序
※本作は同時投稿中「ヒガンバナ」の改稿作品です。オチと設定、各部をブラッシュアップしております。
時間が止まったのかと、思った。
死んだはずの私の心臓は彼岸花の咲き乱れるこの丘で、もう一度鼓動を刻み始めた。
闇の中で苦しげに蠢く異形に意識を向けながら背後の少年に問いかける。
「……怖くないの?」
肩越しに見えた少年は、ガスマスクで覆われた私の顔を見て少し驚いたように見えた。けれどそれでもゆっくりと、先ほど彼が発した言葉を再度口にした。その言葉はまるで鈴の音のように私の中に浸透し、その芯をそっと撫でる。
今、彼が口にしたのはこの世界の何処にでもあるごくありふれた言葉。そして、だからこそ私が得られなかった言葉。その言葉を噛みしめて、私は返す言葉を丁重に選び取っていく。
ただ、少年を拒絶する為に。
「……そ、邪魔だから消えてくれる?」
両手に携えている鉄塊を強く握り締め、そう吐き捨てた。
私の震えが、動揺が、この少年に伝わらないように。
何より私の意志が、心が、折れてしまわないように。
すぐ傍まで迫っている限界を、『この先』を、この少年にだけは見せたくなかったから。
少年は去り際にもう一度私に何事か声をかけたけれど、今度はもう言葉を返せない。
既にその余裕は食い尽くされて私の中に欠片も残っては居なかったから。
そうしてこの場所に残されたのは私と、異形と、そして彼岸花。
まるで神がそう望んだかのように、狂った運命と血だけが存在するその舞台。
――そう、クソったれの神が。
――愛する私の為に。
その皮肉に顔が引きつるけれど、今は、今だけは感謝しよう。
じりじりと燻っていた私の衝動は炎のように燃え上がり、周囲を埋め尽くす深紅の彼岸花もそれに同調するかのようにざらりと揺れる。
直後、眼前の異形は少年が去った方向を向き、悲しそうに、苦しそうに小さく鳴いた。
「……そう……お前も頑張ってたんだね。だから――」
――今、終わらせてやる。それは誰の為でも無く、ただ私の為に。
握りしめた鉄塊から黒く波打つ模様の刃を展開させると、きん、と澄んだ音が闇に響いた。
直後、小さく息を吸い、呟く。
「――――」
これはトリガー。これは儀式。私が私であると認識する為に。
本物の異形を解き放ち、撃ち出す為の。
私の中のケモノがぼごぼごと泡立ち肥大化し、爆ぜる。
直後、血流に乗り悪意が、憎悪が、破壊が、歓喜と共に私の身体を駆け巡る。
そうして繰り広げられる狂宴を、ただ月だけが見下ろしていた。