人魚の話し
この物語で島以外の話はいらないってわかってます。
「いつになったら彼女は帰ってくるんだろう」
俺は魚をとるために小舟で海の上を漂い考えていた。
遠くに見えるのは小島、振り返れば砂浜の近くに住むようになってから数日が経つ村がある。
元々俺は奴隷だった、色々な場所で売り買いされ色々な体験をした、苦しい日々だったがそれでも生きていた、なにが幸せなんてあの頃はわからなかったがある街では親友と呼べる者ができたり、最後の奴隷生活では大事な人もできた。彼女は魔族で俺は普通の人間、それが禁忌とされる恋であっても教養のない奴隷だった俺は知らなかった知った時にはもう遅い、恋をしていたんだ。きっとあの生活は幸せだったのだろう。ずっとこんな生活が続くのかもしれないそう思っていた。でも自由は突然やってきた、俺の買い主が住んでいる屋敷が襲撃されたんだ。最初は禁忌を犯している俺たちを殺しに来たんだと思った、でも違った、襲撃したあの人はモンスターのいるこの世界で俺たちの安全を約束し、街から離れた小屋まで用意してくれたんだ。
それから数日が経った後に彼女から知らされた、魔王の娘だって、争いを止めるために一度北の国へ行くって。俺は付いていこうとしたんだ、でも危険だからと言ってある日突然姿を消した。待っても待っても彼女は帰ってこなかった、一人で小屋にいるのが寂しくてたまらなくなった俺はこの村に来たんだ、村の人はとても親切で一つの空家を貸してくれた、しかも今乗っている古い小舟までくれたんだ。
俺は彼女が帰ってくるまで待ち続ける、それまでに魚をいっぱい採って金を稼いで彼女を幸せにするんだ。いくつかの魚を釣り上げ腰に縛り付けながらそんな事を考えていると、何か大きな物が海に落ちる音が聞こえ、いきなり視界が青く染まった。体が思うように動かない。焦ってもがいても結果は変わらないどんどん視界は黒く染まっていく。
あぁ、もうダメだ。きっと海の中に落ちたんだ。
首を動かすと光が見えた、きっと海に降り注ぐ太陽の光だろう、俺は意識がなくなる前に必死に光に手を伸ばした。
目を覚ますと横になっていたのだろう太陽が見えた。
「生きてる!」
上半身を起き上がらせると海を挟んで遠くに村がとても小さく見えた。ここはきっといつも見ていた小島なのだろうと思う。地面にはサラサラとした手触りの砂浜があり、波打ち際には岩、その影には女が顔を覗かせていた。女は俺を注意深く観察しているように見える。
この綺麗な子が助けてくれたのか?
この世のものとは思えないくらいの美しさに俺は一瞬見とれてしまった。
「君が助けてくれたの?」
立ち上がり近づこうとしたら女は叫び声に似た、怯えているような声で答えた。
「来ないで人間! 人間は怖いことをするって聞いたわ!」
人間? この子はなにを言っているのだろうか。
岩の影からは平たいものが水面を打ち付ける音が何度か聞こえた。
来るなと言われ、少し様子を見ていると女の視線は俺の腰にいっているように見えた、そして女の腹が、くぅ、と鳴る。女はお腹に手を当てているのか少し俯き、顔を真っ赤にした。
「もしかしてお腹減ってるの? 助けてくれたのは君だよね? お礼と言ってはなんだけど魚、食べる?」
俺の言葉を聞き女は顔を輝かせると首を上下に降った後、岩陰から両手を使い這い出てくる。
「食べるぅー! 何よ人間って優しいじゃない!」
女の上半身は裸で長い髪が大事な部分を隠していた。下半身は魚で砂の上に上がるまではビタンビタンと水面を叩いている。
人魚!? 本当にいたのか。てか警戒してた割にはちょろいな。
村の人から聞いたことがあった、人魚の血を飲めば若返り、人魚の肉を食べたものには永遠の命が与えられると。
もちろん命の恩人にそんなことをする気はなかったが興味本位で聞いてみたくなった。
「人魚だよね?」
女は手の届く距離まで近づくと不思議そうな顔をしていた。
「そうよ?」
「人魚の肉を食べたら永遠の命が与えられるって、本当?」
女の顔は真っ青に変わり逃げ出そうとしたのか踵を返し海の方向に這いずりだした。
「人間! 人間怖い! きゃー!」
「あぁ! 待って! そんな事しないよ聞いてみただけだから!」
下半身の尻尾の先、クビレに転びながらも飛びつくと女の上半身はビターンと砂浜に突っ伏した。
「あついあついあつい! 助けて助けて! ごめんなさーい!」
「えっ! ごめん」
