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五年尽くした婚約者に『君は必要ない』と言われたので、静かに去ります。追いかけてきても、もう遅いですよ?

作者: 夢見叶
掲載日:2026/02/05

「君との婚約は破棄だ、フェリシア」


 王太子レクシオンの声が、薔薇園に響いた。


 私は驚かなかった。ただ、ああ、やっとか、と思った。


「イレーナを虐めた罰だよ。彼女がどれほど泣いていたか、君には分からないだろうね」


 隣に立つ男爵令嬢が、レクシオンの腕にすがりついて涙を流している。私は彼女と会ったことすらない。


「殿下」


「言い訳は聞かない。今夜の夜会で正式に発表する。それまでに荷物をまとめておきなさい」


 五年だ。


 五年間、私はこの人のために働いた。夜会の段取り、来客の手配、書類の下読み、体調管理。彼が風邪を引けば看病し、機嫌が悪ければ宥め、失言があれば裏で謝罪に回った。


 その全てが、会ったこともない女の涙一つで消えた。


「……分かりました」


「何?」


「婚約破棄、お受けします」


 レクシオンが目を丸くした。抵抗されると思っていたのだろう。泣いて縋りつかれると。


「随分あっさりしているね。やはり愛情がなかったということか」


 違う。あった。確かにあった。


 でも、それを説明する気力すら、もう残っていなかった。


「お幸せに、殿下」


 私は深く一礼した。これが最後の礼儀だ。


 踵を返す。背後でイレーナが何か叫んでいる。レクシオンが私を呼び止める声がする。


 聞こえない。もう、聞こえない。


 薔薇園の出口に向かって歩く。一歩ごとに、五年間の重荷が肩から落ちていく気がした。


 そして——その人は、出口に立っていた。


 黒髪。黒い瞳。軍服のような漆黒の正装。


 無表情で、けれど私を見つめる目だけが、静かに燃えている。


「久しぶりだな、フェリシア嬢」


低い声。聞き覚えがあった。五年前の、あの夜。


「……ノクティス公爵」


 隣国ヴェルトハイム公国の当主。外交の天才と呼ばれる男。そして——私が五年前、国境会議の夜に助けた人。


「来い」


 彼は手を差し出した。


「今度は私が迎えに来た」


  ◆


 五年前。


 国境会議の夜、私は迷子になった。


 父に頼まれた書類を届けに行く途中、道を間違えたのだ。気づけば庭園の奥、人気のない東屋にいた。


 そこに、彼がいた。


「……誰だ」


 闇の中から声がした。低く、警戒に満ちた声。


「あ、すみません、道に迷って——」


 月明かりに照らされた顔を見て、私は息を呑んだ。


 血。彼の腕から血が流れていた。


「怪我を、」


「見なかったことにしろ」


「でも、」


「これは政治だ。関わるな」


 後で知った。あの夜、彼は暗殺者に襲われていた。隣国との同盟を快く思わない貴族の差し金だった。


 私は逃げなかった。


 応急処置の心得があった。母が薬師だったからだ。止血をし、傷口を洗い、包帯を巻いた。


「……なぜ助ける」


「目の前で人が血を流しているのに、見捨てられません」


「報酬を求めるか」


「いいえ。これは当然のことです」


 彼は黙った。


 その沈黙の意味を、私は知らなかった。


 去り際、彼が言った。


「名を聞いていなかった」


「フェリシア・カレンティアです」


「覚えた」


 それだけだった。


 それだけ、だったはずだった。


   ◆


 現在。


 薔薇園の出口で、ノクティス公爵は私の手を取った。


「公爵、どうしてここに」


「外交の名目だ。だが本当の目的は別にある」


 黒い瞳が私を射抜く。


「五年間、貴女を見ていた」


 心臓が跳ねた。


「レポートは全て読んだ。カレンティア王国の社交界で、伯爵令嬢が王太子を支えている。誰よりも有能で、誰よりも報われない」


「それは——」


「あの男は貴女の価値を知らない」


