやるのは壊滅的なんです。テニスとかバドは、空振りばかりです。ソフトボールなんて、バットに当たったことありません」

 「なんか、雲行きが怪しくなってきたな」

 「でも、素手でやるのは多少はマシで。例えば金魚すくいなんて、まーしゃんよりずっと上手いんですよ。だから、さっきのアレ、

 「文字化怪(もじばけ)

 「そう。その文字化怪さんがワタシの分身なら、道具を持たせた方が、かえって安全かなぁ、って考えたんです」

 結局は自らのトロさが勝因なのに、永はなぜだか自慢げである。


 金魚すくいをスポーツに入れるな。

 しかも『まーしゃん』の腕前はおろか、顔も知らねぇぞ。

 何よりも文字化怪に『さん付け』すんな。


あふれ出そうな突っ込みを必死に飲み込み、尊は2つ目の疑問点への回答を促した。

 「それじゃ、わざわざ武器を持った側に回りこんだ理由は? いくら空振りが期待できるったって、武器のある方に回り込むのは危険だろ」

 「それですか? ワタシとまーしゃんが一緒に歩く時は、あ、まーしゃんってのは同じクラスで幼馴染の赤坂(あかさか)禾生(かせい)ちゃんのことなんですけど、

 おい! それって関係あることなのか?

 でも、これで『まーしゃん』の正体が分かった。壱組の赤坂なら、評判くらいは聞いたことがある。サッカー部のマネージャー兼プレイヤーで有名なオンナだ。

 「まーしゃんとワタシが歩く時は、昔っからワタシが右で、まーしゃんが左なんです。いつもまーしゃんが左側を護ってくれてるから、ワタシって左から飛んでくる物とかには、ひときわ反応が鈍くて」

 「同じことを文字化怪にも期待したってことか」

 「はい!」

 自分の鈍さ自慢で、これだけ幸せそうな笑顔を浮かべる人間も珍しい。優しい表現にとどめるなら極度の天然、ストレートに言えばアホだ。

 しかし、そんなことよりも尊の心を捉えたものがある。

 あの場面で、そこまで冷静に自己分析をした上で、迷わず作戦を実行したという事実だ。

 「ふむ」

 尊は色紙を持ったまま、右手の人差し指で空中に『正』の字を書く。文字化怪を倒す決め手になった、永の書いた文字がよほど気になるようだった。

 「ラブレター用のペン字の練習ね。正直、そんな下らないことは通信講座でやってくれ、と思うし、オレ自身、ペン字は得意じゃないんだが、

 「下らなくないです……でも、得意じゃないなら仕方ないですね」


 それに、こんなにやたらと悪口ばっかり言われたら、心が折れちゃうし。

 それこそ、ホントに通信でいいかも。

 

「でもまぁ、一度は入部届を書いて貰っちまったからなぁ……イシュ」

 永の辞意には耳を傾けず、小筆を取り出したと思うと、謎の言葉を発しながら色紙の『一文字永』の真上に縦の一本線を引く尊。

 その文字は、1秒ほど青白く光った後、なんの痕跡も残さずに消滅した。永はと言うと、机上のペン立てから黒いマーカーを取るのに夢中で、尊の一連の動きには全く気付いていない。