慌てて手を離すと女は涙目になり振り向いた。その涙は海よりも透明な色をしていた。
「人間、体温あついよ」
聞いたことがある、魚は人間の体温で火傷するらしい。
冷やそうと思い急いで海の水をすくって少し赤くなっているクビレにかけた。するとみるみる赤みは引き元も綺麗な青色に戻る。
「私の事、捕まえないの?」
「そんなことしないよ、本当にごめんね?」
落ちついたのか女がほっとしたように息を吐くとまたお腹が鳴った。
差し出される手に魚を乗せると尻尾を掴み頭から口の中にいれる、少し口を動かし尻尾を引き抜くと頭と骨、尻尾だけ残し綺麗に身の部分と皮がなくなっていた。唇は魚の血で真っ赤に彩られそれを舌で舐めとる。
生でウロコごと!? 人魚こえぇ。
「人間は食べないの?」
「うん、ちょっと食欲がね、全部食べていいよ」
「やったぁ! 人間って優しいのね!?」
すべての魚を渡すと同じように食べ尽くした。女が満足そうに大の字になりお腹を摩りながら寝転がると俺も同じように横になり寝転んだ。
「んふぅー、おいしかったぁ」
「そっか、よかったよ。なんで人魚さんは俺のことを助けてくれたの? 人魚は人間の前に姿を見せないって聞いたけど」
「たまたまよ、偶然通りかかっただけ。でもそうね、他の人魚だと助けなかったかもね、人間は怖いって聞くから」
「じゃあなぜ?」
「んー、私はちょっと変わってるって言われるんだけど、人間に興味があったの、だからいつか話を聞いてみたいって思って。人間と違ってね人魚は海がないと生きていけないの、陸の上を自由に移動できないから、この島だってここまでしか来られない。人間は陸の上でどんな生活をしているんだろう、あの赤い光はなんだろう、なんで私たちを捕まえるんだろう、この島の頂上はどんな景色なんだろうって聞いてみたくて。あ! 人魚の肉を食べて永遠の命なんて嘘だからね!?」
そういう人魚さんの尾びれは擦り切れている、おそらくこの島をどこまで登れるか何回も試したのだろう。人間からしたら海の中は未知で溢れているが、人魚からしたら陸の上は未知でいっぱいなのだろう。命の恩人が望んでいるんだ。少しくらい、俺にできることくらいしてあげたい。
「命の恩人の人魚さん?」
「ふふ、なにその呼び方?」
「明日さ、島の上に登ってみない? 俺一人じゃ遠くて小舟じゃこの島まで来られない、君一人じゃ島を登れない。ね、協力しない?」
人魚さんはがばっと起き上がると俺の手を握った。
「お願い! この島の頂上を見るのが夢だったの! あっつい!」
「ははは、はしゃぎ過ぎだよ。じゃあ明日登ってみようか、まだ誰も見たことのないかもしれない景色を見にね……ところで俺の小舟は?」
「あ、怖い人だったらここで飢え死にさせようと思って隠してたの! とってくるね!」
おいこえぇよ!
そう言って人魚さんは小舟を押してくると、遠い村までまた押して帰してくれた。
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夜のうちに準備を整えた、剣に炎を起こせる魔法の道具、それに陸の上で取れる野菜に果物、肉。
ワクワクしていた、人魚さんと一緒に未知の場所へと行くことへ。それと人魚さんが陸の上の食事や炎を見てどんな反応を返してくれるのか。眠れずにいると朝はすぐにやってきて日の出とともに海へと向かった。どこで落ち合うかなんて決めていなかったけどすぐに小舟をだし島に向かって木の棒を漕いだ。
村からは人が見えなくなるくらいまで来ると、すぐに人魚さんが水面から顔を出した。
もしかしたら人魚さんも夜眠れなかったのかな? 今日をワクワクして待っていたのかな?
そんな事を考えると自然と笑みがこぼれた。
「なにニヤニヤしてるの?」
「いや、別に?」
「ふーん」
眠そうに目をこする人魚さんはすぐに小舟の後ろに着くと押しだした。その速度は昨日よりも少し早く感じ、すぐに島へとたどり着いた。
「とうちゃーく! ……ねぇ、昨日言ったかしら? 海がないと人魚は生きられないの、どうやって島を登るの?」
「こうする、そして引っ張る!」
小舟にロープを縛り付け中いっぱいに海水を入れる。
「……大丈夫なの? やめてもいいのよ?」
「大丈夫さ、君は小舟に乗っていればいい、今度は俺が頑張る番だからね」
人魚さんは心配そうに小舟に乗り込んだ。
「んぎぎぎぎ」
おっもい!