 ノクティス公爵が一歩近づく。私は後退れなかった。


「私は知っている。五年前から知っている」


 背後から足音が聞こえた。


「フェリシア! 待ちなさい!」


 レクシオンだ。彼は血相を変えて走ってきた。


「何を勝手に——誰だ、その男は」


「ヴェルトハイム公爵ノクティスだ」


 低い声が答えた。


 レクシオンの顔から血の気が引いた。隣国の最高権力者。外交の天才。そして——この国の王すら敬意を払う男。


「こ、公爵……なぜフェリシアと」


「貴様に答える義理はない」


「しかし、彼女は私の婚約者——」


「先ほど破棄したと聞いたが」


 レクシオンが言葉を詰まらせた。


「フェリシア、誤解だ。あれは少し言い過ぎた。考え直そう」


「殿下」


 私は振り返った。


 五年間、この人の顔色を窺ってきた。五年間、この人の機嫌を取ってきた。五年間、この人に尽くしてきた。


 その全てが、無駄だったのだ。


「先ほど仰いましたよね。婚約破棄だと」


「あれは——」


「私もお受けしました。終わったことです」


「待て、フェリシア、」


「お幸せに、殿下」


 レクシオンが私の腕を掴もうとした。


 その手が、届く前に止まった。


 ノクティス公爵が間に立っていた。無表情のまま、しかし放つ気配は刃のように鋭い。


「触れるな」


「公爵、これは我が国の問題——」


「貴様が捨てた女に、もう権利はない」


 レクシオンの顔が歪んだ。屈辱と、焦りと、何か別の感情。


「フェリシアは俺の——」


「貴様のものではない」


 ノクティス公爵が私の手を取り直した。


「行くぞ、フェリシア」


「……はい」


 背後でレクシオンが何か叫んでいた。イレーナの甲高い声も聞こえた。


 もう、関係ない。


  ◆


 馬車の中は静かだった。


 向かいに座るノクティス公爵は、相変わらず無表情だ。しかし、時折私を見る目だけが、温度を持っている。


「公爵」


「何だ」


「なぜ、私なのですか」


 五年前、助けた。それは事実だ。


 しかし、それだけで隣国の公爵がわざわざ迎えに来るだろうか。


「あの夜」


 公爵が口を開いた。


「貴女は私に名乗った。フェリシア・カレンティアと」


「はい」


「私は貴女の名を覚えた。そして調べた」


 黒い瞳が私を捉える。


「伯爵家の長女。幼い頃に母を亡くし、家を支えるために社交界に出た。王太子の婚約者となり、五年間、影で彼を支え続けた」


「……よくご存知で」


「全て調べた。貴女に関することは、全て」


 馬車が揺れる。公爵の声だけが響く。


「有能だ。忠実だ。しかし報われない。あの愚かな男は、貴女の価値を欠片も理解していない」


「公爵——」


「五年間、歯がゆかった」


 公爵の声に、初めて感情が混じった。


「貴女が他国にいる。貴女が他の男の傍にいる。貴女が笑顔で尽くしている。その全てが、耐えがたかった」


 心臓が早鳴りしていた。


「今日、あの男が貴女を捨てると聞いた。だから来た」


「……聞いた?」


「情報は金で買える」


 公爵の目が細まる。


「そして、あの男の愚行を暴く証拠も」


 彼は懐から小さな石を取り出した。青く光る結晶。魔導記録石だ。


「これは——」


「王太子とあの女の密会記録だ。国庫からの横領、偽証の相談、貴女を陥れる謀議。全て録音されている」


 息を呑んだ。


「なぜ、そんなものを」


「言っただろう。貴女に関することは、全て調べたと」


 公爵が身を乗り出した。私たちの距離が縮まる。


「フェリシア」


 初めて、名を呼ばれた。


「私と来い」


「……」


「ヴェルトハイムで、私の傍で暮らせ。貴女の才能を正当に評価する。貴女の努力を正当に報いる。そして——」


 公爵の手が、私の頬に触れた。


「貴女を、誰よりも大切にする」


  ◆


 王妃主催の茶会。


 本来なら、今夜の夜会で婚約破棄が発表されるはずだった。


 しかし王妃——私の叔母——は、その前に茶会を開いた。


