この秋空の下で
人肌恋しい季節がやってまいりました。
彼女と一緒に暮らすようになって二年。付き合い期間を合わせれば四年の付き合い、片想いだった期間も含めれば五年間の彼女を俺は知っていることになる。
その彼女が先週の土曜日、部屋を出ていった。
『ほっんと、淳也って無神経! もういい!』
こんな言葉を吐いて、愛子は家出した。
それから一週間が経つ。
メールも電話もない。
こんなことは、しょっちゅうだった。
ちょっとした口喧嘩。
売り言葉に買い言葉。
犬も食わぬ痴話喧嘩。
喧嘩の原因なんて、振り返ってよく考えてみたら、結構くっだらないことだったりして、なんでムキになっていたのかも分からなくなる。
そりゃ、長い付き合いともなれば、たまには喧嘩もあるさ。
毎日、四六時中、ラブラブってわけにはいかないって。
「あ〜、歯みがき粉切れてたんだ…。なぁ、愛〜! ……って、いないんだった…」
洗面台の下にある収納棚を覗きながら溜め息を一つ。
のさりと立って鏡に映る姿を見れば、芸術的な寝癖と特殊メイクばりに腫れ上がった一重瞼の俺がいた。
今日は仕事も休みで昼過ぎまで寝ていた俺は、睡眠の取りすぎで、瞼がホラーなみに腫れてしまっているのだ。
いつもなら彼女に妨害される睡眠も、今日は邪魔されることもなくて、ちょっと余裕をかましすぎたようだ。
それにしても――
今回の家出は思いの外、長いな…
いつもなら一晩…、最高記録でも三日だったのに、今回はもう一週間になる。
喧嘩するたびに、決まって部屋を出て行く愛子。
だけど、すぐに帰ってくる。
それは彼女の気が治まっていようと、いまいと関係なく、よく躾られた伝書鳩みたいに必ず帰ってくるのだ。
だから俺も追い掛けたりしない。
愛子の気の済むままにしといてやる。
それは薄情なんじゃなくて理解があると言ってほしい。
それに、愛子が何処にいるのかも分かってるし、誰に愚痴ってんのかも俺は知っているから、さほど心配もしていないのだ。
ただ今回はいつものパターンと違うもんだから、ちょっとだけ気がかりといえば気がかりだ。
今日は時計を見る回数が多い。
やけに部屋の中が静かに感じて、心なしか室温が下がっている気がする。
窓を開ければ、澄み渡る秋の空が広がっていた。
「寒っ…!」
十一月にもなれば、太陽が出ていても外の空気は冷たい。
来月にもなれば、息が白くなるほど寒くなるだろう。
愛子と付き合い始めたのも、こんな季節だったと思い出しながら窓を閉めた。
寒さの残る躰を両手で擦ると、腹の虫が情けなく鳴いた。
冷蔵庫を覗いて見たものの食べれそうなものは何もなくて、がくりと肩を落としたが、流し台の下に買い置きしてあったカップラーメンを見つけて救われた。
それからお湯がないことに気付いて、ヤカンを火にかける。
空腹から来るイライラで、ちっともじっとしてられないくて、ガスコンロの前で足踏みしながら、お湯が沸くのを待った。
その時、流し台の隅に捨てられた陶器の破片が目に入った。
それは愛子が愛用していたマグカップで、一週間前に俺の不注意で割ってしまったものだった。
遡ること一週間前――、
『えっ?! 割っちゃったの?!』
パリン! とカップが床に叩きつけられ、確実に割れたであろう不吉なその音に、愛子はすっ飛んできた。
この時の愛子の顔は鮮明に憶えている。かなりの大ショックだったみたいで、ただでさえ大きい瞳が更に大きく見開かれ、普段のんびり屋の彼女が、今までに見せたことのない素早さで破片に近づいた。
『悪ぃ…、手が滑った』
本当に悪いと思った。だけどもう割れたもんは仕方ないじゃん、と開き直っている俺もいた。
『手が滑ったって…、そんなぁ〜…』
愛子は一欠片ずつ丁寧に集めている。
ブツブツと何か言っていたようだが、俺には聞こえなかった。
『お前なァ、“大丈夫? 怪我はない?”くらい言えないのかよ…』
『大丈夫なんでしょ? それよりもこっちの方が大事! ねぇ、コレ接着剤でくっ付けられないかな〜?』
『はぁ? そんなもん、くっ付けてどうすんだよ…。また新しいの買えばいいじゃん。
それとも何? 捨てられない理由でもあるの? まさか高価なもんだったとか? でもそれはないか…』