「ねぇ、私も押すの手伝おうか? ダメならあきらめてもいいのよ、夢は夢、あきらめてもこれからとそんなに変わらないわ」
「大丈夫! いらない!」
人魚さんの美しい尾びれがこれ以上擦り切れるのを見たくない。
力に自信があるわけではなかったし、冒険者のように鍛えたわけでもなかったがなんとか砂浜は乗り越えられた。その先にある森を通る時に人魚さんから声が聞こえた。
「やめ、やめてよぉ、痛いよぉ」
振り返ると鳥に集られていた。それを追い払うと人魚さんからは少しだけ青い血がにじんでいるのが見える。俺がそれを見たのに気がついたのか人魚さんは寂しそうな顔をした。
「人魚の血はね青いの、人間とは違うの……怖い?」
「全然怖くなんてないよ? 教養がないからそう思うのかな。でもなんで鳥に襲われてたの?」
「そう、なんだ、ふふ。人魚だからかな? たまに鳥さんがつついてくるの」
「マジかよ、今度来たらすぐ言えよな? 焼き鳥にして食ってやるから」
「焼き鳥? ふふ、わかった。でもあんまり可哀想なことはしてほしくないかな」
森を抜け岩肌を登る。下から島の頂上は見えなかったが横に螺旋状に見える坂が見える、ここからはこれを登るんだろう。気合を入れた。
だが簡単には進まなかった、坂だし、何しろ海水と人魚さんが重い!
三割くらいの高さまで気合で登る。
「ふわー、ねぇ見てみて! もうこんなに高くまで登ったわよ! 森が上から眺められるなんて!」
興奮したような声が聞こえる、坂を登ることに集中するのをやめ人魚さんと景色を見ると。下には一面の緑、森の木ノ葉が茶色の地面を隠しあたり一面に広がっていた。その周りには白い砂浜その先にはキラキラと太陽の反射するダイヤモンドを思わせる綺麗な青い海。
「海ってこんな色をしていたのね、いつも見てるのに見る場所で全然違う。きっと人魚でこんな景色を見られたのなんて私だけよ! ありがとう」
「もう満足しちゃったの?」
少し意地悪を言ってしまった。人魚さんに無理をしてるのを気づかれたくなくて。たぶん気づかれたら人魚さんは手伝うとか言い出すだろう。
肩で息をしていた、額からは大粒の汗が流れ落ち、手からは血がにじんでいた。
「満足、うん……満足したかも、だからもういいよ?」
人魚さんはチラッと俺の手を見た。
あぁ、気づかれてたのか、だからいきなりありがとうなんて言いだしたのか。やっぱりな、俺なんかよりも頂上を見たいはずなのに、
「まだまだ全然だよ、頂上を見るって約束だったでしょ?」
「……うんでも……なら私も押す!」
小舟から降りようとする人魚さんに少し大きな声を出してしまった。
「ダメだから! 君の綺麗な尾びれがこれ以上傷つくのを見たくないから!」
「えっ」
言ってしまった。もしかしたら俺は人魚さんに好意を抱いているかもしれない。命の恩人だからって理由だけじゃなく人魚さんの見せる優しさや感情の変化に魅せられている。でも俺には大事な彼女がいるんだ。
二人して顔を赤くし黙る。
もしかしたら人魚さんも? いや、俺にそんな魅力はない。
気合で五割まで登った! 余裕だわ! 限界を超えたあとはこんなに力が出るのか!
「どや!? もう五割も登っ……た」
俺は振り返って人魚さんに笑いかけようとした、その言葉はだんだんと小さくなっていったかもしれない。
そこには必死に、鳥につつかれながら小舟を押している人魚さんがいた。
「あ、バレちゃった?」
可愛らしく微笑み舌をだした、いたずらがバレた子供と同じ表情の人魚さん。
なんで? 簡単に進めたのは人魚さんが? いやそれよりも!
「あっちいけよ、人魚さんに何してんだ!」
腰から剣を抜き、人魚さんを攻撃している鳥に向かって振るう。
追い払った後、人魚さんを見ると所々から青い血がにじみ出ていた。
「ごめんね、びっくりした?」
「――! なんで小舟から降りてるんだ! なんで鳥に攻撃されてるのに何にも言わないんだ!」
「だって、人間さん、頑張ってるんだもん、頂上を見るために頑張ってるんだもん、邪魔なんてできないよ」
「……痛かった?」
「うん、本当はすっごく痛かった」
少し青色に近い涙を流しながら、今まで我慢していたのか人魚さんはすすり泣いた。
痛かったのだろう、声に出して助けを求めなかったのは俺のことを気遣って。痛みに耐えながら小舟を押して声を殺して。
抱きしめたかった、でも抱きしめられなかった、人魚さんに俺の体温は熱く感じるだろうから。
触れられない、これがこんなにもどかしいなんて。
少し登った先に岩をくり抜いた洞窟があるのに気がつき人魚さんに向かって言った。
「あそこで少し休もうか? 海水に入ったら傷は治る?」
「うん、でも――」
「いいから入って! お願い!」
それから洞窟に向かって踏み出す。一歩歩くごとに人魚さんが出ていないか振り返った。その度に視線が交差して優しく微笑みを返される。何度も手をこちらに向かって伸ばしてそして引っ込めている、なにをしているのだろうか?
