愛など私には必要のないものなのです
この度は誠にありがとう存じます、お兄様。
はるばるいらしてくださったことに対して、ではありませんわ。異国に嫁いだとはいえお兄様はいつまでも私のお兄様ですもの。可愛い妹の願いを叶えてくださるのは当然のことでございましょう?
お礼を申し上げたいのは、いらっしゃるだけで済ませてくださったことに対して、ですわ。
お恥ずかしいことですけれど、私が嫁いだこの国は、王たる我が夫を始めとして貴族も廷臣もずいぶん頼りないのですの。お父様やお兄様ならどうなさるかしら、と常常思っていたものですから、ご自身も玉座に就かれたお兄様にはさぞ歯がゆく見えたことでしょう。
本来ならば王妃である私が導かなければならないところ、実家に頼ってしまったのは面目ない次第とは思っておりますのよ。でも聞いてくださいな。
この国の者たちは私をただの小娘のように扱ったのですよ。
女は男に従うもの、とは申しますが、それは無知で度し難い民を治めるための方便の一つに過ぎませんでしょう。生まれながらに国を治める定めを負った者にはあてはまらないこと、まして私は王の妻です。いかな大貴族であろうと高官であろうと私には譲るべきなのです。
もちろん、夫がしっかりしていてくれれば私の出る幕などなかったのですけれど。
夫が、この国の者たちがしたことといったら。私をうるさがったばかりか、国母などと聞こえの良いことを言って政治の場から遠ざけて。公務と言ったら笑って手を振ったり、形ばかり署名をしたりするだけ。要は私の腹にしか用がないということではありませんか。
この私を捕まえて、飾りものの人形に貶めようとしたのですよ。日々を刺繍やおしゃべりで過ごせだなんて、ひどいとお思いになりません?
時間をかけて物の道理というものを分かってもらわなくては、と思っていたのですけれど……。お伝えした通り近ごろ目に余ることが続きましたから。お兄様にご足労いただいたのは苦肉の策といったところですわ。
祖国の歴史を紐解けば、百の諫言よりも一振りの剣の方が人を動かすことがあるというのは明らかですものね。とりわけこの国の者たちには私の言葉が聞こえていないようでしたから、耳を開いてもらう必要があると思いましたの。
お兄様もご覧になったでしょう。お兄様のお供、祖国の軍勢を見た大臣たちの顔を。
陽光に煌く甲冑も、たなびく色とりどりの旗も。綺麗に並んだ槍の穂先も軍馬の熱い呼気が雲のように立ち上る様も。
心躍る壮麗な光景ですのに、いい年をした者どもが揃いも揃って顔を赤くしたり青くしたり。大層胸のすく思いでしたわ。王妃たる者が国に害を招くはずがありませんのに、何を恐れていたのでしょうね?
自分たちの無能を棚に上げてこの私を侮って。女ひとりに何もできないだろうと高を括っていたのでしょうけれど――本当に、良い気味。
ふふ、少々お行儀が悪かったですわね。ああ、お小言はご勘弁くださいな、荒療治だったのは弁えております。迷惑をかけた民には私の名で見舞いを出しておきましょう。兵たちには――良い演習になっていたら良いのですけど。
次があればちゃんと自分でやりますわ。もはや私を人形などと思う者はいないでしょうから。
それにしても、これでやっと誰もが私が何者かを思い出してくれました。
血筋正しく誉れ高い王女の生まれ。最高の教育を受け、道を知った上で時には外れる意志も覚悟もある。尊く厳しい義務を背負うことができる者。
夫もこれからは私の助言に従ってくれるでしょう。
国母というのは国の未来を紡ぐのは私という意味です。腹から子供を産むしか能のない女とは違うのです。
あら、あの者のことではありませんわよ。私が嫉妬に狂った姿を見たい、などと思っていらっしゃったのなら、お生憎様と申し上げましょう。
それどころか、私はあの者を憐れんでさえいるのですよ。
お兄様はどうお思いになりました? 民があの者を魔女だ悪鬼だと呼んで、処刑される様を見て喜び騒ぐのを。
