01.猫のお勉強
「じゃあ黒江、僕は健康診断に行くからね。僕が戻るまで、研究室で電話番、よろしくね」
「かしこまりました、ご主人様」
巴准教授が、男性にしては女の子みたいに優しい声で命令すると、執事風の男性が恭しく応じた。
「黒江、もし、電話が掛かってきたら、『巴准教授は、ただいま席を外しております。一時間程度で戻る予定です』って言ってから、その人の所属と名前、連絡先の電話番号と用件を聞いて、メモして、そのメモは僕の机の上に置いてね」
「かしこまりました、ご主人様」
三十代前半の巴准教授が、小さい子に言って聞かせるような口調で命令すると、五十代くらいに見える燻し銀系の男前は、重々しく頷いた。
基本的な電話対応だ。
俺も高校の頃、バイトの研修で同じ対応を習った。店長と先輩の顔が脳裡を過り、ちょっと懐かしい気分になる。
護衛の双羽さんが、研究室のドアを開ける。
いつもの杖を机に立て掛け、出て行きかけた巴准教授が、ふと思い出したように立ち止まった。
「あ、でも、全然、電話が掛かってこないとヒマだよね。……黒江、学生さんの質問に、答えられる範囲で答えてあげて。禁則事項はいつもと同じで」
「かしこまりました、ご主人様」
黒江さんはその命令にも、真っ黒な頭を仰々しく下げ、丁寧なお辞儀で応える。
巴准教授が、麦藁色の長い三つ編みを揺らして振り返り、俺たちにも言った。
「じゃあ、黒江の相手、よろしくね」
「あ、はい」
「わかりました」
「お気をつけて」
俺、和坂さん、国包が口々に答える。
安心してにっこり微笑むと、巴准教授は双羽さんに付き添われ、研究室を後にした。
「ご主人様、いってらっしゃいませ」
黒江さんはドアを閉めると、ツカツカと机上の固定電話に歩み寄り、傍の椅子に背筋を伸ばして腰を下ろした。
そのままの姿勢で、電話を凝視する。
俺たち三人は、なんとなく顔を見合わせた。
帝国大学魔道学部の巴ゼミに入ってから……いや、入学以来、初めて、巴先生と双羽さん抜きで、黒江さんと同じ部屋に居る。
俺たちが座っている作業机の上には、羊皮紙と特殊なインクが入った瓶、銀のペンが置いてある。
さっきまでは【灯】など、簡単な呪符を作る実習をしていた。まだ、各自一枚ずつしかできていない。
国包が、ペンに手を伸ばしかけ、途中で止めた。
ひとつ深呼吸して、思い切って口を開く。
「あの……黒江さん、『電話番』って別に『電話機の監視』は、しなくてもいいと思うんで、ちょっと、質問、いいですか?」
「どうぞ」
黒いダブルのスーツをきっちり着こなした黒江さんは、電話機から琥珀色の目を離さず、短く答えた。
俺たちは、「禁則事項」とやらの内容を知らない。
でも例えば、双羽さんのスリーサイズや本名は、聞くまでもなく絶対、教えてもらえないと思う。
双羽さんはいつも、灰色のスーツをきっちり着ている。スーツ越しでも、均整のとれた体型がよくわかる。
近衛騎士だけど、武器らしきものを持っていないのは、ここが日之本帝国だからと言うだけでなく、双羽さんが魔法戦士だからだろう。
護衛の双羽さん目当てで、巴准教授の講義を履修したがる男子学生は多い。
ふっくらした胸元には【急降下する鷲】の徽章が揺れ、左右の襟にはそれぞれ、家紋と騎士団の紋章。家紋で「双羽さん」と呼んでいるが、本名は誰も知らなかった。
国包が何を聞くつもりなのかわからず、固唾を飲んで次の言葉を待った。
「あ、あの……黒江さんは、健診、行かないんですか?」
「ご主人様から、電話番を仰せつかりましたので」
ゼミ生の間抜けな質問に、身長百九〇センチはあるガタイのいい紳士が、簡潔に答える。
大学三年の国包は、緊張に上ずる声で慌てて付け足した。
「あ、いえ、そうじゃなくって、別の日に、受けなくてもいいんですか?」
「ご主人様から、そのようなご命令は、拝命致しておりません」
「国包くん、人間用のお医者さんが、黒江さんの何を検査すればいいの?」
見兼ねたのか、和坂さんが口を挟んだ。
俺もそう思う。
秘かに好意を寄せているコに突っ込まれ、国包は耳まで真っ赤になって、しどろもどろに答えた。