洞窟の中はひんやりしていて涼しかった、これなら人魚さんの居心地もいいかもしれない。
「お疲れ様、大丈夫?」
俺の手を見ながら手を伸ばし、そして握り締められた。
「なにしてるんだよ!」
急いで手を振り払った。
火傷したらどうするんだ。と言おうとする前に先に口を開かれた。
「私のこと嫌い?」
なんでそんなに悲しそうな顔をしてるんだ。
「……何言ってるんだよ……嫌いじゃないよ」
「そう、よかった。私のこと心配してくれたんだね、ありがとう。でも触れないのって寂しいね」
「そう、だね」
そのまま悲しそうに、笑顔を作ろうとしているように見えた。
人魚さんももしかしたら同じことを思っているのかもしれない。でも俺にそんな資格はなかった。彼女のことを言えない。俺はずるいやつだ、人魚さんに嫌われたくない、離れられたくない。言ったら人魚さんはもっと悲しい顔になるのかもしれないと思うとますます口が開けない。言えないことが苦しい。
俺は背負っていた荷物を取り出しながら人魚さんに疑問をぶつけた。話題を変えるために。
「ねぇ、人魚ってさ、どうやって子供を産むの? やっぱり人間とは違うの?」
「なんで人間さんはもっとこう、もう!……人間さんのエッチ」
うぉおおおおおおお俺のバカぁあああああああ!
「なんてね、今のは本から得た知識だからあんまりわからない感情なの。人魚はね、女の子が卵を産んでその上で男の子が何かすると命が宿るの」
「へ、へぇ」
「次は私も聞いていい? 人間さんたちの世界だと人魚はどうなの?」
「どうって、どうだろ? 人魚をたべて永遠の命とか、人魚に海の中に引きずり込まれるとかかな?」
「海の中にね、たぶんだけどそれは人間に触れたいからね。水の中なら人間に触れる、でも人間は海の中では生きられないんでしょ? ……出会ったのが私でよかったわね人間さん」
「――?」
思案する俺に人魚さんは続けた。
「幸せってなんだと思う? 自分の環境を変えずに好きな人を自分の輪の中に入れることだって言われてるの。でも私は変わってるらしいからね、私は今が幸せ」
「……」
「それとね、人魚に伝わる伝説があるの。愛し合っている人魚と人間がキスをすると一つになれるって」
俺は準備のできた魔法の道具を取り出し、それで炎を付けた。偉大な人が作った魔法の道具らしい、とても便利だ。
「なにこれ!?」
驚いたように目を丸くする人魚さんに俺は得意げに説明した。
「昨日言ってただろ? 赤い光がどうとかって。たぶん炎の事だと思ったんだ、こんな光だった?」
「そうそう! すごーい! 暗いところが明るくなるのね! でも熱いからあんまり近づけないでね!」
「あぁ、距離はしっかり気をつけるよ。でもな、ただ明るくなるだけじゃないんだ、このしもふりの乗ったおいしそうな肉をな、焼くんだ!」
今日のために奮発して買った骨付きの高い肉を丁寧に焼き、少し冷ますと人魚さんに差し出した。
「香ばしい匂いがするだろ? おいしいから食べてみ?」
「ふむふむ」
人魚さんは肉から伸びる骨を手に受け取ると、海水に沈めた。
台無しだよ! 水が滴ってるよ!
「んぅ、ほんほおいひい」
「お、おう」
まぁ、いいんだ。おいしいならいいんだ。
次は果物を取り出した。きっと人魚さんは陸の上で取れる甘い果実なんて食べたことないだろう。
「はいこれ、食べてみて?」
「ん、なにこれ?」
不思議そうに小首をかしげ、かぶりついた。
「モグモグ……あまーい! なにこれなにこれ!」
「名前は忘れたけど果物って言うんだ、気に入ったならまた持ってくるよ」
「うん! あ、でもなんだかお腹壊しそう」
「人魚ってトイレとか行くの?」
「……そんなのいかないわよ!」
少し休んだあとに再度頂上を目指し進む。
人魚さんが小舟から降りないようにたまに見張りつつ着実に登っていった。人魚さんの思いつきでロープは腰に巻き付けることにした。
「ねぇ人間さん、もういいよ。帰ろう? 十分だよ」
進む速度は最初と比べると随分遅かった。
もう手で引っ張るのは限界で、皮が破れ掴むだけでも激痛が走る。それでも腰に縛り付けたロープを引きながら懸命に登っていった。
足がもつれと思ったとき妙な浮遊感を感じ腹がロープで締め付けられる。
「ぐぅ」
「人間さん!」
あぁ崖が崩れたのか。
目の前には岩肌の側面が見え、はるか下には地面がある。
落ちたら、死んでいただろうな、また人魚さんに助けられたのか。
よじ登ろうと手を伸ばすが力が出ない。人魚さんは小舟から降り俺の手を掴んだ、引っ張りあげようとしているのだろう。
そんなことしたら!