 「入部届なんて取り消しちゃえばいいんです。こうやって……あれれ?」

 極太の黒ペンでグチャグチャと自分の名前を消そうとする永だが、書いたそばから黒線が消えてしまう。尊は、その様子をニヤニヤと眺めていた。

 「凍結のルーンを発導させた。その色紙の状態を変えることは不可能だ」

 「それなら……ん~っ!」

 名前の抹消を諦めた永は、色紙その物を破こうと試みる。

 だが、書導師が正確な書式で発導させた効果が、女子高生の力技で打ち破れるはずもない。色紙は、まさに凍りついたように硬く、永の力ではしなりさえしなかった。

 「もういいです……幽霊部員になればいいだけですから」

 永は自分が書いた色紙に翻弄されて、少なからず傷付いた。そして、無傷の色紙を机上に放置したまま、出入り口の扉に向かって歩を進めた。

 もう、こんなに暗いんだ……。

 廊下越しに見える屋外は、既に日没を過ぎて真っ暗だった。

 「まーしゃん、待っててくれるかなぁ」

 永は携帯電話を持っていない。電話やメールで急いで連絡、とは行かないのだ。

 「おい……」

 背後で尊が何やら言っているのが聞こえたが、永は耳を貸さずに、まーしゃんこと赤坂禾生との待ち合わせ場所、新校舎の下駄箱前に向かった。


****


 「お、えいりゃん! やっと来たか。結構かかったね」

 「う、うん。色々あって……って、佐天君?!」

 いかにも運動神経のなさそうなペタペタ走りで、禾生との待ち合わせ場所に駆け付けた永は、まーしゃんの横にいる男子に気付いてビックリした。

 「あ、永ちゃん、お疲れさま」

 声の主は同じクラスの佐天(さてん)祐自(ゆうじ)。禾生と同じくサッカー部だ。

 「さ、佐天君もお疲れさま」

 そして、この佐天祐自こそが、永の意中の人だ。既に判明していることだが、告白はまだである。

 「祐自が通りがかったから、引き止めといた。近所なんだし、一緒に帰ろ」

 永の想いを知っている禾生は、さりげなく永に現況説明を行う。

 祐自と一緒だったわけじゃないよ。そう教えられることで、永の心は無用な勘繰りをしないで済む。

 「ま、ユキがまとわりついてたから、追っ払っといたけどね」

 佐天に気付かれないように、永に向かってウィンクする禾生。

 そうなのだ。サッカー部の主力である佐天は、社交的な性格も手伝い、男女問わずに人気がある。

 不思議と今まで彼女を作ったことがなく、数多の女子が告白して撃沈しているのだが、それでも彼を狙う者は後を絶たない。禾生と同じくサッカー部のマネージャーを務める参組の(きし)幸生(ゆき)あたりは、その筆頭格だ。


 「佐天君、靴ひも」

 「あ、またほどけてる? さっき部室出る時に、結んだばかりなのになぁ」

 永がほどけた靴ひもを指差すと、佐天は立ち止まってしゃがんだ。

 「まっふぁふ。むふぁふぃふぁら、ふぇたなははらお」

 学校のアイドル的な位置にいるのに、いつまで経っても上手く靴ひもを結べないところとか、手に持ったタイ焼きを預けずに、口にくわえながら喋り始めててしまうところとか、佐天は無防備な姿をちょくちょく見せる。そんな所も永のお気に入りだ。

 「ふふっ、なに言ってるのか分かんないよ」

 笑顔を浮かべながら、自分のタイ焼きを口に運ぶ永。

 カリカリの尻尾の下から、栗の香りが口の中に広がる。頭の部分は佐天の口の中だ。

 「ここは結構、アタリだよね?」

 通学路の道端に新規開店のタイ焼き屋を見つけた禾生は、早速2つ購入。スポンサー特権とやらで1つを自分で食べ、残る1つを永と佐天に託した。そこで、佐天が2つに割って、永と半分こしたのだ。

 もちろん、1つを2人で分けるように仕向けたのも、まーしゃんからえいりゃんへのアシストである。永が佐天に対しては丁寧語を使わないのも、佐天が永をファーストネームで呼ぶのも、禾生が4月から積み重ねてきたアシストの賜物だ。

 「ところでさ。書道部はどうなったん?」

 あっという間にタイ焼きを食べ切った禾生が、幸せ拝見とばかりに永の顔を覗き込んだ。

 「それなんだけど」

 「なになに、永ちゃん、書道始めるの?」

 やっぱりやめたと言おうとした矢先、靴ひもを結び直し、栗たっぷりの栗餡タイ焼きを食べ終わった佐天が会話に参加する。

 口角に少々アンコを付けた笑顔が、永にはたまらなく魅力的に見えた。

 「う、うん、それがね」

 「書道かぁ。この時代に敢えて手書きの文字、っていいよね」

 「え? そ、そう、かな?」

 「うん。携帯とかパソコンに慣れちゃってるとさ、手書きってだけでポイント高いよ。さっきのタイ焼き屋さんも、メニューが手書きでいい味出してたしさ」

 「……だってさ」

 永の真意に気付いていた禾生が、肘で軽く永の脇腹をつつく。『さぁ、どうする?』とでも言いたげな笑顔を浮かべながら。

 「これで、3人とも部活に入ることになったのかぁ。記念すべき日じゃない。今日は、タイ焼きも美味しかったし、一緒に下校できて良かったよ」

 永の引っ込み思案を心配していたのは壬生だけでなく、佐天も同様。自分のことのように喜ぶ姿は、例え永が佐天に恋していなかったとしても、胸を打ったはずだ。

 「頑張ってね」

 「うん。ありがとう」


 部活で遅くなるってことは、佐天君と帰るチャンスが増えるのかな。また、タイ焼き一緒に食べたいな。


 一文字永、書導師への第一歩はタイ焼きと共に踏み出された。




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