31:エピローグ
その後、数日は自宅で静養する羽目になった。危うく黒木に病院へ連れて行かれそうになったが外骨格に覆われた傷口を医者に見せるわけにも行かないと判断しアマデウスとしての治癒力に頼ることになったのだ。それにO型RhNullとなってしまった俺の血液型を黒木以外の人間に知られる訳にも行かない。今後どうやってそれを回避するかは悩みの種になりそうだ。
「ほら、佐倉くん。これ飲んで」
看病に来てくれた黒木が台所で何かミンミンと音を立てて作った物を持って現れた。ずい、と突き出されたのは大型ジョッキになみなみと注がれた得体の知れない緑色をした飲み物。どろりと粘性を帯びたそれは、一目見て「ヤバい」と解る代物だった。
「……すげー色してるな」
「でしょー」
言外にこれはちょっと厳しいぞ、というニュアンスを滲ませてみたのだがそれに気付いたのか気付いてないのか、黒木はさらりと躱して飲むように促してくる。
「見た目はちょっとアレだけど栄養満点だから、ほらほら。ずずいと」
ただ黒木がわざわざ持ってきてくれたと言うことはきっと身体に良い物だとは思うが。においを嗅いでみると仄かに青臭い香りがする。
「青汁……でもないよな? なんだこれ」
「ユーグレナ」
「何だって?」
「ユーグレナ♪」
「これ間違いなく可愛い言い方で誤魔化そうとしてる奴だ!」
「ンフー」
疑惑をとびきりの笑顔で握りつぶされる。これを飲むことはきっと確定事項なのだ。ならそれが何なのか解ってしまうと逆に飲みづらくなるかもしれない。
「……解った、詳しく聞くのは止めておく……」
覚悟を決めて黒木からジョッキを受け取る。ごくりとつばを飲む。大丈夫、ただの飲み物だ。そう自らに言い聞かせて口を付け、一気に煽る。
「おお~、良い飲みっぷりだね。美味しい?」
「…………!」
臓器が全力で拒否しようとするそれを根性で押さえつけながら、そして油っぽい汗を額にだらだらと浮かべながらもなんとかきゅむっと口角だけ上げて歪な笑みを返した。
……この時、俺はユーグレナが次世代の栄養食として研究されているミドリムシだと知らされた上で、しかも毎日飲み続ける羽目になるとはつゆほども思っていなかったのだった……。
そんなこんなで自宅療養している間に委員長と秀才くん……佐藤もお見舞いに来てくれた。アマデウスとなった俺の傷口は人間のそれではなく、異形と化していたので見られやしないかひやひやしたのだが。
二人は、今までまともな会話をした事の無かった俺と何を話して良い物か困っていたようだったが、それでもあの夜のことは話題にせず、けれど帰り際に有り難うと言ってくれた。
過去、暴走するアマデウスを狩る黒木を目にして距離を取っていた委員長。黒木がどうしてそんなことをしていたのかは今だって当然知らない。けれど委員長も馬鹿では無い。あの夜、大きなバケモノに襲われていた自分たちを黒木が助けた事。それをもって彼女が以前見た光景を正しい方向に消化してくれたのでは無いかと俺は思っている。
勿論あの夜の事は他のクラスメイトに言いふらす事が出来るたぐいの話では無かった。二人にも今まで通りにしてくれとお願いしていた事もあり、結果的に俺と黒木はクラスで浮いた存在のままだった。
それでも二人は時々俺達に話しかけてくれるようになった。その影響だろうか、それ以来本当に少しずつではあるがクラスメイトの俺達への対応が柔らかいものへと変化していっているように感じている。
黒木自身は相変わらずヘヴィメタルはお気に入りのようだが授業中にヘッドホンを付けるようなことは無くなり、今では随分と地に近い雰囲気になっていた。先生達に煙たがられていた黒木だったが『黒木さんも彼氏が出来たら女の子らしくなったのね』なんて言われたりもして真っ赤になっていたり。そんな黒木を見るのは、何より面白かった。
「私はさ、【神に愛されし者】なんて皮肉めいた名前をずっと恨んでたし、憎んでたんだ。どんな皮肉だよってさ。けどね、今なら私は本当に神様が私の事を愛してくれてたんじゃないのかなって思っちゃうな。すっごく単純だけどね」