「自分で登るからその手を離すんだ!」
「いや! いいから早く登ってきてよ! 私だけじゃ引き上げられないよ!」
不思議と力が出るのを感じ岩肌に足をかけなんとか登りきった。
「はぁはぁ、助かった……ありがとう人魚さ――」
「逃げて!」
その時、人魚さんの足元が崩れていくのが見えた、人魚さんは知っていたのだろう、最後に小さく手を振りながら動かずに笑いかけた。人魚の足では間に合わなかったのだろう。その口からは小さくか細い声で『好きだよ』と聞こえた気がした。
ふざけんな! ふざけんな! ふざけんなぁ!
俺は人魚さんの手をつかむために必死に飛び込んだ。運が良かったのかその手は届き、崖崩れもギリギリ収まっている。
「なに、してるの? なんで逃げないの!? そんなボロボロの手で!」
「今度は俺が助ける! 今引っ張りあげるから!」
「ダメだよ! 早くしないと人間さんも落ちちゃうよ! 手を離して!」
「離さない! 絶対逃げない! 君を置いて逃げたって意味がない、頂上を見るんだろ! もうすぐなんだ!」
皮のはがれた手が痛い、肉が焼けるように痛い、あぁ人魚さんはこんな痛みに耐えてさっき俺の手を握ったのだろうか。でも今は人魚さんに触れている、幸せを感じた。俺の痛みなんて小さなことだ。
最後の力を振り絞って人魚さんを引っ張り上げると、また崖に亀裂が走った。
腰のロープを取らないと小舟と一緒に真っ逆さまだろう。でもそうしたら海水がなくなる。
考える時間がおしい、俺はがむしゃらに人魚さんの手を引き、内側に走った。
後ろから崩壊していく音が聞こえ、はるか下では地面に岩が打ち付けられる音が響く。
「あれ? 助かった?」
後ろを振り返ると人魚さんが居た。
「うん! 助かった! でも小舟なくなっちゃった、大事なものだった? ごめんね?」
「いや、大事じゃないけどなんで? え? 海水がないと人魚さんは?」
「ロープは私が解いたよ? 間に合わなかったからね、そんなにすぐ干からびたりしないよ、頂上で少しゆっくりするくらいの時間はあるよ?」
「あはは、そう、なの?」
「うんそうだよ、ふふふ、よかった、助かった!」
「あはははは」
「ふふふふふ」
体を大の字にして寝転がって二人で笑いあった。少しすると落ち着き、手を握ったままなのに気がついた。
「あ! ごめん! 手あつくない!?」
急いで離そうとした手をギュッと握られる。
「大丈夫! なんかね、さっきからずっと大丈夫なの!」
「そうなの? 本当に?」
「うん! 早く頂上見ようよ! おんぶして!」
立ち上がり不思議そうにしていると人魚さんは後ろに回り抱きついてきた。
「ふふ、幸せ」
「そっか、じゃあ行こうか」
冷たい体温を背中に感じながら人魚さんを背負う。
触れても大丈夫なのだろうか。でもなんだろう、俺も幸せを感じる。
頂上に近づき、もう見えるかもしれない場所で人魚さんは言った。
「ねぇねぇ、目をつむって同時に見ようよ! 誰も見たことがないかもしれない光景!」
「お、いいねそれ」
目を閉じ何歩か歩く。
「いくよー、せぇえのっ!」
多分同時に目を開いただろう。目の前に広がったのは一面に茎まで真っ白い花が咲く草原だった。
風が頬をなでると同時に、その白い花も揺れ甘い香りが漂ってくる。
「すごく……綺麗ね」
「あぁ」
俺もこの景色は素晴らしいと思う、でもそれはたぶんきっと人魚さんがそばにいるからそう感じるのかもしれない。
人魚さんは背中から降りると草原を転げ回った、器用に尻尾を使い少し飛び跳ねたりして、大の字になり寝転び横をペシペシと叩く。
横に寝ろってことか?
