Scene 3 信じてもいいのだろうか
・ ・ ・
「……う」
誰かがうめいている。――俺か? もしかして。
凛とした、それでいてどこか温かみのある――声。
「……まったく。呆れますね。何の策もなしに飛び込むなどと。愚者の行いにしか見えません。
あなた方がキーナと呼ぶこの生物も、すっかり息をしていませんよ」
なにっ!?
俺が勢いよく見を起こすと、セトと目が合った。今は人の姿だ。
ちょうど俺の頭の上からセトの淵色の瞳が見下ろしている。銀髪を伝った水が数滴、ぽたぽたと断続的に降ってきていた。
セトの態度はいつも落ち着いていて、それは今も同じだ。
俺は首をひねって辺りを見回す。
隣に、キーナ・オルバドが横になっていて、確かにセトの言うとおり、息をしているようには見えない。
とりあえず、横に返して水を吐かせる。
幾度か咳き込むと、普通に呼吸を始めた。
「――は~」
多分、間抜けなため息になっていただろう。安堵の脱力感に抗いながら、改めて仲間を振り返る。
「セト、助かった」
「当然のことをしたまでです」
澄まし顔で魔物は答えた。
お前が当然のこと以外しないのはよく知っているし、それが賢い生き方だというのもよく分かる。そして今、余計なことをして助けてくれたというのも、な。
「ありがとう」
「――いえ」
セトは目を伏せて応じた。
仰げば、青空が広がっている。周囲に目を戻すと、枯れ草の並ぶ草原だ。遠くには、草の間から、湿地なのか、水面がまばらに見えた。
懐から羅針盤を取り出す。地図――は、使えんな、びしょぬれだろう。
「レンフォスの城というのは、どっちだ」
さあ……。隣で、セトが相槌みたいにつぶやいた。
仕方なし、湿地に見えるほうへ向けて歩き始める。見当が合っていれば、こちらでいいはずだ。
とん・とん・とん
繰り返し鳴る、気持ちのいい音。……ううん。違うよ。音が気持ちいいんじゃなくて、その繰り返しが、気持ちいいの。
ゆら・ゆら
おんなじように、右と左へも揺れている。
暖かくて、それなのに、腕や背中は気持ち悪い。それは、服の布がへんな具合に張り付いているからだ。
……ちょっとだけ、寒い。
あたしは目を開けた。
小麦色の草が、後ろへ流れていく。その上をあたしは揺られている。
どこへ行くんだろう。
ゆら・ゆら
さっきまで、たくさんの人に追いかけられていて、一生懸命逃げていたけど、今はもう大丈夫なのかな?
(あ、いぬだ)
白い犬が、斜め前を歩いていた。
「――ええ、それは、構いませんが」
たどり着いたのは中程度の大きさの街だった。宿の主人は俺と、背負われたままのキーナ、セト(犬)を無遠慮に眺める。
ほとんど日は落ちていて、空には藍色が広がっていた。
「よかったですね、宿が取れて」
「――ああ」
返事をしてしまってから、気がつく。セトが今みたいなコメントをもらすのは珍しい。どうしたんだ? コイツ。何か悪い病気……?
ほとんど板に布を載せただけの寝台に乗せると、キーナはようやく目をさました。
――浅黄色の肩くらいの髪が、泥水のせいで妙な具合に固まっている。おそらく、俺も似たようなものだろう。
改めて自分の髪に手をやれば、ちくちくと刺さるような感触が返ってくる。
セトも――?