学校からの帰り道、黒木は唐突にそう言った。
「そういや俺もアマデウスになったって事は神様に愛されちゃってるんだな」
「私からもね?」
「…………」
「何で無視した!?」
そういって尻をガッと掴まれる。
「いやそりゃコメントに困るだろ……」
苦笑いを返すと黒木も笑っていた。けど、黒木は表情に陰を落として言葉を継ぐ。
「そういえば『名前で呼んでいいか』とか言われたくせに未だに苗字で呼ばれている私は果たして愛されているのだろうか……」
乾いた声で、棒読み気味にそういった。
「す、すまん。いやさ、名前で呼ぶのって結構ハードル高いんだぞ! 今まで女の子の名前を呼ぶこと何て無かったし黒木だって俺の事苗字で呼ぶだろ? おあいこだよ、おあいこ」
黒木はそれを聞いてふむふむと一人で頷きながら「開き直りか」とぼそっととげを刺した後後、笑顔をこちらに向けた。
「大地くん、好き」
若干もじっとした仕草をした後まっすぐにこっちを向いてそう言った。
一瞬脳がスパーク。ブレーカを入れ直すのに3秒ほど経過していた。
「……俺がヤカンじゃなかったことに感謝するんだな」
「何それどういう意味?」
ピーと鳴るという意味だ。黒木は何だか解らないといった顔をした後で、
「勘違いしないで欲しいんだけど……私は別にいつでもいけるんだぜ? でもやっぱり一緒が良いでしょ? だから佐倉くんが私を名前で呼んでくれるまでは苗字で呼ぶ事にしてるんだ」
「なんだと……今までずっと苗字で呼んでたのになんだその順応性は。いきなり名前で呼ぶとか恥ずかしくないのか? 俺がおかしいのか?」
「さあ? 私は私のことしか解らないよ」
黒木はそう言って笑う。
「と、とにかくもうちょっとお待ち頂けませんか……いきなりそんな名前で呼んだりしたら周りも変に思うだろうし」
「んー? そんなこと無いと思うけど。大地くんは恥ずかしいのかな? 体液の交換だってしちゃったのに? もしかしてやっぱり私のことが好きじゃ無いのかな? あー、そうだそうだきっとそうなんだ! だから呼んでくれないんだ! だって私何も変なことお願いしてないんだもん。ただ名前で呼んで欲しいって言っただけなのになー?」
冗談めかしてそう言っているが、勿論本来の黒木の願いが含まれていることも十分承知していた。
「うん、とりあえず体液の交換はやめような」
「どうして? 交換しないの?」
イタズラっぽく笑いながら俺の顔をのぞき込んでくる。
「します、しないと暴れて死んじゃいます」
「じゃあいいじゃない」
「言い方おかしいだろ! 響きも完全にアウトだから!」
「ちぇ、仕方ない。――じゃあいいや、代わりにチューしようぜ」
「黒木って最近絶対馬鹿になってるよな!」
「あははは! ごめんごめん、ついからかいたくなっちゃって。それに、今更だね? 勿論なってるよ。でも私が馬鹿になってるのはきっと最初に会った時からなんだよ?」
にこにこと笑顔でそう言った。黒木の「好き」にはやっぱりブレーキが全然無かった。恥ずかしげも無くとんでもない発言を繰り返している。俺の顔面に感じる熱は一向に下がる気配を見せない。
「はあ、解った。俺の負けだ。今から、黒木を名前で呼びます」
「ほうほう、では続けたまえ」
息を吸う。何なら満月の夜、暴走した黒木と対峙したときと同じくらい緊張もしている。
「みお……ちゃん」
「ちゃんはいらない」
「みお……さん」
「さんもいらない」
「ぐぬぬ……!」
「……私の名前呼ぶのがそんなに嫌なんだ」
よよよ、と泣き真似をされる。こうなると男というのは弱い。
「み、みお」
「おお……! おおおおおー!」
何やら感動されている、だが赤面する俺の周囲をぐるぐる回りながら一緒に拍手までされて俺の羞恥心はぐんぐん上昇していく。
「ま、今日はここまでな。まだまだ慣れが必要っぽい。とにかく黒木も家帰ろ――いて!」
脳天にちくりと痛みを感じる。
「『家に帰ろう』、何て?」
にこにこしながら差し出したその手には俺の毛が一本摘ままれていた。
「え? いや、だから黒木も帰ろ――」
ぷちん!