俺は愛子と同様にしゃがみ込んで、割れた破片を一片摘んだ。どう見ても安値のモノだと思うけどな…と部屋の照明にかざしてみる。
やっぱりその欠片は微妙な光沢を放つだけで、なんら普通のものと変わらない。
すると愛子が、えらい剣幕で俺の指から破片を奪い取った。
『触らないで! ほっんと、淳也って無神経! もういい!』
それからはいつものパターン。愛子は家出するための荷造りを始め、俺は『あぁ…またか…」と溜め息をつく。
割れた破片がもう床に落ちてないか掃除機までかけて、陶器は燃えないゴミの日に出せばいいのかと真面目に考えている几帳面な俺。
そうこうしているうちに愛子は部屋を出ていった。
その間、一度だって俺の方を見ることはなかった。
何もコップ一つ割ったくらいでそこまでカッカすることもないだろうに…と俺は思うのが、この当たりどころのない気持ちをどこへぶつけるでもなくゴクリと呑み込んだ。俺も大人になったと思う。
ヤカンのお湯が沸く合図に意識は現実に戻され、時計の針は午後一時。俺は独りでカップラーメンをすする。
少しは身体も温まるだろうと思っていたのに、ちっとも温まらない。逆に虚しさと心細さが増して、満たされたはずのお腹さえも、『いつものご飯を食べさせてよ。愛子の作ったやつがいい』と不満を漏らす。
妙に静かに感じる部屋。
寂しくなった俺の左隣。
愛子がいない休日の午後。
俺は無意識に携帯電話に手を伸ばした。
慣れた手つきで愛子を呼び出す。
何を言い出してしまうのかなんて自分でも分からない。寂しいとか、早く帰ってきてなんてそんな女々しい言葉なんて到底言えるわけないけど、一言でもいい、憎まれ口でも構わないから愛子の声が聞きたいと思ったんだ。
だけど、聞こえてきたのは留守番電話サービスの声。
その何の感情もない留守番電話サービスの声さえも、俺を問い詰めているように聞こえる。
どうしてあの時、手を掴んで引き止めなかったのかと。
もう彼女を愛していないのかと。
まるで愛子が責め立てているかのように俺の耳も、胸も大きく騒つかせた。
俺は、そそくさと出掛ける支度を開始する。
それが俺の答えだった。
迎えに行かなきゃ……!
仕事を口実にして、出ていったきりの彼女をほったらかしにしていい理由がどこにある?
また一日もすれば帰ってくるだろうという自信と余裕はどこから湧いてくるんだ?
それは彼女を信じてるからに他ならない。そして少しの自惚れもある。
それでもこのままほったらかしにしていい理由にはならない。
俺は出掛ける準備を整えると、また携帯電話のボタンを押した。
今度は愛子が今一緒にいるであろうその人物に。
たがその人はなかなか出てくれなくて、しかも電話に出た第一声はかなり嫌悪感剥き出しで、俺は思わず苦笑いを浮かべる。
《はい? もしもし?》
ダルそうに電話に出てきたのは愛子の親友、美咲である。愛子は家出をする時は決まって彼女の部屋に上がり込むのだ。
「あ…、俺、淳也だけど、愛子いるなら変わってほしいんだけど…」
《は? 今更?》
努めて低姿勢で、出来れば穏便に…という平和主義の俺の意向は聞き届けてもらえなかったようだ。その刺々しい話し方が耳に刺さる。
どうして女同士の友情はこんなにも律儀で、結束力があるのだろう。
とくにこんな場合は、一段と結束力の士気が上がるから厄介だ。
《愛子ならいないよ》
「ほんとに?」
《なんならウチ来て確かめる?》
「いや…、遠慮しとく…」
愛子がそこにいないのなら、もう美咲と電話している理由はない。
出来れば一刻も早く電話を切りたかった。
だが、そう簡単に切らせてはもらえないようだ。
電話の向こうから深い溜め息と共にお説教が始まった。
《あんたさ、どうしてそうなわけ? もう少し愛子のこと考えてあげてよ》
「考えてるよ」
これは自信を持って言えた。だって本気に将来のこともちゃんと考えてる。だから必死こいて仕事も頑張ってんじゃん。
家事だって彼女任せには絶対にしない。愛子がご飯を作ってくれたら、洗い物は俺が進んでしたし、ゴミ出しだって部屋の掃除だって協力している。
“私はあなたの家政婦なんかじゃないのよ”なんて絶対に言われたくなかったし、言わせたくなかった。