あれはあれで、一種の見ものではありました。聞けば屋台が立ち並び、大道芸の一座が通りを巡り。人々が去った後には花びらや紙吹雪が地を覆い。まるでお祭りのようであったとか。
そう、魔女退治のお祭りと信じていたのでしょうね。下々の蒙昧さときたら、呆れるばかりですわ。あの者は、どこをどう見てもただの地味な女に過ぎなかったというのに。
ですが、政は時に残酷なもの。生贄を必要とするもの。
国に讒言がはびこったのも国庫を貪る輩が栄えたのも夫の不始末です。それでも、王を罪に問う訳には参りませんものね。誰かが罪を被らなければならなかったのです。寵に驕った――口さがない者たちの言葉を借りれば――愛妾などは適任だったと、それだけのことです。
夫の至らなさゆえに、あの者には気の毒なことをしました。まったく、もっと早く私の耳に届いていれば、他にやりようもありましたのに。
まあ、どうして妹の言葉を疑われるのか分かりませんわ、お兄様。
愛妾や庶子の一人や二人、度量のある妃なら受け入れて当然ではありませんか。お母様もお義姉様もなさっていることです。殿方は妻一人では満足できないものなのでしょう? いえ、聞きたくないのでお答えにならなくて結構ですが。
ただ、やはり夫のことで妻が知らないことがあるというのは具合が悪いですから。最初に相談さえしてくれれば、順番さえ守ってくれれば、あの者が夫の傍に侍るのも決して吝かではなかったのですよ。世間に後ろ指を指されることがないような手はずを、喜んで整えていたでしょうに。
夫の不名誉は私の不名誉でもありますもの。夫が甘やかしたばかりにあの者にはいらぬ悪評が立ってしまいました。あの者の咎は軽率だったというだけですのに。死を命じるのは、私としても残念だったのですよ。
愛だなんて陳腐な言葉がお兄様のお口から出るなんて意外ですわ。それは下々のために肉欲を聞こえ良く言い換えた言葉でございましょう? そんなものをありがたがるのは低い身分の者たちだけです。共に国を導く王と王妃は、もっと崇高な絆で結ばれています。
愛など私には必要のないものなのです。
とにかく、あの者を憐れんでいるというのは本当ですの。
だからこそ、亡骸も風雨に曝され鳥獣に喰われるに任せるのでなく、あの者の亡夫と同じ場所に葬ってやりました。私だとて、懐かしい祖国の霊廟ではなく、この異国の地に夫と共に眠るのです。一度契った以上、最後まで連れ添うのが世の理というものでしょう。
子供についても、私自ら責任をもって養育するつもりです。実の母親が罪人だったなどと聞かされては可哀想ですものね。幸いまだほんの赤子ですから、覚えてなどいないでしょうし、引け目など感じることのないように慈しみます。
ご心配には及びませんわ。血の繋がりなど瑣末なことです。産み落とすだけなら犬猫にもできることですもの。立派に育て上げてこその母親でしょう? まして夫の撒いた種ですから、妻である私が責任を取らなくては。
ええ、あの者の子供は確かに夫の子供ということですわ。夫がそれはもう丁寧に説明してくれましたからそこは間違いないようです。未亡人の腹にいるのが亡夫以外の種だなんて不思議なことなのですけれど。
実のところ、最初は、計算が合わないのには目をつむるから亡夫の子だということにすれば良いと勧めてやったのです。夫のせいであの者の嫁ぎ先が絶えてしまった――と、少なくとも世間ではそのように言われているようです――以上、妻として埋め合わせをしなければならないと思ったものですから。
一つの家が生き延びて、子供も私生児の汚名を免れる。我が夫もあの者も多少は名誉を保てる。良い案ですのに、夫は分かってくれませんでした。国の安寧のためでもあるというのに、親子の情云々と訳の分からないことを言って。これだからあの方には私が必要なのです。
嫌だわお兄様、意地悪を仰らないで。私が凡百の女のように見苦しく取り乱すはずがないではありませんか。お忘れですか、あなた様の妹はいつも冷静で、最善の手が見える女だったではありませんか。私が激昂したなどと……卑しい者が自分に都合が良いように事実を捻じ曲げるのはいつものことでしょう?
