Scene 1 騎士と姫とが逃避行
Scene 1
ふざけやがって。
その程度で俺を足止めできると思っているのか? なめられたもんだ。
だが――
後ろに目をやるまでもない。外套のすそを握っている手は、細く、小さく、まるで頼りない。
「飛べるか?」
外套を握る手が、かすかに震えた。違う、お前に言っているんじゃない。
「はい。ですが――」
俺の後ろにいた白い長毛の犬が人語を話す。小声だ、包囲している奴らには聞こえないだろう。
「なるべく」
地面を指す。
「下がってくれ」
頷く気配。
俺はもう一度、周りを遠巻きにする連中を確かめる。
丘国バーナヒルの兵。鎧や得物はばらばらだが、茶を基調とした服は共通している。今、俺の外套のすそをつかんでるこのちっちゃな手――キーナ・オルバドの嫁ぎ先の兵士どもだ。
俺がこいつを連れて逃げている理由は、ごく単純。
囲むほうからささやきが聞こえた。
「……へえ、あれがねえ。ほんとちっこいな」
「ああ。でも、騎士ってほうも……」
「ちっこいよな」
……。
聞かないことにした。いちいち目くじらを立ててもつまらん。
後ろから白犬――セトの声が聞こえてくる。
「行けます!」
「わかった。キーナ、目を瞑っていろ」
それに応じたかどうか、振り向く余裕はない。
俺は手を挙げる。追っ手の奴らが怪訝そうな顔をした。
挙げた手を、叩き付けるように振り下ろす。
その地点を発生点にして、電流を生む。
未明の薄闇の中、白く、青い雷弧が好き放題に走り回る。
目くらましくらいにはなるだろう。
キーナという子どもを両手で抱え、そのまま背後になっていた崖を飛び降りる。
セトが止めてくれる。問題はない。
「きゃ……」
キーナの小さな悲鳴が湧いた。
――衝撃。
落下の勢いで、少しばかり重くなっていたかもしれない。
「……大丈夫か?」
俺の問いに、セトはごく落ち着いた様子で答えた。
「はい。あと九二三六ドナまでならば受け止めることが可能です」
よくわからんが、それは上空 九竜歩くらいから大岩を落とすような力か?
ドナは動物の名前だ。硬い皮膚をもった大型草食獣で、よく荷役などに用いられる。おとなのドナ一頭分の重さが、一ドナ。
そして、竜歩とは、古代地棲竜が歩く一歩の長さである。
この地には、『竜』と一口にいっても、色々なものがいる。魔術語を操る古代の叡竜から、小さく、湖に棲んでいて漁民の食事に供されるものまで。
「……これ、どうなって……」
キーナがおずおずと、足元の翠の鱗を眺める。古代地棲竜の無骨な大鱗とは違い、一片一片が細かい、滑らかな肌である。
「バケモノではない。少なくとも今は、お前を助けてくれる」
「どちらへ?」
セト――翠の鱗をもった竜の声。答える。
「下だ」
「はい」
翠竜はゆっくりと崖に沿って降りていく。
「かけおち……って?」
「叶わぬ恋をかなえるべく、ふたりしてする逃亡」
「へー」
明るい赤毛の少女、アルカネット・クラウスは納得したようだ。だが、何となく思うが、わかってないだろ? きみ。
「たのしそー。ぼくにもできるかな?」
海賊の宝を夢見るトレジャー・ハンターみたいなかおで、雲の彼方を見つめて言う。
するな。
おれはキサ(・レッドクォーツ)。わけあって姓は、表向きには名乗っていない。
名乗っていないが、情報というのは、どこをどう流れていくものなのか、時々、身に覚えのない物品を請求されたりもする。いわゆるこの世にふたつとない名剣――神が人に与えたつるぎ。
持っているのは確かだが、おれに扱う資格のない代物であることもまた確かだ。
「ともかく。フロウくんがバーナヒル領の領主夫人となる人物と一緒にいなくなったという話だね」
「……むう」
アルカネットは考え込むふうをする。
戸口から捜索隊隊長の声が呼ぶ。
「準備できてる? 行くわよ」
おれはそちらに歩いていき、尋ねる。
「……まさか本気でフロウを追うつもりじゃないだろうな?」
隊長――真紅の髪の騎士は軽く肩をすくめた。険のある眼を、面倒くさそうにこちらに向ける。
「しょうがないでしょ? 丘国バーナヒルといえば、騎士団とも浅からぬ仲。ここで険悪になったりすれば、小競り合いってことにもなりかねない」
「……」
職業・雇われ剣士としては、喜ぶべき事態か。
「やったあ! ついにフロウと本気で戦うチャンス?!」
……アルカネット、そこは振りでも悲しむところじゃあないのか。
数”水” 後、(一水とは、下流をせき止めた場合に、グレアレスの大滝から流れ落ちる水が、その滝つぼをいっぱいにするのにかかる時間。毎年、世界魔術連盟が計り直しているため、年による若干の変動がある。)嬉々として赤さびたグレート・ソードを持って倉庫から出て来たアルカネットに、おれは何て言ってやったらよかったんだろう。
とりあえず、無難な返答を試みた。
「研いだほうがいいかもね、それ」