五年尽くした婚約者に『君は必要ない』と言われたので、静かに去ります。追いかけてきても、もう遅いですよ?
「君との婚約は破棄だ、フェリシア」
王太子レクシオンの声が、薔薇園に響いた。
私は驚かなかった。ただ、ああ、やっとか、と思った。
「イレーナを虐めた罰だよ。彼女がどれほど泣いていたか、君には分からないだろうね」
隣に立つ男爵令嬢が、レクシオンの腕にすがりついて涙を流している。私は彼女と会ったことすらない。
「殿下」
「言い訳は聞かない。今夜の夜会で正式に発表する。それまでに荷物をまとめておきなさい」
五年だ。
五年間、私はこの人のために働いた。夜会の段取り、来客の手配、書類の下読み、体調管理。彼が風邪を引けば看病し、機嫌が悪ければ宥め、失言があれば裏で謝罪に回った。
その全てが、会ったこともない女の涙一つで消えた。
「……分かりました」
「何?」
「婚約破棄、お受けします」
レクシオンが目を丸くした。抵抗されると思っていたのだろう。泣いて縋りつかれると。
「随分あっさりしているね。やはり愛情がなかったということか」
違う。あった。確かにあった。
でも、それを説明する気力すら、もう残っていなかった。
「お幸せに、殿下」
私は深く一礼した。これが最後の礼儀だ。
踵を返す。背後でイレーナが何か叫んでいる。レクシオンが私を呼び止める声がする。
聞こえない。もう、聞こえない。
薔薇園の出口に向かって歩く。一歩ごとに、五年間の重荷が肩から落ちていく気がした。
そして——その人は、出口に立っていた。
黒髪。黒い瞳。軍服のような漆黒の正装。
無表情で、けれど私を見つめる目だけが、静かに燃えている。
「久しぶりだな、フェリシア嬢」
低い声。聞き覚えがあった。五年前の、あの夜。
「……ノクティス公爵」
隣国ヴェルトハイム公国の当主。外交の天才と呼ばれる男。そして——私が五年前、国境会議の夜に助けた人。
「来い」
彼は手を差し出した。
「今度は私が迎えに来た」
◆
五年前。
国境会議の夜、私は迷子になった。
父に頼まれた書類を届けに行く途中、道を間違えたのだ。気づけば庭園の奥、人気のない東屋にいた。
そこに、彼がいた。
「……誰だ」
闇の中から声がした。低く、警戒に満ちた声。
「あ、すみません、道に迷って——」
月明かりに照らされた顔を見て、私は息を呑んだ。
血。彼の腕から血が流れていた。
「怪我を、」
「見なかったことにしろ」
「でも、」
「これは政治だ。関わるな」
後で知った。あの夜、彼は暗殺者に襲われていた。隣国との同盟を快く思わない貴族の差し金だった。
私は逃げなかった。
応急処置の心得があった。母が薬師だったからだ。止血をし、傷口を洗い、包帯を巻いた。
「……なぜ助ける」
「目の前で人が血を流しているのに、見捨てられません」
「報酬を求めるか」
「いいえ。これは当然のことです」
彼は黙った。
その沈黙の意味を、私は知らなかった。
去り際、彼が言った。
「名を聞いていなかった」
「フェリシア・カレンティアです」
「覚えた」
それだけだった。
それだけ、だったはずだった。
◆
現在。
薔薇園の出口で、ノクティス公爵は私の手を取った。
「公爵、どうしてここに」
「外交の名目だ。だが本当の目的は別にある」
黒い瞳が私を射抜く。
「五年間、貴女を見ていた」
心臓が跳ねた。
「レポートは全て読んだ。カレンティア王国の社交界で、伯爵令嬢が王太子を支えている。誰よりも有能で、誰よりも報われない」
「それは——」
「あの男は貴女の価値を知らない」
ノクティス公爵が一歩近づく。私は後退れなかった。
「私は知っている。五年前から知っている」