ふわふわ
「なっ! 何だテメエ!」
思わず叫んだ。
「何がです」
キーナを囲むようにして寝そべっていた白犬が、ゆっくりと顔をこちらに上げた。
俺は今の発言の不可解さに気がつく。
「あ――いや。つい」
借りた湯と布で、キーナの髪を拭う。
「いいよ、自分でできるよ」
そういうなら。
本人のことは本人に任せ、俺は部屋を出た。
セトが後を付いてくる。
外に設えられた井戸で、自分の髪を流す。
冷たいが、それ以外の問題はない。
「ぷはっ」
後で気づいたが、どうやら動物みたいに頭を振っていたらしい。
新しい布で拭けば、泥まみれの不快さは和らいだ。
――贅沢を言えば、泉でもあればよかったんだが。
運んでもらった夕食を、キーナはもくもくと口に運んでいる。
俺はといえば、とっくに平らげていた。
「ねぇ、明日はどっちへ行くの?」
食べ終えたキーナの無邪気な目が問う。
まさかコイツ、実はまったく危機感がないんだろうか。ふと、そんなことを思う。
まあ、それまで深窓で暮らしていた奴にいきなり生命の危機を突きつけても、おいそれとは理解してもらえないってのは、何となく理解はできるんだが。
セトは犬の姿で、床に伏せている。寝ているように見えた。
「さっき主人に地図を貰った。レンフォスまではあと五日もあれば着けるだろう」
「そうなの?」
キーナは驚いたように目を丸くして、次に、伏せる。
『帰』りたくないとでもいうんだろうか、何不自由ない暮らしの中に。
別に、そういう考えが理不尽だとはいわないが。
「おじちゃんは」
……俺、か?
「カローナのおばさんに頼まれたから、私をレンフォスさんのところまで連れて行ってくれるんだよね?」
幼いながらに、状況を確認しているらしい。カローナというのは、あの年配の侍従のことだろうか。
俺は頷いた。
「正確には、レンフォス公リテイルだ」
「バーナヒルのおじさんのところには、もういなくていいの?」
もしかして、行動と状況の認識が繋がっていないのか。
「……戻りたいか?」
キーナは首を横に振った。
「分からない」
……そりゃ、そうだな。
こんな、何も分かってない奴に、貴族どもは結婚だの地位だの金だのを押し付けては、いつの間にかそいつ自身をも仲間に取り込んでいく。――偏見が混じっていることは認める。
「とりあえず休め。明日は早いぞ」
「はい」
セトの返事がうつったみたいに、キーナは頷くと、布団にもぐった。
食べてすぐ寝ると何とやら。ふとそんな言葉を思い出しつつ、床に伏せたままの魔物へ、俺は呼びかける。
「セト。悪いが、交代で見張りを」
俺の提案をそのまま魔物は切り捨てる。
「私が一晩中起きていますよ。あなたもぐっすりお休みなさい」
「……あ、そう」
なんだか、部下を正当に虐げる上官みたいな気持ちになって、俺は少しばかり苛ついた。
「本当に睡眠とらなくても大丈夫なんだろうな?
せめてベッドを――」
「腹が冷えて気持ちがいいです」
「……」
空回りぶりに、自分が情けなくなってくる。
仕方なく、布団をかぶることにした。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
人々の寝静まった夜は静かだ。
闇に散った星と月。そして、虫の立てるささやかな恋歌だけが世界を満たす。
明かりもなく闇色の宿の一室で、セトという魔物は思う。
――のんきなものだ。
いくら今は味方としてここにいるとはいえ、いつ寝返るか分からない。
そんな自分を前にして、こうもやすやすと眠れるとは。
両の手に住まう、かつての戦利品を確かめる。緑の蛇の姿をした、如意の長さを持つ魔物。
多分この人間は、何の疑いもなく眠りの中にいる。
ふと得物を、叩きつけてみたい思いが湧く。
――どうなるだろう。気づいて起きるだろうか。それとも――?
そこまで考えて、セトはその馬鹿馬鹿しさに気がついた。
これまでだって何度も、そんな状況はあった。
騎士団でだって、セトは大抵、アルカネットの脇で睡眠を取っている。
油断しているのは自分も同じだ。
積み重ねられた、あるはずのない信頼。
それを裏切るのは自分に嘘をつくことだと思えるほどに、それは事実として、脳に相当する機構に、なじんでいる。
「理由がない」
セトは、声にはせずにつぶやいた。
――そうだ。この人間たちを裏切る理由がない。
信じてもいいのだろうか。