それが俺なりのプライドであり、優しさでもある。
《そう? でも愛子、寂しそうだったよ?》
「え…」
一瞬、愛子の哀しげな顔が浮かんで、すぐに消えた。
もう手が届かない何処かへ行ってしまったような虚無感に襲われる。
《あんまり寂しそうだったから、淳也なんかより、もっといい男紹介してあげるって言っといた》
「余計なこと言うなっ…!」
これだから女友達は信用できない。
《余計なことじゃないでしょう?》
《じゃあ聞くけど、最近デートしたのいつ?》
《愛してるって言ったのは何日前?》
《愛子がなぜ怒ったのか、ちゃんと分かってんの?》
急き立てるように次々と言葉を投げ込んでくる。
恐ろしく威力のあるその言葉の球筋に、俺は返す言葉がなかった。
最近デートしたのはいつ? ―――いつだろう。土日の休日は家でゴロゴロすることが多かったのは確かだ。愛子も、何も催促しなかったし、家でゆっくりするのが好きなんだと思ってた。…でももしかしたら俺に気を遣っていただけなのかもしれない…
『愛してる』を口にしなくなったのはいつから? ―――そんなの気にしたことない。
一緒にいる時間が長くなればなるほどお互いの信頼はあつくなる。信頼しあえば、言葉なんてなくたってお互いの考えてることは、なんとなく空気で分かるもんだ。
じゃあ、なぜ愛子はあんなに怒ったのか分かるのか? ―――いや……全然分からない……。
結局俺は何も分かっていなかったということか……
《ちょっと、無言はやめて…》
「あ、悪ぃ……」
なんだか軽いカルチャーショックを受けたような気分だ。
一体今まで、愛子の何を見てきたんだろう。
幸せだと感じていたのは俺の単なる自己満足でしかないのだと思い知らされた。
《私だってね、愛子のあんな顔みたくないの。喧嘩するたびに部屋に上がり込んで、そのたびにあんたの愚痴聞かされる私の身にもなってよね!ここは駆け込み寺じゃないのよ!》
耳の鼓膜を響かせるキンキン声に思わず携帯電話を遠ざけた。
《…でも、嫌だって言われちゃった。誰も紹介していらないって。
どうしてもあんたがいいんだってさ…。
良かったね、見捨てられなくて…》
やってられないと美咲は鼻で笑った。
その後もぐちぐちと説教は続いたが俺の心はずっと愛子を求めていて、美咲のお説教は半分も聞いていなかった。
「じゃあ、やっぱそこにいたんだ…」
《今朝まではね…。なんか今日は行きたいとこがあるとかで、朝の早いうちから出ていったよ》
「何処行ったか、分からない?」
《知らない。っていうか、あんたこそ分からないの? 彼氏でしょ?》
正直分からなかった。てっきり美咲の部屋にいるもんだと思っていたから、それ以外は想定していなかったのだ。
たった一週間前のことが、もう一月も二月も前のことのように感じる。
愛子の笑顔が思い出せない。
あの柔らかな暖かみのある笑顔が―――
「いくつか心当たりがあるから、探してみるよ。ありがとう」
そう言って電話を切ったけど探すあてなんてなかった。
取り敢えず、部屋でじっとしてることはできなかった。
これは彼女の優しさに胡坐を掻いていた俺への罰なのかもしれない。
もしそれが愛子が出したSOSならば、見過ごしていいわけがない。
俺は木枯らしの吹く秋の空に、逢えますように…と願いながら、アパートの階段を降りた。
俺がまず訪れたのは、街中にある一つの喫茶店。
個人経営のこじんまりとした喫茶店だが、なかなか趣きのある古い感じの店構えで、コーヒーの味にはちょいと煩い常連客が足繁く通う店である。
実は俺も昔はその常連客の一人だった。
その理由はただ一つ。
そこで働く女性に会いたいがためだ。そしてそれが愛子だったのだ。
俺がこの喫茶店に初めて入ったのは五年前。俺はまだ大学生で、大学の近くだったこの喫茶店に偶然入ったのがきっかけだった。
愛子はそこのウエイトレスをしていて、どのお客にも愛想よくて、いつ行っても眩しいくらいの微笑みをこぼしていた。
俺はその笑顔に癒されたいがために足繁く通い、いつからかその笑顔が俺だけのものになったらいいのにと思うようになっていた。
