04.猫のお漏らし
「で、準備が整ったら『先生、お願いします』って、予防注射してもらうんです。猫はその間、ずっと泣きっ放しです。『口偏に鳥』の『鳴く』じゃなくって、『さんずい偏に立つ』の『泣く』なんです。飼い主は全体的に猫撫で声になりますね」
和坂さんは、台詞の所だけやけにキリっと言って話を締めくくった。
「号泣し過ぎて診察台でゲロ吐く猫とか、恐怖のあまりお漏らしする猫もいます。俺んちの猫も漏らしたことがあります」
「オシッコ洩らしたのか……うちの犬でも、それはないなぁ」
俺の補足説明に、黒江さんではなく、国包が驚いた。
俺は静かに首を横に振りながら俯いた。
「固形物の方を……転がされました……診察台の上に……」
「固形物……とは何ですか?」
婉曲表現では、使い魔にはわからなかったらしく、首を傾げて俺の顔を覗き込んだ。
そこは追及しないで欲しかったが、使い魔にそんな気遣いを求めるのは無理な話だ。
あの時の記憶が、鮮明に甦る。
初めて予防接種に連れて行った時、うちの松太郎は診察台の上でお漏らしをした。
その時、俺は松太郎の正面から両手を押さえて保定、獣医さんは側面に立って聴診器で心音を聞いていた。接種前の軽い健康チェックだ。
「あぁ~おん、まぁ~おん」
松太郎は、それまで聞いたこともないドスの利いた声で、ずっと泣き叫んでいた。
そして、耳をぺったり伏せて泣き叫ぶ松太郎の足元に、茶色い物体が転がった。
「……すみません」
「あぁ、いいですよ。気にしないで下さい。……だって、病院、怖いもんなぁ」
獣医さんはそう言って、恐怖に歪む松太郎の顔を覗き込んだ。うるさくて心音が聞こえないことへのフォローだろう。
松太郎は、白衣を纏った初対面のおっさんが恐ろしいのか、更に泣き叫んだ。
「あぁ~おん、まぁ~おん」
「……すみません……うんこ……漏らしました……すみません」
「うわぁあッ!……いや、まぁ、いいですよ~。気にしないで下さい。よくあることなんで~」
俺の申告で、やっとブツに気付いた獣医さんは悲鳴を上げたが、すぐに気を取り直してフォローしてくれた。
よくあることなのかよ……
そう思いながらも、平謝りする俺。
松太郎は、俺に爪を立ててよじ登ってしがみつき、見たこともないくらい怯えて、震えていた。
小さな体が熱くなっているのは、恐怖と興奮で泣き過ぎたせいだろう。
タワシのように毛を膨らませ、耳を伏せ、焦点の定まらない目で泣き続ける松太郎に、俺は「よしよし、怖くない、怖くないよー」と優しく声を掛け、背中を撫で続けるしかなかった。
獣医さんは「……だって、注射は怖いもんな~」と松太郎に笑い掛けた。
すぐ真顔に戻って、俺に「ついでに寄生虫の検査とかもしましょう」と言い、ブツを手早くビニール袋に入れて、助手の一人に渡した。
その助手が別室に消え、もう一人の助手と獣医さんが、診察台の清掃と消毒をする間も、松太郎は号泣し続けた。
俺が「よしよし」とか言いながら、震える背中を撫で続けていると、不意に松太郎の目の焦点が、俺に合った。
同時に泣き声も、小さな子猫みたいに甘ったれた「みゃーん、みゃーん」に変わる。
あまりの変わり様に吹き出しそうになるのを堪え、俺は松太郎に最大限やさしい声で話し掛けてみた。
「はいはい。みゃーんって言うの。怖いの? 何が怖いの?」
松太郎は、相変わらず耳を伏せたまま、俺の肩越しに獣医さんをチラ見した。
「えっ? 先生怖いの? まだ、何も痛いことされてないだろ? 何で怖いの?」
痛いことは、これからされる訳だが、この時点ではまだ、聴診器で心音を聞かれただけに過ぎない。
その質問に、松太郎は俺の肩に爪を食い込ませることで答えた。
とにかく怖いらしい。
服を通り越し、鋭い爪が肩肉に食い込んだが、俺は構わず松太郎をあやし続けた。
そのうちに甘えた泣き声もだんだん小さくなって、「う~ん、む~ん、ぬ~ん」と言う訳のわからない唸りに変わり、やがて、静かになった。
その頃には、診察台の消毒も終わり、予防接種の準備も整った。
手際のよさを見る限り、本当に「よくあること」なんだろう。
動物病院の人は大変だ。
「……随分、怯えてるんで、このまま注射しましょうか?」
獣医さんはそういいながら、松太郎の腰の毛を掻き分けてアルコール綿で消毒した。
「あ、待って下さい。今、爪食い込んでるんで、今、注射されたら、漏れなく俺が血まみれになるんで、勘弁して下さい。ちゃんと保定するんで、台の上でお願いします。台の消毒、二度手間ですみませんけど、お願いします」
俺が早口に懇願すると、獣医さんは苦笑いして消毒箇所を首筋に変え、診察台の上で注射してくれたのだった。
切ない記憶が、一瞬で脳裡を駆け巡った。
「……うんこもらされました。俺が泣きたかったです」
俺は諦めて、直截的な表現に言い換え、手短に語った。
使い魔がリアクションする前に、国包が自信なさげな声で質問してくれた。
「黒江さんは、巴先生の魔力だけで生きてるから……しませんよね?」
「はい」
使い魔は力強く頷き、即答した。
「じゃあ、お漏らしの何がどう恥ずかしいとか……」
「それは、知識として存じております」
「あぁ、はい。そうですか」
どこでそんな知識を得たのかは、誰も追及しなかった。