駅前のカミサマ
【1】改札口に立つ老人
寒い冬の中の出来事でした。
私は毎晩疲れ果てて、駅の改札を通ります。郊外の町の、中規模の駅です。その改札口に、ある時から老人が立っていました。背は低く白髪で丸顔(大きな福耳)、腰は曲げずに伸ばして、いくつもある自動改札口の一番端、駅員さんがいる窓口のすぐ脇で、毎日、いつも決まった時間、同じ場所に立っていました。
もっと具体的に言いますと、高架になった駅舎の下に21時頃に何処からともなく何かの歌を歌いながら現れ、何にも縛られていないと主張しているような、非常にゆっくりとした歩みで二階の改札口まで上り、それから、21時30分頃から22時30分頃までそこにいるのです。
私はホームレスか何かかと思って、その老人を避けるようにしていました。改札を通る人々に、無差別に何かを言っています。また時には何かの独り言を、そこでブツブツと言っていました。それは毎日続きました。
ある夜、その老人が買い物袋を下げているのに気が付きました。買い物をしたあとのようです。毎日買い物をしているようでした。それから何日か後、さらに気付いたことがありました。着ている物が、全くくたびれていないのです。今までホームレスと感じていましたが、どうも様子が違うようです。なぜ今までそのことに気が付かなかったのでしょうか。それは足元にありました。寒い冬の夜なのに、裸足でサンダルを履いていました。足はひび割れだらけで爪も汚れ、サンダルは安物をボロボロになるまで使い続けているといった感じでした。いつも無視するように側を歩き去っていたので、足元ばかり見ていました。だから、足元以外の身なりの良さ、毎日の買物袋に気付かなかったのです。
私はその老人に興味が湧きました。果たしてやはりホームレスなのか、あるいは近所に住むいいおじいさんで、孫達が寝静まった後に出かけてくるのか。
その老人をもっとよく観察したいと思い、私はある日、いったん改札を出ていつものようにその老人の側を通り過ぎ、そして改札前の壁際で人を待っている風に立ち止まって、壁を背中にその老人を観察することにしました。
【2】大丈夫
その老人は、疲れた顔で改札を出てくる人々に対して、軽く手をかざしてニッコリと笑いかけています。そして時々、何かを言っているときもあります。雑踏の中なので、何を言っているかは分かりません。そして観察を始めてしばらく経った時、唐突に私に近づいてきて、ニッコリした表情で私と対面し、手をかざしました。私は驚き、観察していることがバレたのかもしれないと思いました。その老人は私に手をかざしながら、「大丈夫、大丈夫っ。」と、言いました。
ああ、この人はこうやってみんなに元気を与えに毎晩ここにやって来てるんだ、と思いました。
私への語りかけが終わるとすぐ、また別の人々に語りかけを続けられました。私はしばらくその場に立ち尽くした後、そのお方にお辞儀をするように軽く頭を下げ、帰路につきました。
その夜から私は、そのお方に対する感じ方がまるで変わりました。今まで大変失礼であった、と思うようになりました。そのお方に会うことが、いつのまにか毎晩の楽しみとなりました。いつもゆっくりと構え、満面の笑みをたたえ、私たちに「あなたは大丈夫、大丈夫。」と、語りかけてくれています。私はいつも心の中で、お礼を言うようになりました。
またある夜、そのお方はいつものように手をかざされるのではなく(あの日以来、私はしっかりとそのお方を見るようになった)、同じ位置に立って、「わんぱくっ、わんぱくっ」と、ずっとおっしゃっていました。寒い中、町の人々に気合を入れてくださっているのだ、と感じました。
【3】次の町へ
ある晩、その方はいつもの時間に改札口前にはいらっしゃりませんでした。エスカレータを下りていくと、その先の通路の脇に立ってられました。いつもと雰囲気が違いました。そして何やら、行くか、行かざるか、といった風に歩を前後させて、迷われているような感じでした。表情もいつもの穏やかな笑顔ではなく、何か深く考えられているお顔でした。今思えばこの日、本当に迷われていたのでしょう。
翌日の事です。その日はいつもより早く私は駅まで帰り着きました。時間が早いので、もちろんあのお方は立っていらっしゃいませんでした。私は買い物をするために、駅に近いショッピングモールに入りました。入ってすぐのところで、件のお方とすれ違いました、いえ、果たしてそのお方だったかどうか、すぐには分かりませんでした。と言いますのは、いつものような、にこやかでゆったりした雰囲気ではなく、キビキビとした動きで、精悍な表情でいらしたからです。着ているものが小奇麗で、足元はボロボロなのはいつもの通りなので、そのお方には間違いありませんでした。
私はすぐに振り返り、失礼の無い距離で後を追いました。壁に貼り付けられていたこの日のチラシを素早くチェックし、驚くほど俊敏に階段を上られて行かれました。いつもとは全く違う、予想外のキビキビした動きに私は戸惑ってしまい、また後をつけるなど失礼ではないかという思いもあり、距離を置いて階段を上がりましたので、見失ってしまいました。その後、四階建てのフロア全てを探し回りましたが、ついに見つけることができませんでした。このお方の日常を暴くようなマネをしないで済んだ、というホッとした気持ちもあり、その日はまた会えるだろうと思っていました。
しかしそれ以来、そのお方は改札口に立たれなくなり、お見かけすることがなくなってしまいました。寂しさを感じましたが、おそらく、この町の人々は私も含め全員救われたのだろう、そして、次の町の人々を救いに行かれたのだ、と考えました。そうやって町から町へ、足元がボロボロになるまで人々を救いに回られておられるのでした。
私の町を出発される前に、迷ってらっしゃいました。私はそんな姿を見て、あのお方でも迷われる時があるのだと、日々迷いの中にいる私に勇気を与えてくださいました。敢えて、迷っている姿も見せていただいたのです。
それ以来この町におられなくなったその方は、「あなたは大丈夫。」というメッセージを世界中の町の人々に伝え回っておられる、と私は考えます。
おわり