それから半年も経てば、すでに俺は常連客の仲間入りで、顔も名前も覚えてもらえていた。
この店は常連客ともなるとマイカップを持ち込めるらしく、大抵の常連客はこの店にマイカップを置いている。勿論俺もマイカップを置いていた。
いつものごとく店に入れば、彼女と店のマスターがまるで親戚の家にでも遊びに来たのではと錯覚してしまうほどの気さくさで迎えてくれ、『いつもの…』と言うだけでマイカップに入ったコーヒーが出てくる。
俺はそのコーヒーで喉を潤し、彼女の笑顔で切なくなった胸をいっぱいに満たした。それが週一の日課になっていた。
そんな俺に転機が訪れたのは、鬱陶し夏の季節からゆっくりと模様替えを始めた初秋の頃だった。
俺が店に入ると、彼女の顔にいつもの笑顔はなくて、彼女は血相を変えて飛んでくる。そして深々と頭を下げた。
話を聞けば、彼女が俺のカップを誤って割ってしまったというのだ。
彼女は今にも泣き出してしまいそうな勢いでひたすらに頭を下げ、『安モンだったし、別にいいよ』と俺が言っても弁償すると言って譲らなかった。
何処で買ったモノなのか、同じモノがなかったら違うカップでもいいのか、もし次に使うカップはどんなデザインがいいか、などと真剣に聞いてくる。
そのひた向きで真っすぐな態度に俺は心打たれて、自然と笑みが零れた。こっちまで心が綺麗になった気がしたのだ。
『じゃあさ、一緒に買いに行かない?』
と、さりげなく誘ったデートも、彼女は何も気付かずに快く受け入れてくれた。
この場合、彼女に拒否権なんてなかっただろう。それを計算した上で誘ったのだから俺もなかなか性格が悪い。言い訳はしない。
誰にどう思われようとも、彼女と二人きりで逢いたいと思ってしまった気持ちに嘘はなく、己の欲に素直に従っただけだ。
今思えば、愛子のことを何も知らなかったあの頃の方が必死に愛子の心を探っていたように思う。
彼女は何を見て、何を感じるのだろうと、一喜一憂する彼女の表情を、目を凝らして見つめていた。
あの頃よりも今の方がずっと愛しくて、大切な存在になっているのに、俺は今、愛子が何処にいて何を思っているのか見当もつかない。
喫茶店を外から覗いたけど、愛子らしき女性の姿は見つけられなかった。
がくりと肩を落とし踵を返すと、店の入り口から顔を出したマスターに引き止められた。
「なんだよ〜、久しぶりに顔を出してくれたと思ったら、コーヒーも飲まずに帰っちゃうのかい?」
マスターは相変わらずの気さくな笑みをもらしていた。
「寒そうな顔して…。一杯飲んでけよ」
寒そうな顔…と言われ、思わず頬に手を当てた。
確かに頬は冷たかったが、寒そうに見えたのは、多分愛子のいない淋しさと、愛子の存在を改めて認識させられて、独り取り残された気になっていたからだ。
「あの…でも、今は…」
今は呑気にコーヒーを飲んでる場合じゃない。
そう伝えようとした矢先、マスターは俺の気持ちを先読みしたかのように言った。
「まだ仲直りしてないのか…。だったら尚更だ。飲んでいけ」
そのマスターの口振りは全てを知っていて、何か俺に伝えたいことがあると言っているように聞こえた。
「アイツ、此処に来たんですか?」
カウンターに座りながら、向こう側にいるマスターに視線を合わせる。
マスターは手慣れた手付きでコーヒーを入れてくれる。
「来たよ」
「いつですか?」
思わず身を乗り出してしまう。
こんなに必死こいて愛子の足取りを探るくらいなら、なぜすぐに追い掛けてやらなかったんだろうと、こんな後悔ばかりが渦をまく。
「先週の日曜…だったかな…。えらい元気がないもんだから心配になってね、訳をきいたら…」
そこでマスターは言葉を切った。
なぜか困ったような顔をする。
「訳をきいたら…なんですか? 勿体ぶらずに教えてくださいよ」
口籠もるマスターに苛々としてしまう。マスターにあたるのは筋違いなのは百も承知なのだが、今はどんなことをしてでも、愛子の片鱗でもいいから触れていたい。
「いや、俺が言っていいのかな…。淳也君自身で気付かなきゃ意味ないんじゃないかな…。そう思うと、やっぱり俺からは言えないな…」
「なんですか、それ…」
散々、引っ張っといて最後がそれ?