「フェリシア。久しぶりね」


「叔母様」


「話は聞いています。レクシオンが何をしたかも、イレーナが何を企んでいたかも」


 広間には、主要な貴族が集まっていた。私とノクティス公爵。レクシオンとイレーナ。そして——彼らの行く末を決める証人たち。


「ノクティス公爵」


 王妃が公爵に視線を向けた。


「例のものを」


「御意」


 公爵が魔導記録石を掲げた。


 青い光が広間を満たす。そして——声が響いた。


『国庫から少しくらい抜いても分からないさ。フェリシアが管理しているから、あいつのせいにすればいい』


『まあ、殿下ったら。でもあの女、邪魔ですわ。早く追い出しませんと』


『心配するな。婚約破棄の口実は作った。お前を虐めたことにすればいい』


 広間が凍りついた。


 レクシオンの顔が蒼白になった。イレーナは震えている。


「レクシオン」


 王妃の声が、氷のように冷たい。


「申し開きは」


「これは、その、誤解——」


「魔導記録石の記録は改竄できない。知っているわね」


 レクシオンが口を閉じた。逃げ道がない。


「私は——」


「貴方は愚かだった」


 王妃が立ち上がった。


「フェリシアが五年間、どれほど貴方を支えてきたか。知らなかったとは言わせない」


「叔母上——」


「この件は国王に報告する。王太子の地位は剥奪。イレーナは社交界追放。異論は認めない」


 イレーナが悲鳴を上げた。レクシオンが膝から崩れ落ちた。


 私は、何も感じなかった。


 ざまあみろとも思わない。悲しいとも思わない。ただ、終わったのだという事実だけがあった。


「フェリシア」


 叔母が私に微笑んだ。


「貴女は自由よ。好きに生きなさい」



 茶会が終わった後。


 私は庭園にいた。五年前、迷い込んだあの夜と同じ、月明かりの下。


「フェリシア」


 背後から声がした。振り返ると、レクシオンが立っていた。


「頼む。戻ってきてくれ」


「殿下」


「分かった。俺が悪かった。イレーナに騙されていた。だから——」


「殿下」


 私は静かに遮った。


「私は五年間、貴方に尽くしました」


「……ああ」


「書類を整理しました。夜会の段取りをしました。体調を管理しました。貴方が失言すれば謝罪に回り、貴方が不機嫌なら宥めました」


「フェリシア——」


「その全てを、貴方は『当然のこと』だと思っていましたね」


 レクシオンが言葉を失った。


「私が貴方を愛していたから。婚約者だから。だから尽くして当然だと」


「違う、俺は——」


「違いません」


 私は首を振った。


「貴方は一度も、『ありがとう』と言いませんでした」


 月明かりが、レクシオンの顔を照らす。彼は泣いていた。


 でも、その涙は私の心を動かさなかった。


「殿下。私はもう疲れました」


「フェリシア——」


「お幸せに」


 それだけを言って、私は踵を返した。


「待ってくれ! フェリシア! 俺は——」


「もう遅いですよ、殿下」


 足音が近づいてくる。でも、私は振り返らなかった。


 庭園の出口に、黒い影が立っていた。


 ノクティス公爵。


 彼は無言で手を差し出した。


 私はその手を取った。



「後悔はないか」


 馬車の中で、公爵が聞いた。


「ありません」


「五年だ。長い時間だ」


「ええ。だからこそ、もう十分です」


 公爵が小さく頷いた。


「ヴェルトハイムに着いたら、屋敷を用意する。使用人も、護衛も、必要なものは全て」


「公爵」


「何だ」


「……なぜ、そこまでしてくださるのですか」


 公爵が私を見た。


 黒い瞳が、月明かりを受けて光っている。


「五年前」


「はい」


「貴女は私を助けた。見返りも求めず、名乗りもせず、ただ当然のことだと言って」


「……」


「あの夜から、私は貴女を忘れられなかった」


 公爵の手が、私の手を包んだ。大きくて、温かい手。


「フェリシア」