背後から足音が聞こえた。
「フェリシア! 待ちなさい!」
レクシオンだ。彼は血相を変えて走ってきた。
「何を勝手に——誰だ、その男は」
「ヴェルトハイム公爵ノクティスだ」
低い声が答えた。
レクシオンの顔から血の気が引いた。隣国の最高権力者。外交の天才。そして——この国の王すら敬意を払う男。
「こ、公爵……なぜフェリシアと」
「貴様に答える義理はない」
「しかし、彼女は私の婚約者——」
「先ほど破棄したと聞いたが」
レクシオンが言葉を詰まらせた。
「フェリシア、誤解だ。あれは少し言い過ぎた。考え直そう」
「殿下」
私は振り返った。
五年間、この人の顔色を窺ってきた。五年間、この人の機嫌を取ってきた。五年間、この人に尽くしてきた。
その全てが、無駄だったのだ。
「先ほど仰いましたよね。婚約破棄だと」
「あれは——」
「私もお受けしました。終わったことです」
「待て、フェリシア、」
「お幸せに、殿下」
レクシオンが私の腕を掴もうとした。
その手が、届く前に止まった。
ノクティス公爵が間に立っていた。無表情のまま、しかし放つ気配は刃のように鋭い。
「触れるな」
「公爵、これは我が国の問題——」
「貴様が捨てた女に、もう権利はない」
レクシオンの顔が歪んだ。屈辱と、焦りと、何か別の感情。
「フェリシアは俺の——」
「貴様のものではない」
ノクティス公爵が私の手を取り直した。
「行くぞ、フェリシア」
「……はい」
背後でレクシオンが何か叫んでいた。イレーナの甲高い声も聞こえた。
もう、関係ない。
◆
馬車の中は静かだった。
向かいに座るノクティス公爵は、相変わらず無表情だ。しかし、時折私を見る目だけが、温度を持っている。
「公爵」
「何だ」
「なぜ、私なのですか」
五年前、助けた。それは事実だ。
しかし、それだけで隣国の公爵がわざわざ迎えに来るだろうか。
「あの夜」
公爵が口を開いた。
「貴女は私に名乗った。フェリシア・カレンティアと」
「はい」
「私は貴女の名を覚えた。そして調べた」
黒い瞳が私を捉える。
「伯爵家の長女。幼い頃に母を亡くし、家を支えるために社交界に出た。王太子の婚約者となり、五年間、影で彼を支え続けた」
「……よくご存知で」
「全て調べた。貴女に関することは、全て」
馬車が揺れる。公爵の声だけが響く。
「有能だ。忠実だ。しかし報われない。あの愚かな男は、貴女の価値を欠片も理解していない」
「公爵——」
「五年間、歯がゆかった」
公爵の声に、初めて感情が混じった。
「貴女が他国にいる。貴女が他の男の傍にいる。貴女が笑顔で尽くしている。その全てが、耐えがたかった」
心臓が早鳴りしていた。
「今日、あの男が貴女を捨てると聞いた。だから来た」
「……聞いた?」
「情報は金で買える」
公爵の目が細まる。
「そして、あの男の愚行を暴く証拠も」
彼は懐から小さな石を取り出した。青く光る結晶。魔導記録石だ。
「これは——」
「王太子とあの女の密会記録だ。国庫からの横領、偽証の相談、貴女を陥れる謀議。全て録音されている」
息を呑んだ。
「なぜ、そんなものを」
「言っただろう。貴女に関することは、全て調べたと」
公爵が身を乗り出した。私たちの距離が縮まる。
「フェリシア」
初めて、名を呼ばれた。
「私と来い」
「……」
「ヴェルトハイムで、私の傍で暮らせ。貴女の才能を正当に評価する。貴女の努力を正当に報いる。そして——」
公爵の手が、私の頬に触れた。
「貴女を、誰よりも大切にする」
◆
王妃主催の茶会。
本来なら、今夜の夜会で婚約破棄が発表されるはずだった。
しかし王妃——私の叔母——は、その前に茶会を開いた。
「フェリシア。久しぶりね」