素直に近づき俺も横で寝転んだ。
「私いますっごい幸せだよ! ほら雲に手が届きそう! 海からは遠い遠い雲にこんなに近づいた! こんな体験ができる人魚なんてきっと私だけ! 人間さんの、ううんあなたのおかげだよ! 幸せをありがとう!」
「あはは、俺も幸せだよ。ずっとこうして居たい気分だ」
「……あと少しかな? ここにいられるの」
「そっか、小舟が無事だったらなぁ、でもまた来たらいいさ」
「うん……そうだね!」
視界が人魚さんの笑顔で覆われた。どうやら馬乗りになっているようで、そのまま人魚さんに抱きつかれたみたいだ。
「あなたの体温も、匂いも鼓動も忘れないからね、ずっとずっと忘れない! ねぇ……もし私があなたより先に死んだら心臓を食べてくれない?」
「え?」
「友達から聞いたの、心臓には心があるんだって。私のこころもあなたと一緒に連れて行ってほしいの、ダメかな?」
「もし、ね。そうだな、もし君の方が早くに死んだらその時はそれもいいかもね」
「うん、約束ね! ねぇ膝枕してよ!」
普通逆ではないだろうか。まぁでもいいかもな。
体を起き上がらせると人魚さんはすぐに太ももの上に頭を置いた。
「幸せ、島の頂上から見る空って、海みたいだね」
「そうなの?」
「そうよ」
俺は白い花を使い花かんむりを作った。それを人魚さんの頭の上にそっと乗せる。気がついたのか人魚さんはそれを手にとって嬉しそうに笑った。
「なにこれすごい、これがお姫様の冠るっていう物?」
「うーん、違うかな? それよりなんかさ、人魚さんの肌乾燥してきてない? 早く戻ろうか?」
柔らかかった肌はみるみる乾いていき、所々血がにじんできていた。
「もう、終わりかな? やっぱり幸せな時間って過ぎるのが早いね」
言っている間にも肌はどんどんと乾燥していき、ポロポロと皮膚が崩れ落ちる。
「大変だよ! 早く戻らないと!」
人魚さんを抱き抱えようと触ると、その部分が砂が落ちるように崩れた。
「な!?」
「もう間に合わないよ、ね、最後までこうしていて?」
人魚さんは動かなかった。動くと崩れてしまうんじゃないかと思った。
「なんで、どうして!?」
海水がなくなったから? いやそもそも俺が頂上を見ようなんていったから? 人魚さんは知ってたのか? 小舟が落ちた時から気がついてたのか? だから急いだのか?
「俺の、せいで」
「違うよ? 私が選んだ結果だよ。あなたは何も悪くない、自分を責めないでね? 私は幸せだよ、こんな景色を見られて、こんな素敵なあなたに出会えて。十分満足したよ」
だんだんと崩れていきながらも人魚さんは続けた。
「もう本当に時間はないみたい、最後にさ、お願い聞いてくれない?」
「最後なんて、最後なんて言わないでくれよ」
「ねぇ、お願い」
消え入りそうな声だった。
「……なに?」
「目をつぶって?」
「そんなことが最後?」
「うん、はやく、ね?」
目をつぶるとすぐに肩に触れる感触があった。そして唇に何かがあたった。
目を開けると最後に人魚さんは弱々しくも満面の笑みを見せ言った。
「幸せだったよ、大好き」
目から濃い青色の涙をうっすら流し、人魚さんは砂になって風に連れ去られた。
「そんな、そんな……うぁ、うぁあぁああああああああああああああああああ!」
蹲って泣いた。頬から大粒の涙が止めど無く溢れ、白い花の上に落ちた。砂をかき集めてもまた風に攫われいく。
なんで何も言ってくれなかったんだ、鳥に襲われていた時だって、海水がなくなった時だって!
