30:Childhood's End
しばらくそのままで居た。ようやく黒木が泣き止み、顔を上げた。
「すごく、嬉しいんだ。きっと私が産まれてきて今がいちばん幸せ。……けれど、それだけにこの先の話を聞くのが、怖い」
黒木は嬉しそうに、けれど影のある表情でそう言った。
「まぁ、怒らずに聞いてくれるか?」
「多分、怒るよ」
その言葉にふっと笑ってしまった。
「笑い事じゃ無いのに!」
そういってぺしぺしと俺の太もものあたりを叩く黒木がおかしくて、傷口に響くのも忘れて笑った。
「そんなたいした話では無いんだけどな。俺があの時目を覚ますと暴走した黒木は月色の繭に包まれていった。何が起こっているのか全く解らなくて、けどその時に黒木が何か俺に知らない事を知ってるって気づけた。これはさっき言ったよな。そして俺はその間に雫の残したヴォイニッチ手稿を読み解いた記録を目にしたんだ。そこで思い付いたのは、雫がそうしていたように人の血液で一定の破壊衝動解消効果があるのなら、俺の血を黒木に飲ませて一時的にでも良いから意識を戻せないのかって。その上で黒木に黒木自身の血液、つまりアンブロシアを投与しようと思った。けどさ、きっと本人の血液じゃ意味は無いんだろうなとも思ってた。だって、口の中を噛む事くらい誰にだってある。今まで何年も自らの破壊衝動と戦ってきた黒木がそれに気がつかないはずが無いんだ。けど、それは可能性がゼロでも無かった。だから試す価値はあると思ったんだ。……けどなー、試す前に誰かさんに、その、コテンパンにされちゃってなぁ……」
にやりと笑いながら腹部の傷口の周辺を軽くぽんぽんと叩いた。
「あほ……」
黒木はそう言ってすねながら俺の足をつねった。今生きているからこそ言えるがイジワルな冗談である自覚はあったので、その痛さには甘んじて耐えた。
「そこでああ、俺は死ぬんだって思った。でも、ただ死ぬのは嫌だった。まだ出来る事があるならあがきたかった。そこで俺が思い出したのは……雫の残したヴォイニッチ手稿の記録にあった疑似アマデウスの存在だった」
「……え?」
それまで笑っていた黒木の表情がみるみる蒼くなっていく。
「まさか……」
疑似アマデウス化。当然黒木も知っていたのだろう。それはアマデウスの血液を経口摂取することにより極短時間、アマデウスと同等の能力を得る。けれど不可逆の存在へ時間制限付きで変貌すると言うことは、つまりは一方通行。効果時間の終了と共に死亡することを意味する。
「そこでそのまま死ぬか、あがいて死ぬか。そんなの迷う訳が無い。俺はあがくことを選んだ。黒木の血液を啜り、疑似的にアマデウス化した。そして、アニムス……いや、アニマを引き出した」
破壊により願いを叶える意志の具現化。それは物理法則すら塗り替える人知の及ばない力。「けれど、だからどうってことはない。それがあっても破壊すべき対象は見当たらない、俺は死ぬ。そして黒木も死ぬ。そういう運命は変わらない。ただ少し先延ばしにしただけ。……そう、思ってたんだけどさ。まだ何かある気がした。……いや、上手く説明は出来ないけど、まだ助かる道はあるって俺の中で何かが囁いてたんだ。今にして思うと、もしかしたらあれは……雫の声だったのかもしれない」
直接そういった声を聞いたわけでは無い。けれど、ずっとそんな気がしていた。俺が疑似アマデウス化したのは黒木を泣かさないため、つまり黒木に殺されない為だった。だから、俺はあそこで黒木とやりあう必要性は無かったのだ。けれど、俺の中の何かが、その場に踏みとどまらせた。それによって俺は黒木を救うことが出来ていた。もし、そんな事をした存在がいるのだとしたらそれは雫以外には思い当たらない。
「兄さんが……?」