「叔母様」
「話は聞いています。レクシオンが何をしたかも、イレーナが何を企んでいたかも」
広間には、主要な貴族が集まっていた。私とノクティス公爵。レクシオンとイレーナ。そして——彼らの行く末を決める証人たち。
「ノクティス公爵」
王妃が公爵に視線を向けた。
「例のものを」
「御意」
公爵が魔導記録石を掲げた。
青い光が広間を満たす。そして——声が響いた。
『国庫から少しくらい抜いても分からないさ。フェリシアが管理しているから、あいつのせいにすればいい』
『まあ、殿下ったら。でもあの女、邪魔ですわ。早く追い出しませんと』
『心配するな。婚約破棄の口実は作った。お前を虐めたことにすればいい』
広間が凍りついた。
レクシオンの顔が蒼白になった。イレーナは震えている。
「レクシオン」
王妃の声が、氷のように冷たい。
「申し開きは」
「これは、その、誤解——」
「魔導記録石の記録は改竄できない。知っているわね」
レクシオンが口を閉じた。逃げ道がない。
「私は——」
「貴方は愚かだった」
王妃が立ち上がった。
「フェリシアが五年間、どれほど貴方を支えてきたか。知らなかったとは言わせない」
「叔母上——」
「この件は国王に報告する。王太子の地位は剥奪。イレーナは社交界追放。異論は認めない」
イレーナが悲鳴を上げた。レクシオンが膝から崩れ落ちた。
私は、何も感じなかった。
ざまあみろとも思わない。悲しいとも思わない。ただ、終わったのだという事実だけがあった。
「フェリシア」
叔母が私に微笑んだ。
「貴女は自由よ。好きに生きなさい」
◆
茶会が終わった後。
私は庭園にいた。五年前、迷い込んだあの夜と同じ、月明かりの下。
「フェリシア」
背後から声がした。振り返ると、レクシオンが立っていた。
「頼む。戻ってきてくれ」
「殿下」
「分かった。俺が悪かった。イレーナに騙されていた。だから——」
「殿下」
私は静かに遮った。
「私は五年間、貴方に尽くしました」
「……ああ」
「書類を整理しました。夜会の段取りをしました。体調を管理しました。貴方が失言すれば謝罪に回り、貴方が不機嫌なら宥めました」
「フェリシア——」
「その全てを、貴方は『当然のこと』だと思っていましたね」
レクシオンが言葉を失った。
「私が貴方を愛していたから。婚約者だから。だから尽くして当然だと」
「違う、俺は——」
「違いません」
私は首を振った。
「貴方は一度も、『ありがとう』と言いませんでした」
月明かりが、レクシオンの顔を照らす。彼は泣いていた。
でも、その涙は私の心を動かさなかった。
「殿下。私はもう疲れました」
「フェリシア——」
「お幸せに」
それだけを言って、私は踵を返した。
「待ってくれ! フェリシア! 俺は——」
「もう遅いですよ、殿下」
足音が近づいてくる。でも、私は振り返らなかった。
庭園の出口に、黒い影が立っていた。
ノクティス公爵。
彼は無言で手を差し出した。
私はその手を取った。
◆
「後悔はないか」
馬車の中で、公爵が聞いた。
「ありません」
「五年だ。長い時間だ」
「ええ。だからこそ、もう十分です」
公爵が小さく頷いた。
「ヴェルトハイムに着いたら、屋敷を用意する。使用人も、護衛も、必要なものは全て」
「公爵」
「何だ」
「……なぜ、そこまでしてくださるのですか」
公爵が私を見た。
黒い瞳が、月明かりを受けて光っている。
「五年前」
「はい」
「貴女は私を助けた。見返りも求めず、名乗りもせず、ただ当然のことだと言って」
「……」
「あの夜から、私は貴女を忘れられなかった」
公爵の手が、私の手を包んだ。大きくて、温かい手。
「フェリシア」