こんなことがあっていいのか、俺のせいで人魚さんは、命を何度も助けてくれた人魚さんは消えた。
俺が島を登ろうなんて言わなければ、人魚さんはまだ、これからもずっと笑っていたのかもしれない。
人魚さんは本当に幸せだったのか? 俺は一言でも好きって言ってあげたか? 言ってない! 何も言ってないんだ、人魚さんは俺からの言葉を待っていたのかもしれない、だから最後に。今まで言わなかったことを。
伝えるべきことも何も言っていない、ただ島の頂上を目指しただけ、でもそれが俺にとってはたまらなく幸せで、人魚さんといるだけで幸せだったんだ。
考えれば考えるほど人魚さんとの時間は尊いものだったと思える。
どれくらいの時間が経っただろう俺は島を下り始めた。
何もなかった、来た時に感じた肩の重みがない、笑い声も聞こえない。嬉しさもなく、何も考えられずただ呆然と歩く。大事なものを置いてきてしまった感覚がした。時折振り返ってみても笑顔は返ってこない、誰もいない。自然と視界がボヤけた。
坂を下り森を抜けると砂浜に一人の人間がウロウロと彷徨っているのが見えた、肌色が多い。その人間は俺に気がついたのか走り寄ってくると、転んだ。
「うわーん、人間さん助けてー!」
え? この声って。
俺はその人間に走り寄って抱き起こす。
「人魚……さん?」
「ふふふ、もう人魚じゃないけどそうだよ! 気がついたらここに倒れてたの!」
思いを込めて抱きしめた。
「く、苦しいよ」
「あぁ」
「どうしたの?」
「あぁ……」
「あ、まだ返事聞いてないよ? 私のこと、好き?」
「……あぁ! 俺は君の事を愛してる」
「私も! えへへ、これからはずっと一緒に居られるね」
俺はもう君のことを離さない。
しばらく抱き合っていると人魚さんは言った。
「ねぇ人間さん、どうやって向こうの陸に行くの?」
「あ……どうしよう、か?」
そんな時に人魚が近づいて来るのが見えた。
「あ! ちょっと行ってくるね! 友達なの!」
人魚仲間なのだろうか、何かを話すとすぐにその人魚は海に向かい、そして小舟と、人魚さんが着る服を持ってきてくれた。優しい人魚なのだろう、そのまま村へと小舟を押してくれた。
村の人たちは少し人魚さんの事を怪しい者を見る目で見ていたが、特に何もなく家に帰れた。
何もない家だがそれでも人魚さんには初めて見るものが多かったのだろうはしゃいでいた。
だが俺にはそんな人魚さんに言わなければならないことがあった。
「人魚さん、聞いて欲しいことがあるんだ。俺は人魚さんを愛しているけれど、でも俺には大事な人がいて――」
「そうなの? 私は別にいいよ? 一人を愛するって人間が決めた事でしょ?」
「い、いいの? その人が帰ってくるまで俺は小屋が見えるこの村から出られないよ? せっかく陸に上がれるようになったのに他の街を見に行くことだって当分先に――」
「うんいいよ」
俺はこれでいいのだろうか。こんな事で。
それでも人魚さんは幸せそうに笑って日々を過ごした。
いつも一緒にいるわけではない、日が明るいうちは俺が魚を取りに、人魚さんは村で他の村人たちと過ごしている。そんな毎日を過ごしているうちにあることに気がついた。人魚さんは少しずつ細くやつれていった。
「人魚さん? 最近元気がない気がするんだけど、なにかあったの?」
「うん、実はね、村の人に青い血を見られちゃって、人魚の血は若返るんでしょ? 信じてる人たちに少しづつ渡してるの」
「な!? そんなことしなくていい! しっかり説明したらわかってくれるさ! 俺が言ってくる」
「ダメだよ、私が最初に着てた服ね、この村の人が着てた服と似てるんだって。小舟もそう、疑われてるの、だから、ね?」
「だからって!」
「ねぇ、あなたの大事な人、いつ帰ってくるかな?」
「きっと、もうすぐさ、帰ってきたらすぐにこの村を出よう。やっぱり辛い?」
「ううん、私は幸せだよ。あなたがそばにいるだけで幸せ」
人魚さんはそう言っていたが俺は我慢できなかった。次の日は嵐が近づいている事もあり魚を獲りには行けない、ちょうどいいと思い、村の人に事情を話すと『わかった』と言っていた。
なんだ、しっかり話をすれば分かり合えるじゃないか。やっぱりこの村の人たちは優しいんだ。
その日の夜はやけに雨音が強く聞こえた気がした、そんな中家のドアを叩く音が聞こえ、俺は玄関へと向かい、ドアを開けた。
「あれ? 村長さんじゃないですか、こんな夜にどうしたんですか?」
目の前にはこの村の村長と何人かの武器をもった男たちがいた。
「実はの、血では若返らんらしい、じゃからの、次は人魚の肉を貰おうと思ってな。いやいや、お主を殺す気はないのじゃ、人魚を生きて連れ込んだ、その功績は素晴らしい。余った血や肉も高く売れるじゃろう、抵抗しないでほしいのじゃが」
嘘だろ?
