表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/46

04.猫のお漏らし

 「で、準備が整ったら『先生、お願いします』って、予防注射してもらうんです。猫はその間、ずっと泣きっ放しです。『口偏(くちへん)に鳥』の『鳴く』じゃなくって、『さんずい(へん)に立つ』の『泣く』なんです。飼い主は全体的に猫撫で声になりますね」

 和坂(かにがさか)さんは、台詞の所だけやけにキリっと言って話を締めくくった。


 「号泣し過ぎて診察台でゲロ吐く猫とか、恐怖のあまりお漏らしする猫もいます。俺んちの猫も漏らしたことがあります」

 「オシッコ洩らしたのか……うちの犬でも、それはないなぁ」

 俺の補足説明に、黒江さんではなく、国包(くにかね)が驚いた。


 俺は静かに首を横に振りながら(うつむ)いた。

 「固形物の方を……転がされました……診察台の上に……」

 「固形物……とは何ですか?」

 婉曲表現では、使い魔にはわからなかったらしく、首を傾げて俺の顔を覗き込んだ。

 そこは追及しないで欲しかったが、使い魔にそんな気遣いを求めるのは無理な話だ。


 あの時の記憶が、鮮明に甦る。

 初めて予防接種に連れて行った時、うちの松太郎(まつたろう)は診察台の上でお漏らしをした。

 その時、俺は松太郎の正面から両手を押さえて保定、獣医さんは側面に立って聴診器で心音を聞いていた。接種前の軽い健康チェックだ。


 「あぁ~おん、まぁ~おん」

 松太郎は、それまで聞いたこともないドスの利いた声で、ずっと泣き叫んでいた。

 そして、耳をぺったり伏せて泣き叫ぶ松太郎の足元に、茶色い物体が転がった。


 「……すみません」

 「あぁ、いいですよ。気にしないで下さい。……だって、病院、怖いもんなぁ」

 獣医さんはそう言って、恐怖に歪む松太郎の顔を覗き込んだ。うるさくて心音が聞こえないことへのフォローだろう。


 松太郎は、白衣を(まと)った初対面のおっさんが恐ろしいのか、更に泣き叫んだ。

 「あぁ~おん、まぁ~おん」

 「……すみません……うんこ……漏らしました……すみません」

 「うわぁあッ!……いや、まぁ、いいですよ~。気にしないで下さい。よくあることなんで~」

 俺の申告で、やっとブツに気付いた獣医さんは悲鳴を上げたが、すぐに気を取り直してフォローしてくれた。


 よくあることなのかよ……


 そう思いながらも、平謝りする俺。

 松太郎は、俺に爪を立ててよじ登ってしがみつき、見たこともないくらい怯えて、震えていた。


 小さな体が熱くなっているのは、恐怖と興奮で泣き過ぎたせいだろう。

 タワシのように毛を膨らませ、耳を伏せ、焦点の定まらない目で泣き続ける松太郎に、俺は「よしよし、怖くない、怖くないよー」と優しく声を掛け、背中を撫で続けるしかなかった。


 獣医さんは「……だって、注射は怖いもんな~」と松太郎に笑い掛けた。

 すぐ真顔に戻って、俺に「ついでに寄生虫の検査とかもしましょう」と言い、ブツを手早くビニール袋に入れて、助手の一人に渡した。


 その助手が別室に消え、もう一人の助手と獣医さんが、診察台の清掃と消毒をする間も、松太郎は号泣し続けた。


 俺が「よしよし」とか言いながら、震える背中を撫で続けていると、不意に松太郎の目の焦点が、俺に合った。

 同時に泣き声も、小さな子猫みたいに甘ったれた「みゃーん、みゃーん」に変わる。


 あまりの変わり様に吹き出しそうになるのを(こら)え、俺は松太郎に最大限やさしい声で話し掛けてみた。

 「はいはい。みゃーんって言うの。怖いの? 何が怖いの?」

 松太郎は、相変わらず耳を伏せたまま、俺の肩越しに獣医さんをチラ見した。


 「えっ? 先生怖いの? まだ、何も痛いことされてないだろ? 何で怖いの?」

 痛いことは、これからされる訳だが、この時点ではまだ、聴診器で心音を聞かれただけに過ぎない。

 その質問に、松太郎は俺の肩に爪を食い込ませることで答えた。


 とにかく怖いらしい。


 服を通り越し、鋭い爪が肩肉に食い込んだが、俺は構わず松太郎をあやし続けた。

 そのうちに甘えた泣き声もだんだん小さくなって、「う~ん、む~ん、ぬ~ん」と言う訳のわからない(うな)りに変わり、やがて、静かになった。


 その頃には、診察台の消毒も終わり、予防接種の準備も整った。

 手際のよさを見る限り、本当に「よくあること」なんだろう。

 動物病院の人は大変だ。


 「……随分、怯えてるんで、このまま注射しましょうか?」

 獣医さんはそういいながら、松太郎の腰の毛を掻き分けてアルコール綿で消毒した。


 「あ、待って下さい。今、爪食い込んでるんで、今、注射されたら、漏れなく俺が血まみれになるんで、勘弁して下さい。ちゃんと保定するんで、台の上でお願いします。台の消毒、二度手間ですみませんけど、お願いします」

 俺が早口に懇願すると、獣医さんは苦笑いして消毒箇所を首筋に変え、診察台の上で注射してくれたのだった。


  切ない記憶が、一瞬で脳裡(のうり)を駆け巡った。

 「……うんこもらされました。俺が泣きたかったです」

 俺は諦めて、直截的(ちょくせつてき)な表現に言い換え、手短に語った。


 使い魔がリアクションする前に、国包(くにかね)が自信なさげな声で質問してくれた。

 「黒江さんは、巴先生の魔力だけで生きてるから……しませんよね?」

 「はい」

 使い魔は力強く頷き、即答した。


 「じゃあ、お漏らしの何がどう恥ずかしいとか……」

 「それは、知識として存じております」

 「あぁ、はい。そうですか」

 どこでそんな知識を得たのかは、誰も追及しなかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
関連項目。巴准教授、黒江、双羽が登場する話。
読まなくても支障はありませんが、関係性はわかりやすくなります。
地図などは「野茨の環シリーズ 設定資料『用語解説17.日之本帝国』
野茨の血族ポテ子も↓と同じシーンに登場。
碩学の無能力者ポテ子も↑と同じシーンに登場
汚屋敷の兄妹三人が大掃除を手伝う
野茨の環シリーズ 設定資料用語解説など
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