そう、あの者は激昂して責め立てたと申したそうです。こともあろうにこの私が。
ご覧になりますか? あの者の最期の言葉を書き留めたものです。もう何度も読んだのですけど、必ず笑ってしまいますの。きっとお兄様にも面白いと思いますわ。
的はずれな言い訳ばかりで何も分かっていない。真実を述べていると言いながらしれっと作り事を混ぜ込んで。身分低く愚かな者は平気でこのようなことをするから恐ろしい。治世の参考にすることすらできるかもしれません。
女は男に従うべき。言葉の裏を考えてはならぬ。人を疑ってはならぬ。教えられたことに背いてはならぬ。だから何も気付かなかった。
これを言ったのが市井の娘ならば為政者としては喜ぶべきことですわ。父母に褒美を取らせても良いくらい。
ですが、夫に仕える者としてはまったくもって相応しくありません。本当に、私が立ち居振る舞いを教えてやることができなかったのが悔やまれます。王の傍にいる者は王の物の見方、考え方というものを弁えていなければならないのです。
嘘でも良いから泣いて罪を悔いて見せれば良かったのに、悪いことは何一つしていない、などと言い張って。図々しくも夫と私の仲を案じる言葉さえ織り込んで。最後に弁明の機会を与えてやったのに、気遣いを無にされた思いですわ。
しおらしい態度を見せれば密かに逃がしてやろうとさえ思っておりましたのよ。それは、表向きは死んだ身ですから、今までどおりの生活とはいかなかったでしょうけれど。
それともあの者は私の心積もりを分かっていたのかしら。その上で一度味わった王侯の暮らし振りが捨てがたくて、庶民に落とされるよりは、と私を怒らせるようなことを言ったのかしら。愛されていないと言われて私が傷つくと思うなんて、浅はかとしか言い様がありませんけれど。
もしそうなら、あの者は強欲の報いを受けたのですね。分不相応な世界に足を踏み入れたのが身の破滅を招いたのです。
いえ、そう申す者もいると聞いただけですわ。私がそう思っているということではありません。そうですとも。
……厭なお兄様。私たちは今、ただの兄と妹として話をしているのでしょう? 国と国との付き合いのように腹の探り合いなど止めてください。
第一、憐れまれるべきは私ではなくあの者ではありませんか。私があの者の言葉に動かされることなどありえません。
あの者は全てを失いましたが、私は全てを得ました。
あの者があれほど誇った子供でさえ、私を母と呼ぶようになるのです。たとえどううまく立ち回ったとしても、あの者が生き長らえていたとしても、夫の伴侶は私です。愛妾など、王の肉体の弱さと王妃の寛容の証でしかありません。国の歴史が続く限り、私の名が夫ともに語られるのです。
愛など必要ないもの。意味のないもの。何度も言わせないでくださいませ。
あの者は夫に愛されているなどと嘯きましたが、夫は何もしなかったではありませんか。愛がそれほどに尊いものなら、私の目もお兄様の存在も問題にならなかったはずではありませんか。
いいえ、今のは違います。お忘れください。申し上げたいのはそういうことではないのです。
私は王妃として冷静に国と夫のためになすべきことをしただけなのです。そこに私の感情が入る余地はありません。国を動かすのに心は必要ありません。理屈が全てです。
たとえ何度繰り返したとしても私は全く同じことをするでしょう。それは私の行いが無謬のものだからです。
これはどういうおつもりですの、お兄様?
お兄様に抱きしめられて頭を撫でていただくなんて何年ぶりでしょう。幼い頃は、雷や夜の風の音に怯えた時にこうしていただいたこともありましたけれど。今の私には恐ろしいものなどなにもありませんのよ?
なんて懐かしい。でも気恥ずかしい。――お離しくださいな、こういうことは兄ではなくて夫の役目です。
そうだわ、明日夫と遠乗りに出かけますの。お兄様に衣装を選んでいただきたいわ。
さあ、こちらへ。兄とはいえ他国の王妃の衣装部屋に許されるなど、名誉なことですのよ? ご謙遜は不要です、信じているのはお兄様のご趣味ではなくお義姉様のご薫陶ですから。
心して選んでくださいね。自身の妻は美しいのだと、夫には改めて驚いてもらいたいものですから。
分かってしまいますか? 浮かれてしまっていますの。夫と出かけるのは久しぶりですから。柄にもないことですわね。
お兄様のおかげで、夫もやっと気づいてくれたようです。正嫡の世継ぎがいなければ意味がないのだと。
これからは夫と過ごす時間も増えますわ。ちゃんと話せば私が夫のためになる女だと分かってくれるでしょう。
楽しみに待っていてくださいね。もうすぐ甥の顔を見せて差し上げられると思います。