悪役令嬢を本気で目指したのに、なぜか聖女に指名されてしまいました。〜悪事を働くたびに民草を救ってしまう、報われない元社畜の逆走記〜
「——リリアンヌ・アッシュグレイ、其方を国家聖女に任じる」
玉座の間の大理石が冷たい。
正面の三段高い玉座で、陛下の唇が動いている。
その一言だけが遅れて届いた。
違う。
違う違う違う違う。
――こんなはずじゃなかった。
玉座の左手に宰相閣下が立っている。
血色の戻った頬。深い瞳。指には、もう灰色の斑はない。
——どうしてこうなった。
跪いたまま目を閉じる。時間が逆流する。
◇
三ヶ月前。
公爵邸の西翼執務室。
机の上には書類が積まれている。
最初は、屋敷の家計簿の確認が一冊だけだった。淑女教育の一環、という体で。
それを普通にこなした。
次の週には二冊になっていた。
今では毎朝、新しい山が届く。
領内四十三村の陳情書。庭師への追加手当の申請。馬番頭の交代届。王都商会から届いた茶葉取引の覚書。
つまり仕事だ。
前世の私は、都心の会計事務所のただの事務員だった。午前二時の蛍光灯。湿った椅子。モニターに滲む数字。
過労、だったのだろう。最後に聞いたのは救急車のサイレンと、平らになっていくモニターの電子音だった。
扉が鳴った。
「お嬢様」
執事の声。紙から顔を上げる。
指先が書類の端を強く握り込んでいた。
「新しい書類をお届けに上がりました。領地経営の助言につき、お父上からのご伝言です」
執事が紙束を机の端に置く。
……。
「今日で何冊目?」
「三冊目でございます」
「……下がっていいわ」
「失礼いたします」
扉が閉まる。静かに目を閉じた。
転生してから三年、私は淡々と雑事をこなしてきた。そこそこの知性で、そこそこの気品で、そこそこに。
普通だ。普通のことを普通に。それだけのはずだった。
何も超有能で、目覚ましい働きをしたわけではない。
私にも当然できないことはあった。——できる人を探しただけだ。
分からないこともあった。——分かる人を探しただけだ。
なのに、普通のことを普通にこなすうちに、公爵家の雑務はこの机に集まるようになった。
机の端に最新の依頼状が立てかけてある。王宮の蝋印。宰相オーガスタ・フェルシュタイン閣下直筆。
『国家会計の補佐を貴殿に依頼したい。我が身、病により公務に支障あり』
——冗談じゃない。
書類をそっと右端に積み直した。断りの文句は、改めて考えるとしよう。
こんなはずではなかった。
公爵令嬢として、異世界生活を楽しめると思っていた。午後は薔薇園で紅茶。夜は舞踏会で軽く踊り、朝は遅めに起きる。学園で甘酸っぱい恋愛。そういう生活を、転生の神様に用意してもらったはずだった。
けれど現実は、日々量を増やしていく仕事の山。最近は入学したはずの学園にも、たまにしか顔を出せていない。
大体、なぜ公爵家の令嬢に仕事が集まるのだ。
そこから、おかしい。
領地経営は父の仕事。国家会計の補佐は宰相の仕事。茶葉取引の交渉は商会長の仕事。
それぞれに、行き場があったはずだ。
なのに、なぜ全部、私の机に。
このままでは前世と、同じ死に方をする。
モニターの平らな音が耳の奥で鳴った。
——嫌われるしかない。
嫌われて、疎まれて、追放される。それしか逃げ道はない。
やり方は、知っている。
前世で何冊も読んだ。漫画の、小説の、ゲームの悪役令嬢。
彼女たちは婚約破棄される。追放される。田舎の修道院か辺境の領地で、ひっそりと生涯を終える。
——最高じゃない。
追放後はどこかの寂れた村で、一日一冊の本を読み、夕方には庭に水をやり、鶏を数羽飼って眠る。
そういう人生を獲得するのだ。
目を開けた。
紙の裏に羽根ペンで箇条書きを始める。
一、ヒロインへの嫌がらせ。
二、社交界での暴言。
三、贅沢三昧。
前世の知識はまだ残っている。これだけ揃えれば追放は確実だ。
そう思っていた。
◇
その夜、執事がワゴンに乗せた本を一冊置いていった。
王宮図書館から借用した『古代伝承集』。
「何、これ」
「今朝方、陛下からお父上を通じて。お嬢様の学識の補助に、との、お言付けで」
——仕事が増えていた。
ため息をついて本を開く。栞の挟まれた頁にはこう書かれていた。
『聖女ヒルデガルド——古の世に在り。万病を癒す霊薬の知識を持つ。その技、戦乱により失われ、今に伝わらず』
ページを閉じた。聖女。関係ない。
私が目指すのは悪役令嬢だ。
◇
翌朝。
白い便箋を机に広げた。
金の縁。差出人リリアンヌ・アッシュグレイ公爵令嬢。宛先エレナ・フォルトン男爵令嬢。
悪役令嬢の第一歩はヒロインへの嫌がらせ。相場が決まっている。
エレナ・フォルトン。男爵家の養女。半年前に王立学園へ編入した桃色の髪の朗らかな令嬢。
第二王子殿下が彼女に目を向けているとのうわさを聞いた。近衛騎士団長の息子が彼女と踊ったらしい。
間違いない。エレナがこの世界のヒロインだ。
だから攻撃する。
羽根ペンを手に取った。
「エレナ・フォルトン様。先日のお茶会における貴女の振る舞いは——」
ここで手が止まる。
(……どの振る舞いが悪かった?)
