03.猫を運搬
優しい和坂さんが、年配の男性の姿をした使い魔に念を押す。
「巴先生は病弱で、腕力もそんなになさそうだし、こんな重労働、絶対無理だから、黒江さんはマネしないで下さいね」
「はい。勿論です。私はご主人様のご命令とあらば、例え火の中、水の中、何処なりとも参ります」
絶対服従の使い魔は、胸を張った。
俺たちの指導教官である巴准教授は、この日之本帝国では珍しい、本物の魔法使いだ。
黒江さんは魔術による契約で、主である巴先生とは、霊的につながっている。
黒江さんの返事に満足し、和坂さんが説明を続ける。
「黒江さんが動物病院で予防注射されることはないので、参考程度に聞いて下さい」
「はい。普通の猫の資料としてお伺い致します」
「猫をキャリーに詰めても、それでおしまいじゃないんです」
「……と、おっしゃいますと?」
黒江さんが真剣な顔で聞くので、俺も真剣に答える。
「猫入りキャリーを動物病院まで運ばなきゃいけませんから」
猫とキャリー本体の重量もさることながら、あれを徒歩で運ぶのは、メンタル的にも来るものがある。
「猫は病院がイヤなので、注射はイヤぁー! みたいな感じで道々ずっと、泣き叫び続けます。殺されるみたいなスゴイ声で泣くから、『ハイハイ、こわくないよー、だいじょうぶだからねー』って、あやしながら歩くんですけどね」
和坂さんが迫真の演技を交えつつ説明し、俺が補足する。
「当然、通行人から、注目と失笑を浴びます」
「……ほほう」
「しかも、キャリーの中で暴れるので、すごく運びにくいです」
「どうにか動物病院まで運んでも、待合室でも泣き続けるので『こわくないよー、だいじょうぶだからねー』って、あやしながら順番を待ちます」
「診察室に入ってからも、泣き続けます」
「俺んちの犬もそんな感じです」
「キャリーの前に、洗濯用のネットに入れられればいいんですけど、うちのは無理だったんで」
「うちもです」
黒江さんが首を傾げた。
「洗濯用のネットをどうするのですか?」
「猫が暴れて、注射針が変なとこに刺さると危ないから、ネットに入れて動けなくするんです」
和坂さんの説明に、俺と国包は同時に頷いた。
使い魔も納得したのか、感心したような顔で大きく頷く。
世の中には恐怖のあまり沈黙し、全く身動きできないくらい固まる猫も居る。
うちの松太郎と和坂さんちの猫は、そうではない。
「診察台の上でキャリーから出したら、猫は耳を伏せて毛を逆立てて、震えて号泣します」
「ほう……動物病院とは、それ程までに恐ろしい所なのですか……」
「まぁ、犬猫にとっては……恐怖で肉球に汗をかいてて、診察台に梅の花みたいな手形が残るくらいです」
和坂さんが続きを語った。
「『なにがこわいの? まだ、いたいことされてないでしょー? だいじょうぶだからねー』とか言ってあやしながら、猫をがっちり保定します」
「ま、これから痛いことされるんですけどね」
俺は猫の様子を思い出し、思わずニヤけてしまった。気合を入れ、頬を引き締める。
本当は猫の名前を言いたけど、使い魔の黒江さんに教えると、自動的に魔法使いの巴先生にも知られてしまう。
魔道学部の必須科目「魔術概論」の講義では、最初に「魔法使いに真名を知られるのは危険」と教わったので、名前は言えない。
学生同士は本名で呼び合うけど、巴先生は学籍番号で呼ぶ。
出席簿を見れば本名もわかるけど、魔力を持つ巴先生が「本名を声に出して呼ぶこと」自体が危険らしい。
魔法文明圏の国々では、真名……本名の代わりに「呼称」を名乗る習慣がある。それも、本人が自発的に名乗らない限り、聞いてはいけない。
だから誰も、金髪碧眼の女騎士「(仮称)双羽さん」の名前を知らないのだ。