「解らないけどな、でも俺はそう思う。俺は雫のことは何も知らない。けどあの記録をみて雫が必死で黒木を救おうと、自分と同じ運命を迎えないように全てを犠牲にして生きたことだけは知っている。だからそういう不思議なことがあったって、俺はあり得ないなんて言えない」
雫は黒木を救うために、自らと同じRhNullを持った黒木をアマデウスへと変貌させないために、自らの未来を犠牲にして全てを抱えたまま失踪した。俺には幽霊や魂が存在するかどうかなんてわかりはしない。けれど、もしもそう言った物が存在するのだとしたら、何かそういった不思議な奇跡が起きていたとしても不思議は無かった。
「そうして俺は黒木を救う可能性を模索しながら戦っていた。そんな中で俺はその内面からの囁きが何を言っていたのか、感覚的に理解した。そう、答えは既に俺の中にあった。けれど、俺はそれに気がつけていないだけだったんだ。きっかけになったのは黒木と初めてデートした日の記憶なんだ。『思い出が無いならこれから作ればいいじゃないか』って話、したろ?」
黒木は未だに蒼い顔をして何が何だか解らないといった表情をしている。
「そう、凄くシンプルな話だったんだ。無いなら作れば良かった。材料と道具、そして知識は既にあったんだから。俺はアニマを引き出して、俺の血中抗原を破壊した。それによって血液をO型RhNull、つまりアンブロシアへと変えた。それを投与すれば黒木はアマデウスとして生きていけるはずだって」
「……いや、待って! おかしい! 確かにそれならアンブロシアは生み出せるかもしれない。私が今元に戻れていることとも矛盾しない。けど、そんな事しても佐倉君は……!」
疑似アマデウスにはいかなる延命処置も効果が無い。それは本物のアンブロシアを投与したとしても。疑似アマデウス自体がアンブロシアの投与によって身体を騙しているだけに過ぎないからだった。あくまでも紛い物。黒木はそのことも理解しているのだ。
「そう、疑似アマデウスは助からない。効果時間の終了と共に――」
「いや……いやだ! そんなの、酷すぎるよ!」
俺の言葉をそう叫んで遮った黒木は後ずさり、震えながら涙を流す。
「――話は最後まで聞け。そう、俺は本来そこで効果時間が終了し死ぬはずだった。そのつもりでもあったしな。けどさ、現に俺は生きている。勿論まだ疑似アマデウス化の効果時間内でたまたま生きているだけって可能性はあるかもしれない。けど、俺は自らの中に沸き起こる破壊衝動って奴が消えていくのを意識を失う前に確かに感じていたんだ。効果時間が切れたとしたら恐らくその時だろう。けれど、生きてる。どうしてか全然解らなかった。今こうして黒木と過ごしている時間が死の間際に見た幸せな夢なんじゃ無いのかとも思った。けど、どうやらそうでもないらしい。この話はもっと簡単な話だったんだ」
一端言葉を切った。そう、俺が生きている原因はただ一つ。
「俺は疑似アマデウス化して自らの血中抗原を破壊し、黒木に投与するために血液をアンブロシアに変換した。恐らく俺はその時にアマデウスへ変貌する条件を無理矢理に満たしたんだ。……つまりは後天的なアマデウスって訳だ」
アマデウスへと至る為に必要な複数の要素。ヴォイニッチ手稿に隠された禁断の知識と満月による重力の変化。そして……【RhNull】。その三つが揃う時、人はネオテニーから成体へと変貌する。それが、アマデウス。人間の成体。
「なん……」
黒木は何か言おうとして絶句している。
「細かい事情はわからないけどさ、それでも俺は生きてる。黒木も生きてる。ならそれで十分だろ。アマデウスは一人では絶対に生きていけない。吸血衝動の代償行為としての破壊衝動に蝕まれ、最終的には暴走して死に至る。けれど、二人なら生きていける。俺とお前なら破壊衝動に飲まれること無く生きていけるんだ。アマデウスの破壊衝動は本来の食料、アンブロシアを摂取できないが故の代償行為だったんだから、お互いの血液さえあれば破壊衝動にさいなまれることも無い。普通の人間と同じように」