それはあんまりだ……
「ま、コレでも飲んでじっくり考えるんだな」
そう言って出してくれた俺のマイカップ。
一口飲めば、酸味のある香りが鼻を抜け、コクのある味わいに渇いた喉が潤って、風味豊かな茶色の液体がまた昔の記憶を呼び起こす。
いや、正確に言うなれば、このコーヒーではなく、この手にしたマグカップが愛子へと導く鍵となってくれたのだ。
――このカップ…、あの時、愛子が買ってくれたものだ……
俺はコーヒーの熱で熱くなったカップを両手で支え、よく見えるように目と同じ高さまで持ち上げた。
あの時――とは、初めてデートに誘った時のこと。『一緒に買いに行かない?』と誘って、次の休日に二人で買いに行ったあの日。
俺は彼女に選んでほしいと頼んで、彼女が俺のためにマグカップを選んだ。
あれも素敵! これもかわいい! と目移りさせながらも選ぶ時のその目は真剣で、そんな彼女を隣で眺めていた俺は声をあげて笑ってしまうほど幸せだった。
だからその時、俺も彼女に色違いのカップをプレゼントをしようと決めた。
彼女には内緒にして、帰りぎわに寄り道した公園でそっと渡した。
俺の想いと一緒に、そのカップをプレゼントしたのだ。
その時彼女は恥じらうように頬を紅潮させながら、それでも嬉しい! と弾むような声を出して喜んでくれた。
俺たちは互いに想いを告げ合って、帰り道は手を繋いで歩いた。
落ち葉で茶色や黄色になった散歩道は、落ち葉を踏みしめる度にカサカサと音を立てて、なんだか胸の辺りまでこそば痒い感じがしたのを憶えている。
『もう割らないでよ、このカップは二つで一つなんだから』
冗談半分で、ただその場の勢いでそんなことを口にしていた。
決して本気で言った言葉ではない。たとえ割れたとしてもまた一緒に買いに行けばいいと思っていたのだから。
俺はまた一口コーヒーを飲んで手にしたマグカップをまじまじと眺めた。
―――同じだ…。俺が割ったあのマグカップと、このカップ…、色が違うだけで……
つまり、愛子が大事に使っていたマグカップは俺がプレゼントしたあのマグカップで、それをこの俺が割ってしまったんだ。
そのことにやっと気付いた。
自分で割るなと言っておきながら。
俺がプレゼントしたものだったことさえも忘れて。
そしてその日が四年前の今日であったと今頃思い出すなんて。
しかも俺は愛子になんて言った?
