02.猫と病院
研究室の微妙な空気を、和坂さんの明るい声が打ち破った。
「病院……猫と病院の話に戻しましょう。猫って病院の話しただけで逃げるんですよ」
「それは、私も逃げねばならぬと言うことでしょうか?」
「……黒江さん自身の用事で病院に行くことはないと思うんで、それはしなくていいと思います。っていうか、巴先生たちが困るんで、やめてあげて下さい」
和坂さんの説明に、黒江さんは困惑の色を浮かべ、助けを求めるような目を俺に向けた。
うちの松太郎は、押入れ下段の襖に爪を立てて垂直に登攀し、天袋の小さい襖を自力で開けて、狭い天袋の奥深くに籠城する。
勿論、実家の襖はボロボロ。障子のライフはゼロだ。
人間も押入れによじ登って天袋の中身を全部出し、上半身を突っ込んで、怯える猫を捕獲するのだ。
寧ろ、この一連の捕獲劇が恐怖を増幅するんじゃないかと思うが、仕方がない。
好きな餌で釣ってキャリーに誘導しても、成功したのは最初の一回だけ。二回目からは、好物を入れても、キャリーに近寄ろうともしなかった。
その後、獣医さんから、洗濯ばさみやクリップで猫の襟首を挟み、「母猫による運搬」を疑似体験させると大人しくなると聞いた。
早速、アドバイス通りにしてみたが、それも上手く行ったのは初回だけで、二回目からはクリップを見ただけで逃げるようになった。
松太郎は、一回イヤな目に遭った状況は、因果関係をきっちり把握して避けるのだ。
同じ罠には二度と掛からない。
学習能力が高過ぎる。俺の親バカじゃないと思う。多分、うちの松太郎は、超賢い。
「普通の猫は普段、人のハナシ聞いてないフリして、ちゃっかり聞いてるんです。で、病院に連れて行かれるのを察したら、耳伏せて全力で走って、タンスのてっぺんとか、押入れの天袋とかに飛び上がって逃げるんです」
「……成程」
何が成程なのか。
神妙な顔で頷く使い魔に、俺は説明を続ける。
「そうなったら呼んでも出て来ないんで、無理やり引きずり出すんですけど、猫は病院がイヤだから、爪立ててその場所にしがみついて、全力で抵抗するんですよ」
「ほほう……」
「あ、あの、それはやっちゃいけない対応なので、感心しないで下さいよ」
国包が恐る恐る突っ込む。
使い魔の黒江さんは、国包をちらりと見て、俺に先を促した。
「えーっと、イヤーって言う猫を無理やり引きずり出して、注射はイヤじゃーって感じで泣き叫ぶ猫を、『あー、ハイハイ、こわくないよー、だいじょうぶだからねー』ってあやしながら、力づくでキャリーに詰めるんですけど、猫は病院イヤだから、キャリーの入口に足踏ん張って抵抗するんですよ」
「で、最終的に猫の両手足を掴んで、豚の丸焼きみたいなポーズでキャリーに押し込んで、飛び出してくる前に素早く扉を閉めて、鍵を掛けるんです」
和坂さんが、身振りを交えて俺の説明の続きを語った。
恰もここに、全力で暴れる猫が居るかのような迫真のパントマイムだ。黒江さんは、食い入るように和坂さんの動きを見詰めている。
「普通の猫にも牙や爪はあるんで、飼い主は油断してると血まみれにされます」
「うちの犬もそうですよ。狂犬病の予防注射に連れて行かれるのに気付いたら、足踏ん張って歩かないから、最後は豚の丸焼きのポーズにして、父と二人がかりで車に乗せて、病院連れてくんです」
国包も話に加わる。