具体的に書かなければ伝わらない。前世で事務職として、報告書を何枚も書いた。相手に伝わらない文書は文書ではない。
指が勝手に動き出す。
「——第三茶菓子に先に手を伸ばされた点、貴族社会の暗黙の作法にいささか反しております」
次の行。次の段落。
「本来、茶会における菓子の序列は、手前から三、二、一と主催家の料理長が意図を込めて配置しております。つまり最も味の強い菓子が手前、繊細な菓子が奥に置かれるのが——」
気づけば手紙は三ページになっていた。
箇条書き。図解。注釈。
最後の余白にはこう書いた。
「貴女は素直で、教養を吸収する速度も早いとお噂で存じ上げております。本書簡が貴女の貴族社会での立身に、わずかでも資することを願っております」
……。
これは嫌味の手紙ではなかった。親切なマナー解説書だった。
十秒、固まった。
——書き直す。
新しい便箋を取る。今度こそ一切の親切を排除した、純粋な悪意の手紙を書く。
だが指がまた具体案を書く。
方針を変えよう。質より量だ。
そもそも、菓子の食べ方一つを指摘した程度では、うっかり感謝されて終わる可能性がある。
それは、困る。
彼女の作法で気になった点を、この際すべて書き綴る。食事の所作。立ち居振る舞い。言葉遣い。会話の間。ドレスの着こなし。髪の結い方。
公爵令嬢から突然届く、延々と続く指摘の長文。
気弱なヒロインを震え上がらせるには、十分すぎるだろう。
羽根ペンを握り直す。
書いて書いて書き連ねた。
気づけば便箋は十二枚になっていた。
——よし、今度こそ。
封蝋を捺す。使いの者に渡す。
——これでいい。嫌味の手紙を送ったという事実だけで目的は達成される。
そう思っていた。
◇
一週間後。学園の中庭を歩いていると、桃色の髪が駆け寄ってきた。
「アッシュグレイ公爵令嬢様!」
エレナ・フォルトン。
「お手紙、ありがとうございました」
その目には眩いまでの光が浮かんでいた。
「わたくし、ずっとマナーを恥じておりました。でも誰にも聞けなくて。そんな時にあのお手紙を……。本当に救われました」
「……あ、はい」
「第二王子殿下にも、今は真っ直ぐ目を見てお話しできます」
エレナは深く頭を下げた。
私は微笑んだ。公爵令嬢の完璧な、訓練された微笑み。
心の中では。
(違う。違う、違う、違う)
ヒロインに感謝された悪役令嬢を、前世で一度も見たことがなかった。
◇
二週間後、夜会。
まだ打てる手はあった。今度は直接的な暴言。
ターゲットはセレスティーナ・ローデンバル伯爵令嬢。大人しく、特に関わりのない令嬢。
(理由がないほうが無差別で悪役っぽい)
シャンパングラスを片手に。
「セレスティーナ様」
「はい、アッシュグレイ様」
彼女は無警戒に振り返る。
——今。
「あなた、」
口が動く。
彼女の立ち姿を解析する。努めて冷たい口調で言葉を続けた。
「——お立ち姿の左肩が、重心に対してわずかに前に出ていらっしゃいます。鎖骨を天井方向に引き上げるようにご意識されると、ドレスのシルエットが整うかと。人前に出るなら、それくらい気を付けた方がよいかと」
精いっぱいの嫌味。セレスティーナが目を瞬いた。
「……え?」
シャンパンを呷る。気泡が喉を撫でていく。
「なんて、ご親切な助言を……」
セレスティーナの頬が染まる。
「……」
(違う、違う、違うのに!)