『また新しいの買えばいいじゃん』
『捨てられない理由でもあんの?』
いくら忘れていたこととはいえ、よくもこんなことが平気で言えたもんだ。
俺はひたすらに己を責め、詰った。
「あの、マスター…!」
俺が顔を上げると、マスターは穏やかな笑顔を向けてくれて、何も言わずとも悟ってくれているようだった。
やはりマスターは全てを知っていたんだ。
愛子が怒った理由も。
俺がここに来た訳も。
俺にカップを見せれば思い出すだろうことも全て。
さすが愛子の叔父である。
「あんまり俺の姪っ子を泣かすなよ?」
マスターは悪戯な笑みで俺を睨んだ。
俺はそんなマスターの気遣いに感謝しつつ、店を出た。
昔行った雑貨屋にも行ってみたけど、愛子はやはりいなくて、そうなってくるとやっぱりあの公園しかない。この辺りじゃ一番大きい公園だ。池や林があり、休日ともなれば家族連れがアウトドアを楽しみにやってくるスポット。この季節は銀杏の鮮やかな黄色が秋模様を演出する。
きっと…、いや絶対に、愛子はそこにいるはずだ。
俺は引き寄せられるようにただ真っすぐにあの公園へと駆け出した。
広い園内。秋晴れの今日は、休日を楽しむ家族たちの賑やかな声が谺している。歩く先々で何人もの人とすれ違う。
だけど俺はすぐに愛子の姿を捉えることができた。
池のほとりに置かれた木製のベンチに腰掛け、池を泳ぐ鴨たちを眺めているのか、その小さな背中は微動だにしない。
セミロングの髪が秋風に攫われても直しもしないで、背もたれに預けた背中は泣いているように見えた。
泣かせているのはこの俺で間違いないのに、愛子の後ろ姿を見つけただけで、ホッと胸が熱くなる。
愛子を見つけられた安堵感と今までの後悔が一気に溢れて、たまらず背後から抱き締めていた。
「捕まえた」
頬に当たる愛子の髪が驚くほど冷たくて一体何時間此処にこうしていたのだろうと思うと、とても鈍かった己が疎ましい。
「…来るの、遅い…」
口をつく言葉は俺を責めているのに、愛子は背後から回した俺の腕をぎゅっと握っている。その握ってくる小さな掌も髪同様に冷たくなっていた。
「ごめん…、コレ買ってたら遅くなった…」
俺は持っていた紙袋を渡す。つい先程寄った雑貨屋で買ったものだ。さすがに四年も前に買った同じモノがあるわけもなく、デザインなんてよく見てる余裕もなかったから、どんなモノを買ったか自分でも記憶は曖昧だ。けれど今は愛子に誠意をみせることが大事。目一杯の『ごめん』を伝えることが大事なんだ。
「開けていい?」
「いいよ」
俺は愛子の隣に座る。
いつも当然のことのように感じてた俺の左隣に愛子がいる。その存在の大切さを思い知る。
愛子はかじかんだ両手で丁寧に包装紙を解いている。
少し口元を緩ませて、思うように動かない指にじれったくなりながら、それでも丁寧に扱っている。
『俺がやろうか?』と言えば、『自分で開けるの!』とムキになって、冷たい頬を膨らませる。
俺は苦笑しながら、水色の空を見上げた。
雲一つなく、透き通るような秋の空。
こんな休日の過ごし方も悪くない。
少し寒いけど、俺の左隣には愛子がいてくれるなら全然平気。
だってスゴく心が温かい。心地いい。
「わぁ、素敵! 淳也ありがとう! 大事にするね!」
愛子の瞳が輝いて、愛しそうにマグカップを抱き締めている。
そんな愛子を眺める俺の顔も自然とほころんだ。
「ほんとごめんな? 俺、無神経すぎた…」
「もういいよ。こうして来てくれたから」
「ほんとに?」
念を押すように愛子の顔を覗き込んだ。愛子は笑顔だった。
あの柔らかい笑顔で。
俺が大好きな笑顔で。
「愛子…」
俺が名前を呼べば愛子は俺を見上げる。
冷たい頬に手を伸ばせば、愛子も俺のその手に自分の手を重ねる。
俺の目を見つめてくるその瞳は少し潤んで見えた。
「愛子、愛してる」
そっと重ねた唇も案の定冷たくて、感覚なんてあまりなかったけれど、この日感じた全てのことは一生忘れない。
不器用でも『愛してる』を相手に伝えよう。 当たり前の優しさに慣れてはいけない。 隣にいる存在の大切さを思い知ろう。―――こんな想いをのせてみました。◆〈最後までお付き合い下さいました皆様へ、感謝。ありがとうございました m(__)m 〉