「あ痛!」
知らぬ間に俺が黒木を苗字で呼ぶたびに毛をむしられる闇のゲームが開始されている。
「わかった! と、とにかく帰ろう」
「誰に対して言っているのか解りません。イマジナリーフレンドかな?」
顔だけはむちゃくちゃ笑顔を向けている。
やばい、黒木が怖い。
「解った! 明日! 明日から名前で呼ぶから!」
「ならばよろしい」
なんとか切り抜けたけど明日からどうしよう。
俺の動揺を見抜いた黒木はしばらくお腹を抱えて笑っていた。けれど、暫くして真面目な顔をして言葉を継ぐ。
「――これが普通なのかな。普通って、凄いね。何もしなくても、毎日が楽しいし、短いんだ。……私は、佐倉くんがいたから助かったけど、きっとこの世界のどこかには今も一人で苦しんでるアマデウスがきっといるんだよね」
かつてほとんどのRhNull所持者は密かに回収され、ある者は実験され、ある者は処分された。だがそれでも、極低確率の突然変異でRhNull自体は出現する。確率通りだとすると年に世界で数十人から数百人が誕生している計算になる。そのほとんどが生まれた段階で粛正されるのだとしても黒木のように出生時検査をすり抜けて成長する存在が他に居ないとはとても言えない。それに、発展途上国であったならそもそもそういった検査すら無いのだから。
「……それは、確かにそうかもしれない」
「もし、もしもだよ? そういった人が現れたら佐倉くんはどうする?」
「どうするって……」
言いよどむ。黒木が何を言いたいか理解したからだ。
「私のアンブロシア、そして佐倉くんの『出でよ! ノヴァリス!』さえあればきっと……」
「待って? 今真面目な話してたのに何でそんな言い方したんだ? 俺そんな言い方してなかったよな?」
「してたよー、私ちゃんと覚えてるし。『はあああ! 深淵より出でよ! 我が断罪の剣! 魔剣ノヴァリスゥッ!』」
「なんか台詞増えてるし魔剣でもないからな!?」
思わず突っ込む。名前を付けたなんて言わなければ良かったと今更後悔する。けれど『不可能』と『神の奇跡』、相反する意味を持ったノヴァリスは俺のイメージした黒木を救うためのアニマにぴったりの名前だったとも思う。
そして恐らくは、この唐突にも思える冗談も恐らくは黒木の気遣いなのだ。この話題を続けるか、それとも忘れるか。その選択を俺に委ねてくれている。
「――まぁ、確かに俺と黒木ならそういったアマデウスを助けることは出来ると思う。黒木のアンブロシアさえあればいつでもノヴァリスは使える訳だし」
俺は少しだけ悩んで、そう答えた。その答えは黒木にとっても意外だったらしく目を見開いてこちらをじっとみていた。
かつての暴走状態とは違い、アンブロシアによって安定した俺達は満月の影響下で無くとも任意にアニムスを引き出すことが可能になっている。それだけでなくアニムスを引き出したとしても完全に意識を切り離されることも無くなった。恐らくこれが本来のアマデウスのあるべき姿なのだろう。
「……何か出来ないかなって考えちゃうんだ」
「待て待て、でも早まるな。そもそもどうやって探すんだよ。ネットでも使うか? たちまち怖い大人に拉致されて血を絞られてモルモットにされちまうぞ」
「それは……そうなんだよね。確かに、おおっぴらには出来ない」
黒木はしゅんとしてしまった。今までずっと破壊衝動によって苦しめられてきた黒木が自分と同じ境遇の人間を救いたいと思うのは当然の事なのかもしれない。
だが、この世界にはかつてアマデウスを軍事利用する為に研究し、隠した存在がいるのだ。そういった存在が既に凍結しているとはいえその研究成果を完全に手放すとは考えられない。ならばやはり安易な行動を取って黒木を危険にさらすことは絶対に出来ない。俺達は一蓮托生、二人でひとつなのだと黒木も理解しているのだ。それでも、黒木は今の小さな幸せな日常に罪悪感を感じているのかもしれない。それは本来当たり前の物なのに。
「……それでも、気持ちはわかるよ。黒木の感じていた絶望を、同じものを味わっている人がまだ居るのであれば俺だって何か力になれるならそうしたい。……今すぐにって訳にはいかないかもしれないけど……何か出来ないか考えてみようか、一緒にさ」
「……うん!」
そういって黒木は笑顔と共に小さな手を差し出してきた。
アマデウス。人間の成体。
かつて吸血鬼と呼ばれたその存在はこうしてこの世界に再度姿を現した。
俺と黒木はこれから人間社会に紛れて二人生きていく。その先にある未来がどのようなものかは誰にもわかりはしない。
けれど、彼女だけは何があっても俺が守り抜く。
「どうしたの、難しい顔して」
黒木が俺の顔をのぞき込んでいた。いつの間にか俺達の家への岐路にたどり着いてたらしい。
「ああ、ごめん、考え事をしてたんだ。じゃあ、ここで」
手を離す。
「うん、じゃあまた明日ね」
そういって黒木は手を振る。
「ああ、またな――」
息を吸う。
「――澪」
流石に直視しながらは言えず、少し視線を反らしてしまった。頬に熱を感じつつもゆっくりと視線を黒木に向ける。すると黒木は不意打ちを受けたようなきょとんとした顔をして、けれどすぐに。
やっぱりいつものように満面の笑顔で、
「またね、大地くん」
そう、笑ってくれた。
教室で見かけた黒木に抱いた印象は、月のように冷たく、そして美しいという物だった。
けれど、本来の彼女にはやはり太陽のような笑顔こそが一番似合うのだと、深く思った。
最後まで読んで頂けたならばそれ以上に嬉しいことはありません。
有り難う御座いました!