生きていける。そう聞いた黒木は震えながら口を開く。
「ほんとうに……?」
「ああ」
「だったら、もう私あんなことしなくていいの?」
「そうだ。これからはアマデウスを破壊する必要は無い」
「これはからは、ふつうの女の子みたいに、さくらくんと、いっしょにいてもいいの?」
「嫌で無いなら是非そうしてほしい」
「わたし、いきてても、いいの?」
「ああ」
黒木は涙をぼろぼろとこぼしている。
「……今まで一人で頑張ってくれて、生きていてくれて、有り難う。黒木を人として縛って、苦しめたのは……俺の言葉だったのかもしれない。ほんとうに、ごめん。けどもし黒木が許してくれるなら、これからは俺が黒木を悲しませたりしないって約束する。だから、俺と一緒に生きて欲しい」
「――――!」
黒木は、堰を切ったかのように、いつものようにわんわんと声を上げて泣いた。
生きることに罪悪感を覚え、兄を失い、自らの破壊衝動に苦しめられ、それでもただ一つの言葉を胸に生き、死を覚悟して俺を救ってくれた少女。
彼女をむしばんでいた破壊衝動はもう存在しない。泣き続ける黒木は唐突に呪われた運命から解放されたことを戸惑っているようにも見えた。
泣き止むまで俺はその震える身体を抱きしめていた。ようやく泣き止んだ黒木は嗚咽を挟みながら、ぐしょぐしょの顔をこちらに向けた。
「でも、それなら私のせいで、佐倉くんは人間ではなくなってしまったんだ」
「んー、そもそも人間もアマデウスも生物的には同じ物なんだろ。言い換えたら吸血鬼の幼体、つまりそれが人間なんじゃないか。人を人たらしめるものは肉体じゃ無い。それはただの入れ物でしかない。黒木が俺を救ってくれたように。俺が黒木を救ったように。心と意志、それこそが人間である証だと思う。だから俺は人間をやめたつもりなんて無いよ。それは黒木、お前だってそうだ」
黒木は何も言わず破顔して、やっぱり泣いている。けれどその涙はかつて流した悲しみによって温度を奪われた冷たい涙では無い。
「ま、そんなわけで物語はハッピーエンドを迎えましたとさ。さてと、俺さっき全力で告白したんだけど、その返事ってそろそろ聞かせて貰えるか?」
おどけてそう告げた。黒木は嬉しいのか困ったのかよくわからない表情で笑った後、もう一度勢いよく俺の胸に飛び込んで来た。
「そんなの、言わなくても解るでしょ……」
「是非とも聞かせて貰いたい」
「あほ……」
そうつぶやいた黒木の頭を撫でる。黒木は、顔を離して恥ずかしそうに答えてくれた。
「私は、六年前のあの日から」
「貴方のことが、佐倉くんの事が、大好きでした」
「わたしだってこんなの何て言って良いか解らないけど」
「よろしく、おねがいします……?」
たどたどしく答える黒木のその様子があまりにもおかしくて、
「ふふっ」
つい笑ってしまった。
「な!? 何で笑う!?」
黒木はふてくされて、真っ赤になってすねていた。
黒木の運命をがんじがらめにしていた運命の鎖、アマデウスとしての決定づけられた死の宣告。それは今日確かに砕け散った。人の想いが、そして願いが運命を覆した。
その解決策は初めから解っていたわけじゃ無い。俺と黒木は絶望しか無いその闇の中で、あがいた。あがいてあがいてようやく見えた光だった。何か一つでも食い違っていれば、恐らくそれを手にすることは出来なかったはずだ。
こうして俺達はこの日、幼年期に別れを告げた。
これから訪れる未来がどのような物になるかは誰にも解らない。それは恐ろしくも有り、けれどほんの少しだけ楽しみでもあった。
たとえどんな運命が待っていたのだとしても、俺達は二人であればきっと乗り越えていける。
だから今は腕の中の幸せを、そのぬくもりを、ただ感じていた。