「えっ? あ、あぁ、そっか。あの、獣医さんで、その、予防注射とか……」
「針、刺さらないんじゃね?」
国包のとんちんかんな答えに、俺も思わず突っ込んだ。
検査なのに何で予防接種なのか。って言うか、普通の注射針が、黒江さんに刺さる訳がない。
「よぼうちゅうしゃ……ですか?」
黒江さんが首を傾げ、琥珀色の目を国包に向ける。ひょろい男子大学生は、虎に睨まれたように身を竦ませた。
すかさず、和坂さんが助け舟を出す。
「黒江さん、ひょっとして、予防注射が何なのか、ご存知ないんじゃありませんか?」
「はい。初めて耳にする単語です」
黒江さんの視線が、震えあがる男子大学生から、女子学生に移る。
和坂さんはパッと見、大人しそうに見えるけど、割と度胸があるのか、黒江さんと目が合っても震えたりはしなかった。
そのまま話を続ける。
「伝染病を防いだり、罹っても症状が軽く済むように、弱毒化した菌とかウィルスとかで作ったワクチンを注射して、人為的に免疫を獲得させるんですよ。人間には人間用の、猫には猫用のワクチンがあります」
「ほほう……そのような物があるのですか」
黒江さんは関心を示し、上半身を捻って和坂さんに向き直った。
「注射は痛いんで、人間も猫も、大抵は嫌がるんですけどね」
「そうそう。猫って病院連れてかれるって気付いたら、全力で逃げ回るし」
「病気を防ぐ処置なのに、逃げ回るのですか?」
黒江さんが心底驚いた顔で、椅子に座ったまま、口を挟んだ俺に体ごと向き直る。
予想外の食いつきに、ちょっと引いてしまった。俺はすぐに気を取り直して頷く。
「普通の猫にとっては、知らない所に連れて行かれて、白衣を着た知らない人に体を触られて、何か痛いことされて、飼い主も助けてくれないって、恐怖以外の何物でもないんで」
黒江さんが勢いよく立ち上がった。
その拍子に椅子が倒れたが、構わず、眉間に縦皺を寄せてドアを睨む。
黒江さんはこの部屋から一歩も出られない。与えられた命令が、巴准教授が戻るまで「研究室で電話番をせよ」だからだ。
「ご主人様は今、そのような恐ろしい目に遭わされているのですか?」
そっちかよ!
「あぁ、違う。違います! 巴先生は今、健康診断なんで、予防注射はされません」
「そうですか」
俺が慌ててフォローすると、黒江さんは倒れた椅子を戻し、ホッとした顔で座り直した。
採血で別の注射をされることは、黙っておこう。
ゼミ生三人は目で語り、こっそり頷き合った。
知らない人が見れば、人間だと思うだろうが、黒江さんは人間ではない。
和坂さんが、何か閃いたのか、明るい声で黒江さんに聞いた。
「黒江さん、普通の猫のこと、もっと知りたいと思いませんか?」
「普通の猫……そうですね。私も、もっと上手く猫のフリをする為、精進せねばならぬと常々思っております」
「じゃ、私、昔、実家で猫飼ってたことあるんで、色々説明しますね」
執事風の大男が、両膝に拳を置いて身を乗り出す。
黒江さんが意外に勉強熱心なことがわかり、俺も協力したくなった。
「俺も、実家に猫居るんで、知ってること、お話ししますよ」
「ありがとうございます」
渋い声で紳士的にお礼を言われ、俺はちょっと照れた。
犬派の国包が仲間外れっぽくなってしまいそうなので、そっちもフォローする。
「ペットつながりで共通点もあるだろうし、国包もよろしくな」
「私は、ペットではありません」
国包が口を開くより先に、黒江さんが腹に響く声で言った。
「……巴先生の役に立つ使い魔ですよね。知ってます」
「俺たちの猫と、国包の犬が、ペットつながりってことですよ」
国包と俺が慌てて言うと、黒江さんの表情から険しさが消える。だが、まだ若干、疑わしげな眼をしていた。
巴准教授、黒江、双羽は「野茨の血族」「碩学の無能力者」「汚屋敷の兄妹」に登場。
大学生の三田、和坂、国包は、初出です。
一応、三田がこの話の主人公(一人称の語り部=俺)。
シリーズもののスピンオフですが、猫がお好きなら楽しめる仕様になっています。
用語は「野茨の環シリーズ 設定資料」でご確認ください。