「はい」


「私は貴女を愛している」


 心臓が止まるかと思った。


「五年間、ずっと愛していた。貴女が他国にいて、他の男の傍にいて、笑顔で尽くしているのを見るたびに、狂いそうだった」


「公爵——」


「ノクティスと呼べ」


「え」


「私の名だ。貴女には、そう呼んでほしい」


 無表情だった顔が、少しだけ緩んでいた。


「……ノクティス様」


「様も要らない」


「で、でも——」


「フェリシア」


 公爵——ノクティスが、私の両手を取った。


「私の妻になれ」


「——っ」


「貴女を誰よりも大切にする。貴女の努力を正当に評価する。貴女に『ありがとう』と言う。毎日、何度でも」


 涙が溢れた。


 五年間、一度も言われなかった言葉。


「私は、」


「貴女の返事を待っている。急がない。時間はいくらでもある」


「いいえ」


 私は首を振った。


「待つ必要はありません」


 ノクティスの目が見開かれた。


「私も——貴方を、お慕いしていました」


「……いつから」


「五年前からです。あの夜、貴方が私の名を覚えたと言ってくださった時から」


 ノクティスが息を呑んだ。


 そして——彼は笑った。


 無表情だと思っていた顔が、こんなにも優しく笑うことを、私は初めて知った。


「五年、待った甲斐があった」


 彼が私を抱き寄せた。温かい腕に包まれる。


「もう離さない」


「……はい」


「絶対に」


 窓の外を、カレンティア王国の景色が流れていく。


 五年間過ごした国。五年間尽くした場所。


 でも、もう振り返らない。


 私の幸せは、この腕の中にある。


  ◆


 三ヶ月後。


 ヴェルトハイム公国。


「奥様、お茶をお持ちしました」


「ありがとう、ヴィクトール」


 執事が恭しく頭を下げて去っていく。


 テラスから見える景色は、カレンティアとは全く違う。深い森と、澄んだ湖と、遠くに見える雪山。


「フェリシア」


 背後から声がした。振り返ると、ノクティスが立っていた。


「仕事は終わったの?」


「ああ。今日は早く切り上げた」


「珍しいわね」


「妻の顔が見たかった」


 三ヶ月経っても、この人の言葉には慣れない。


 顔が熱くなる。


 ノクティスが隣に座った。私の手を取り、指を絡める。


「報告がある」


「何?」


「カレンティアから書状が届いた」


 心臓が少し跳ねた。


「レクシオンは王位継承権を剥奪された。イレーナは実家に送り返され、男爵家は取り潰し」


「……そう」


「貴女のことを書いた手紙も同封されていた」


「レクシオンから?」


「ああ。読むか?」


「いいえ」


 私は首を振った。


「もう、関係ないもの」


 ノクティスが小さく笑った。


「そうだな」


 彼が私を引き寄せた。肩に頭を預ける。


「フェリシア」


「何?」


「幸せか」


「……ええ」


「本当に?」


「本当に」


 私は笑った。


 五年間、この問いをされたことがなかった。幸せかどうかなど、考える余裕もなかった。


 でも今は違う。


「ノクティス」


「何だ」


「ありがとう」


「何に対してだ」


「迎えに来てくれたこと。待っていてくれたこと。愛してくれること」


 ノクティスの腕に、力がこもった。


「礼を言うのは私の方だ」


「え?」


「五年前、貴女が私を助けてくれた。あの夜がなければ、私は貴女に出会えなかった」


「……ノクティス」


「フェリシア。愛している」


「私も」


 夕日が湖を染めている。


 私は、幸せだった。


 本当に、心から、幸せだった。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

五年間報われなかったフェリシアが、ようやく幸せを掴むお話でした。

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