10:Full Moon ("amadeus")
とっておきの場所を教えてあげると黒木に手を引かれて来たのは意外にも俺の家の近くにある丘だった。すこし入り組んだ道を通る為、近くを通っただけではこの場所に気付かないだろう。高い針葉樹が生い茂っている森の中にある幻想的な空間。まさに秘密の場所という言葉がぴったりだった。空気も澄んでいて、そこにいるだけで気持ちが良い。マイナスイオン効果という奴だろうか。けれど、そういったものより、何かが強く俺の中にあるものを刺激した。
――ありがとう。
――……君は、怖くないの?
俺はこの場所を知っている……?
既視感という奴なのだろうか。
「ほら、あそこ!」
黒木が笑顔で指をさす。広場には彼岸花が密集して咲いていた。異形の赤い花。
「ね? 綺麗でしょ?」
黒木は俺の手を引きながらにこにこと笑顔を浮かべてこちらを向いた。どうしたんだろう。黒木の様子が今日はおかしい。
今まではどこか拒絶、とまではいかないまでも何らかの壁を感じていたのだけれど今日はそれがとても薄く感じる。妙に積極的とでも言えば良いのだろうか。
そして、そんな黒木が俺にはとても魅力的に映った。
「すごいな。確かにこれだけ綺麗に生えていると黒木がとっておきだって言った気持ちが解るよ」
黒木は、でしょう、とはにかみながら首をかしげた。
手はまだ、繋がれていた。今はただこの暖かさを感じていたかった。
唐突に、俺はきっと目の前の少女に惹かれているのだろうと思った。
けれど。
「ぎいいいいいい」
静かな広場を歪な鳴き声が揺らした。発生源を認識した時にはソレはすぐ近くまで迫っていた。山に生える木々をなぎ倒し、黒い軽トラック程の大きさの塊がこちらへ猛烈な速度で突っ込んでくる。冗談みたいなソレは一瞬飛び上がり、俺と黒木が数瞬前に居た地面を轟音と共に穿っていた。
唖然としていた。動けなかった。理解もしていなかった。
黒木に手を引いてもらったお陰でなんとかこの異形の突進をかわせていたらしい事を漸く飲み込んだ。
俺一人なら間違いなく押しつぶされ、死んでいただろう。
なんだこれは。なんだ。一体。
衝撃で巻き起こった土煙の中から姿を現したそれは全身がまるで昆虫のような黒い外骨格に覆われた巨大な異形。そして異常に発達した螻蛄の前脚のような部位。そこから生える黒く巨大な爪。
後ろ足はまるでキャタピラのようにどろどろとした肉に覆われて見えなくなっている。この世の全ての生き物に該当しないが、けれど各特長は何かの生き物と似通った特徴を持つように見える。
「ぎいいいいいい」
黒い異形は空を睨み、大気を震わせながら再度咆哮した。
ゴフゴフと呼気を吐きながらこちらへ向き直り、ずしりと前足を進ませる。
この異形の呼気だろうか、腐ったような臭いのする湿った空気が広場に充満していく。
呆けている場合ではない。何がなんだか解らない。解らないが黒木を逃がさなければ。
漸くそこに思い至り、黒木を見やる。
だが視界に捉えた黒木は、泣いていた。
うわあああん、と。子供のように泣きじゃくっていた。
怖くて泣いたのか。違う。そういう風には見えない。これはそういった泣き方ではない。
これは……悲しんでいるのか。そう、その時確かに黒木は悲しみの涙を流していたのだ。
このタイミングで。
黒木は顔を手で覆ってどうして、どうしてと呟きながらわんわんと泣いていた。
「ねえ、佐倉くん。何も見ないで。何も聞かないで。私を置いてこのままどこかに逃げて」
どういうことだ。……佐倉くん?
「お前を置いて逃げられるわけがないだろ。前言ったよな、男には格好つけさせろって」
威勢の良い台詞が口をついたが、その実、足が動かせない程に震えていた。
俺の身体は完全に恐怖に支配されていた。
相変わらずわんわん泣きながら黒木はそっかぁ、と呟く。大粒の涙を拭いながら。
黒い異形はまるでイノシシがそうするかのように前脚でがりがりと地面を掻き威嚇している。
だが黒木はその異形を気にもしない様子で肩にかけていた細長いバッグを下ろし、そこからさっきちらと見かけた何かを取り出した。
白い布でぐるぐるに巻かれているそれからするすると布が外されていく。金色の彼岸花のレリーフに彩られ、平面で構成されたソリッドな黒い鉄塊。
どうやら一組あるそれを黒木は慣れた手つきで両手に携える。
次の瞬間それはバタフライナイフのようにがちん、と音を立てて展開した。L字型の、剣?
いや違う。
これは恐らくトンファーだ。通常のものとは違い巨大で、そして大きな刃と一体になっているかのような。
黒木はその巨大な鉄塊を手にしたままこちらを振り返る。
「佐倉くん、わたし、あなたのこと好き。わたしのこと、嫌いにならないで」
笑顔で、唐突にそう言った。泣きながら。動けない、答えられない。
えへへ、と笑った黒木は鉄塊を手にしたまま異形へと向き直り、対峙する。
その鉄塊は見た目とは裏腹に、りぃん、と涼やかな音を立て先端から更に鋭利な黒い刃を展開した。
「慌てるなよ。今喰わせてやるから」
何かを諭すように、優しく黒木はそう口にする。
そして。
小さく息を吸う。
「……【神に愛されし者】」
そう、呟いた。