その夜の終盤、ローデンバル伯爵夫人がわざわざ遠くから挨拶に来た。
「アッシュグレイ様。娘が本当にお世話に。ぜひ次のお茶会にもいらしてくださいませ」
——用事が増えた。可処分時間が減った。
グラスの中の気泡を見つめた。
割れては浮き、浮いては割れた。
◇
次の月曜、午後。宝石商の来訪。
今度こそ浪費する。父公爵に激怒されるほどの散財を。
宝石商がビロードの箱を三つ並べる。ダイヤ、エメラルド、サファイア。
「全部いただくわ」
値段を見ない。
そして勢いのままに発注書を書き始める。
(即日払いで、職人への追加手当を料金に二割上乗せするよう書き添えておこう)
(完全な無駄遣い……このことが発覚すると、父からの信用を失うに違いないわ)
書き上げた発注書を宝石商に渡す。
「……こ、これは」
「気にしないで」
(勝った……今度こそ、完全勝利だ)
◇
『アッシュグレイ公爵令嬢、宝石商組合に新商習慣を提案。職人の生活水準、飛躍的向上』
三日後、王都の商業新聞。
記事の隣の木版画では、職人たちが私の屋敷の方角を向いて感謝の祈りを捧げていた。
新聞を暖炉に放り込んだ。
炎が紙を食べる。
「……小悪事では効かない」
これでもかというほど椅子に凭れ、呟いた声が部屋の天井で反響した。
国家を揺るがす悪事。貴族社会の頂点を揺るがす事件。
それを起こす。
引き出しから一通の封を取り出した。
宰相オーガスタ・フェルシュタイン閣下からの会計補佐の依頼状。
「……ちょうどいいじゃない」
◇
宰相オーガスタ・フェルシュタイン。
三十二歳。王朝きっての切れ者。王宮会計の監督官。外交の実質的責任者。
そして半年前より『灰斑病』に侵されている。
二百年前に根本治療薬が失われ、対症療法しか存在しない不治の病。
私は父の付き添いで、一度だけ彼に会ったことがある。
蒼白な顔。薄い唇。落ち窪んだ瞳。
それでも椅子から立ち上がり、玄関まで私を送ってくれた。
「アッシュグレイ嬢の手腕に、前々から興味を。どうかよろしく」
穏やかな声。指には灰色の斑が浮いていた。
——その人に毒を盛る。
机に両手をついた。
(……狂気だわ)
冷静な私が別の私に訴える。
(でも、もうこれしかないの)
(国家の中枢を、不治の病で苦しむ宰相を暗殺しようとした悪逆令嬢——完璧でしょう)
(これなら絶対に追放される)
点から大きく飛躍して、遠くの点に繋がった。
指先が震える、冷静な私が沈黙した。
(もう戻れない)
迷い始めれば、私はまたモニターの音に戻ってしまう。
——あの音を二度と聞かない。
◇
王宮図書館、禁書庫。清掃を任せられている侍女長の杜撰な鍵管理は、以前から目に留まっていた。
毒草の書、毒素の分類、抽出方法。
棚を漁る。
指先が一冊で止まった。
『神獣と霊薬に関する伝承集』。
なぜ手に取ったのか分からない。
『聖女ヒルデガルド』の章。
——どんな病も治す聖女が存在した。
——霊薬の製法は戦乱の折に失伝した。
ページを閉じた。
(……関係ない)
私が調合するのは毒だ。
◇
禁書庫を後にした。執務室の机に素材を並べる。
乾いた白い花弁。銀色の粉。青い樹液。黒ずんだ塊の石。
禁書には『この組み合わせは強力な神経毒を生む』と書かれていた。
(書類に埋もれて死ぬより、大罪人として追放された方がまし)
自分に言い聞かせながら、白い花弁をすり鉢に入れる。
乳棒で潰す。六分目まで粉になったところで熱湯を注ぐ。
(……待って、なぜ六分目?)