「冗談、ですよね?」
「そう見えるかの?」
「……わかり……ました。最後に少し二人で話をしてもいいですか?」
「……いいじゃろう、少し待つかのう」
ドアを閉め急いで人魚さんの元へと向かう。
「人魚さん、一緒に逃げよう! 村の人たちは人魚さんを殺す気だ!」
「……そう、やっぱり人間って怖いのね。私はもういいよ、十分幸せを感じられた。人魚の世界では変わり者で友達も一人しか出来なかった、家族もいない私に初めて幸せを感じられたの。私がおとなしく捕まればあなたは助かりそうじゃない? だからね、もういいのよ」
「いいわけあるか! 逃げるんだ! 俺の命より自分の事を考えろ!」
「でもこの村を出たらあなたの大事な人はどうするの?」
「そんな事はあとで考えればいい!」
そうだ、俺がいつまでもこの村に居たのが悪い。もっと早く出ていればこんなことには。
「行こう! 森に入ればこの雨だ、足跡だってきっと消える」
手を取って走り出した。
「また、連れ出してくれるんだね」
人魚さんからそんな声が聞こえた気がした。
ドアを蹴破り、ざわめく村人を押しのけ森へ向かって走る。
「あ」
「大丈夫!? 走りづらい!?」
「う、ううん平気」
手は離さない、振り返りもせずただ漠然と森へ向かって走る。強風と雨の降る中、ぬかるんだ足元は滑りやすそうだったが人魚さんの手を引き森に入りジグザグに走る。いつしか後ろから聞こえていた怒号は聞こえなくなり最初にいた小屋へとたどり着いた。どれくらい走ったのかわからない。
もっと遠くに逃げたほうがいいか? それとも少し休むか?
振り返ると息を切らせた人魚さんが苦しそうに顔を歪めていた。
「大丈夫? 少し休もうか?」
「……うん」
弱々しい声が返ってくる。
少し休もう、大丈夫少しだけだ、村人の声も聞こえなくなった。逃げ切った、逃げ切ったんだ!
小屋に入り二人して座り込んだ。
しばらく経っても人魚さんは疲れているのか、その息が整うことはない。
「本当に大丈夫?」
「……うん、心配しなくていいよ」
外から声が聞こえる『こっちだ!』と、まるで俺たちの逃げた方向が正確にわかっているように、その声はだんだんと近づいてきた。
「なん、でだ?」
「ふふ、ねぇ、もうダメだよ。私を置いて逃げて?」
「それは絶対に無理だ!」
あきらめたように微かに笑う人魚さんを後ろに、窓から自分たちが来た方角、村人の声が聞こえる方を見ると、地面には青い液体がまばらに落ちていた。命の道しるべのように。
「人魚……さん?」
「やっぱり、あの時切られてたんだ。背中がね、すごく熱いの、痛みで何も考えられないくらいに。私、もうダメだと思う。ねぇ、約束覚えてる? 最後のお願い」
「なんで、なんで!」
こんなことが、俺のせいか? 俺のせいだ!
人魚さんを抱き起こそうと背中に回した手は、ベットリと青い血で濡れた。人の温かみを感じる生温い血、それを見ると人魚さんは俺の首に手を回し、話を続けた。
「心臓を食べて欲しいの」
「そんな」
「私の心だけは一緒に連れてって?」
「嫌だ、人魚さんがまたいなくなるのは――」
「お願い、人間は人魚を食べるんでしょ? 心だけは、あなた以外の誰にも……渡したくないの」
あ、あぁあああああああああああ!
叫んだ、心の中で。
「お願い、ね?」
「……あぁ、あぁ」
俺が頷くのを見て微笑んだ人魚さんは、目を閉じ顔を近づけた、それは二度目の絶望のキスだった。
外から雷の落ちる音が聞こえ、その光ではっきりと映し出された人魚さんの頬には青い涙が伝い、傾けられた顔からその涙は俺の口に滑り込んだ。
体が熱く感じ、力が湧いてくる。こんな時なのに。
俺は力いっぱい人魚さんを抱きしめた。やがて人魚さんの手が力を失い、意思を失い、だらりと垂れ下がる。
もう逝ってしまったのか。
いつの間にか俺の頬にも涙でできた筋がある。
人魚さんの幸せそうに笑った顔をゆっくりと見てもう一度抱きしめ、心臓からの寂しい返事を待つと、その心臓を食らった。
体から、異様な痛みを感じ、意識がもうろうとした。
「う、ううう、う」
男の痛みを耐えるような唸り声を聞き、意識が戻ると村の中に一人で立っていた。
辺りを見回すと村は火の海で、たくさんの人が死んでいた。
あぁ、そうだ、俺がやったんだ。
剣で切られても、槍で突かれても、火をつけられても、死ななかった。それどころか今までより力が湧いてきて、村人を一人一人殺して回った。
千鳥足で海に向かうと水面には化物が写っていた。
人間の体にウロコがびっしりと敷き詰められた化物。俺だ。
海に入ると体が重い、息ができない、苦しい、でも何時まで経っても死なない。
「いつになったら彼女は帰ってくるんだろう、こんな体じゃ彼女も、親友も気が付いてくれないかもしれない」
彼女? 親友? あれ? 誰だっけ何も思い出せない。苦しい、呪いみたいだ。でも誰かといる気がする。
声が聞こえた。
「ふーん、不死身ってそうなるんだ」
視界の隅に人魚が見えた。