06.猫の失敗
……あ、いや、やっぱ、褒められん。
「尻ポジションが端っこ過ぎてブツがトイレからはみ出したり、埋めようとしてトイレの砂こぼしたり、埋める時にしくじって素手でブツを触って、床にばっちい手形つけてくれたり……」
「私も、半泣きで夜中に床掃除したことがあります……」
俺は、それを踏んでから気付き、深夜に独りむせび泣いたことがあるが、黙っておくことにした。
「黒江さんはトイレに行かないから、そんな間抜けなこと……しません、よね?」
暗い顔をする猫飼いに代わって、犬派の国包が聞く。
使い魔は心外だと言いたげな顔で即答した。
「トイレですか? 行きますよ」
「えっ? 何しに行くんですか?」
ゼミ生三人の声が揃った。
この使い魔は、主の魔力をエネルギー源とする魔法生物で、排泄はしない……と、魔術概論の教科書に書いてあった。本人からも、さっき聞いたばかりだ。
「ご主人様のお供です」
「……あぁ、なぁんだ」
「そうですよね。黒江さん自身の用じゃありませんよね」
俺たちは、何故かホッとして、胸を撫で下ろした。
黒江さんの主である巴准教授は、生まれつき内臓に色々と障碍があるらしい。いつも、黒江さんか双羽さんが傍にいて、AEDを持ち歩いている。
魔術概論の最初の講義では、二人がいない時に巴先生が倒れたら、すぐに応急処置をして、同じ敷地内にある帝大附属病院に連絡するようにと言われた。
巴先生は男性だから、女性の双羽さんにトイレの介助をしてもらうのは、流石に抵抗があるのだろう。
「そう言えばこないだ、猫がトイレについて来るって、ネタ画像が回ってきたんだけど、マジでそんなトコまでついて来んの?」
国包が、俺と和坂さんの顔を交互に見て聞く。
俺と和坂さんは、同時に首を振って肯定した。
「マジでッ?」
「うん。俺が立ち上がってどっか行こうとしたら、後ろ付いて回るんだよ」
「そうそう。階段でもお構いなしで足にすりすりするから、何回も落ちそうになったり、踏みそうになったりしましたよ」
「俺、一回、猫の足踏んだことあるわ……」
「うわっ! それって……」
国包が顔を顰める。
「流石にそれはだっこして、ゴメンねーって謝って、ヨシヨシしてあやして、痛いの痛いの飛んでけーしたよ」
「そこまですんのかよ……」
黒江さんも、巴先生にうっかり踏まれたことがあるのだろうか。
今日は健診なので置いて行ったが、巴先生はいつも、黒山羊を意匠化した杖を持っている。杖の下端は山羊の蹄だ。
あんな尖った物で小突かれたら、痛いなんてもんじゃないだろう。
呆れる犬派はともかくとして、俺は黒江さんの顔色を窺った。
無表情。
俺たちの次の質問を待っているのか。
使い魔の黒江さんは、巴准教から下された「電話番及び、学生との質疑」の命令を果たすべく、今は人間の形をしている。
特にこれと言って用のない時は、猫形態「クロ」になって、巴先生にもふられていた。
黒江さんも猫形態の時、しょっちゅう、巴先生の足にすりすりしている。
本物の猫のように尻尾をピンと立てて、喉をゴロゴロ鳴らしながら、先生の細い足に頭や頬を擦りつけていた。
クロは、夜の闇か悪魔みたいな漆黒の猫だ。
長毛と言う程ではないが、短毛とは言い難い半端な長さの毛は、ふわふわでつやつや。いかにも撫で心地よさそうだが、クロは、選ばれし者でなければ、触れることができない。
一人は勿論、主である巴准教授。
もう一人は、巴准教授の護衛の双羽さんだ。
巴先生によると、クロは「魔力のない人間」に触れられるのがイヤらしい。
人見知りが激しいので、魔女や魔法使いでも、知らない人に触られそうになると逃げるらしい。
双羽さんが触れるのは、よく知っているからではなく、「クロでは絶対、勝ち目がないから諦めている」とのこと。
俺も一度、クロが双羽さんに襟首を掴まれて、「メッ!」されているのを見たことがある。
クロは、うちの松太郎と同じに耳を伏せ、尻尾をおなか側にひっこめて、怯えた上目遣かいで双羽さんの顔色を窺っていた。
何をやらかしたのか知らないが、普通の猫も使い魔も、叱られた時の反応は同じなのか、と妙な所に感心してしまった。
「そう言えば私も、トイレのドアで尻尾挟んじゃったこと、ありました」
和坂さんが懐かしげに思い出を語る。
「トイレの中まで入ってこようとするから、いつも、入られないように素早く締めるんですけど、その時は間に合わなくって、ギャッ! って言わせちゃって……」
「そ、それは、不幸な事故でしたね」
国包がひきつった顔でフォローする。
「まぁ、すぐにだっこして、ゴメンねってヨシヨシして、トイレの外に出して戸を閉め直したんですけど……」
「猫の怒りが解けなかったのですか?」
黒江さんが猫の立場から質問する。
元猫飼いの和坂さんは、寂しそうに笑って答えた。
「全っ然、懲りてくれなくて、結局、老衰で亡くなるまで、ずーっとトイレの攻防戦が続きました。おかげで未だにトイレのドア閉める時、猫の尻尾を挟まないか気にしちゃいます」
和坂さんのふっくらした胸には、思い出と猫飼いの習性と、猫型の穴が残っている。