「はい」
「私は貴女を愛している」
心臓が止まるかと思った。
「五年間、ずっと愛していた。貴女が他国にいて、他の男の傍にいて、笑顔で尽くしているのを見るたびに、狂いそうだった」
「公爵——」
「ノクティスと呼べ」
「え」
「私の名だ。貴女には、そう呼んでほしい」
無表情だった顔が、少しだけ緩んでいた。
「……ノクティス様」
「様も要らない」
「で、でも——」
「フェリシア」
公爵——ノクティスが、私の両手を取った。
「私の妻になれ」
「——っ」
「貴女を誰よりも大切にする。貴女の努力を正当に評価する。貴女に『ありがとう』と言う。毎日、何度でも」
涙が溢れた。
五年間、一度も言われなかった言葉。
「私は、」
「貴女の返事を待っている。急がない。時間はいくらでもある」
「いいえ」
私は首を振った。
「待つ必要はありません」
ノクティスの目が見開かれた。
「私も——貴方を、お慕いしていました」
「……いつから」
「五年前からです。あの夜、貴方が私の名を覚えたと言ってくださった時から」
ノクティスが息を呑んだ。
そして——彼は笑った。
無表情だと思っていた顔が、こんなにも優しく笑うことを、私は初めて知った。
「五年、待った甲斐があった」
彼が私を抱き寄せた。温かい腕に包まれる。
「もう離さない」
「……はい」
「絶対に」
窓の外を、カレンティア王国の景色が流れていく。
五年間過ごした国。五年間尽くした場所。
でも、もう振り返らない。
私の幸せは、この腕の中にある。
◆
三ヶ月後。
ヴェルトハイム公国。
「奥様、お茶をお持ちしました」
「ありがとう、ヴィクトール」
執事が恭しく頭を下げて去っていく。
テラスから見える景色は、カレンティアとは全く違う。深い森と、澄んだ湖と、遠くに見える雪山。
「フェリシア」
背後から声がした。振り返ると、ノクティスが立っていた。
「仕事は終わったの?」
「ああ。今日は早く切り上げた」
「珍しいわね」
「妻の顔が見たかった」
三ヶ月経っても、この人の言葉には慣れない。
顔が熱くなる。
ノクティスが隣に座った。私の手を取り、指を絡める。
「報告がある」
「何?」
「カレンティアから書状が届いた」
心臓が少し跳ねた。
「レクシオンは王位継承権を剥奪された。イレーナは実家に送り返され、男爵家は取り潰し」
「……そう」
「貴女のことを書いた手紙も同封されていた」
「レクシオンから?」
「ああ。読むか?」
「いいえ」
私は首を振った。
「もう、関係ないもの」
ノクティスが小さく笑った。
「そうだな」
彼が私を引き寄せた。肩に頭を預ける。
「フェリシア」
「何?」
「幸せか」
「……ええ」
「本当に?」
「本当に」
私は笑った。
五年間、この問いをされたことがなかった。幸せかどうかなど、考える余裕もなかった。
でも今は違う。
「ノクティス」
「何だ」
「ありがとう」
「何に対してだ」
「迎えに来てくれたこと。待っていてくれたこと。愛してくれること」
ノクティスの腕に、力がこもった。
「礼を言うのは私の方だ」
「え?」
「五年前、貴女が私を助けてくれた。あの夜がなければ、私は貴女に出会えなかった」
「……ノクティス」
「フェリシア。愛している」
「私も」
夕日が湖を染めている。
私は、幸せだった。
本当に、心から、幸せだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
五年間報われなかったフェリシアが、ようやく幸せを掴むお話でした。
評価・ブックマークをいただけると、大変励みになります。
他作品も投稿しておりますので、よろしければご覧ください。