指が勝手に動いていた。禁書の記載のうち、あいまいな箇所を補足するように、体が自然と動く。
銀の粉を一つまみ加える。
螺旋を描くように掻き混ぜる。三十回。
(なぜ三十回?)
青い樹液を三滴。黒い石の欠片を沈める。
月光の下に三時間置く。
窓辺に瓶を据えた。
三時間後。
瓶の中の液体は透き通った薄紫に変わっていた。
月の光を星のように反射した。
(……綺麗)
見とれている場合ではない。瓶を封じる。
夜半、王宮に忍ぶ。宰相の執務室。机。薬箱。
痛み止めの瓶と私の瓶をすり替える。
そしてここが肝心。
白いレースの手袋を薬箱の奥に押し込む。
一点もので、刺繍はアッシュグレイ家の紋章。一目で持ち主は分かる。
(これで露見する)
(宰相閣下が毒を盛られたと分かれば、大悪党リリアンヌ・アッシュグレイの完成)
(追放、確定)
王宮を抜け出した。
◇
それから三日。
宰相閣下はちゃんと薬を服用しただろうか。
昼過ぎ、王宮から使者が駆け込んできた。
「公爵令嬢様、至急王宮へ!」
(——捕まった)
内心、拳を握った。
馬車で王宮へ。玉座の間へ通される。
そこには。
「……アッシュグレイ嬢」
蒼白だった顔が血色を取り戻した、宰相オーガスタ・フェルシュタイン閣下が立っていた。
指の灰色の斑は消えていた。
「え、」
声が出ない。
「薬箱に残されていた手袋により、仕掛け人が貴女であることは、すぐに判明いたしました」
「……はい」
「その上で、すり替えられていた薬の残滓を、王宮医師団と錬金術師団が三日かけて鑑定いたしました」
「……」
「あの薬は二百年前に失伝した、聖女ヒルデガルドの霊薬の完全再現でした」
——。
玉座の間の光が眩しい。
「貴女は独自の研究により、失われた霊薬を再構築された。錬金術師団、全員がその結論で一致いたしました」
宰相が一歩踏み出す。
「そして私の灰斑病は治癒いたしました。完全な治癒です。王宮医師団、全員の診断です」
(違う)
(違う、違う、違う!)
心の中の叫びはもう、言葉の形をなさなかった。
「貴女は私の命の恩人です」
宰相が私の前で跪いた。
薄い唇。深い瞳。今は血の通った人間の顔。
「アッシュグレイ嬢。どうか私に、生涯の感謝を捧げさせてください」
膝の震えを抑えるのに必死だった。
(本当に違うのに)
◇
三日後。
玉座の間の大理石がやけに冷たい。
陛下の唇が動いている。
「リリアンヌ・アッシュグレイ。其方を国家聖女に任じる」
違う。違う、違う、違う。
顔には出さない。十八年訓練してきた。
「……」
無言の返事、それは精いっぱいの抵抗。
形式上、頭を垂れた。
大司教が聖女の銀冠を私の髪に乗せる。
冠は思ったより重い。
玉座の左手で宰相閣下が微笑んでいる。視線が私の頬に落ちている。
ゆっくり立ち上がる。
貴族たちの歓声と祝福。大司教の祈り。
——全員が、私を見ている。
前世、私は過労死した。
転生して公爵令嬢になった。追放を目指して悪役令嬢を志した。
そして聖女になった。(なぜ?)
聖女としてのスケジュールが頭に浮かぶ。
任命されてしまった以上、仕事が増えるのは避けられないはずだ。
(冗談じゃない)
銀冠の下で目を閉じた。
暗闇の中で決意した。
——諦めない。
小悪事では効かなかった。
大悪事では命を救ってしまった。
ならば次は。
(国家聖女の権威を逆手に取る)
(聖女の位に付いたまま悪女となる)
(前世でも読んだことのない、新しい道)
目を開いた。
玉座の前で私は澄んだ、聖女の微笑みを浮かべた。
心の中では。
(陛下。宰相閣下。皆様)
(今宵、新たに悪役令嬢の道を歩み出すことを、ここに誓います)
誰にも聞こえない。
銀冠の下で、私は静かに拳を握った。
——逆走は、まだ始まったばかりだ。
——了。
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