1.
魔王が斃され、勇者一行が帰還したその日、私の恋は砕け散った。
アルヴェリア辺境伯領。
国境にそびえる城壁の向こうに、かつて隣国だった荒れ地が広がるそこは、我が国における対魔王戦の最前線だった。
全てを失い、さいはての修道院行きを宣告された私がここに送られたのは、貴族学院を卒業した春のこと。
補給物資を積んだ荷馬車と共に、王都から何日も旅を続け、明日は領都に入ろうかという矢先、魔物の群れに襲われた。
たちまち馬車は引っくり返り、馬は嘶き、人の悲鳴と魔物の咆哮が交錯する。
荷台から地面に投げ出され、逃げなきゃ、と思った時には、周り中が魔物でいっぱいだった。
中の一匹と目が合って、ああ、ここで死ぬのかと妙に冷静に思ったことを、今もはっきり覚えている。
だが、次の瞬間。
澄んだ角笛の音と共に、目の前に鮮やかな紺青が翻った。
鎧姿の大柄な騎士が、私に襲いかかろうとしていた魔物の前に立ちはだかったのだ。
大地を蹴って跳躍した魔物を、その人は長柄の斧の一撃で斬り伏せた。そのさまはまるで伝説の勇者のようで、私はへたりこんだまま、奇跡的に無事だった眼鏡越しに、彼が斧を振るうたびに波打つ海色のマントや、兜からたなびくアッシュブロンドの髪を、茫然と見上げるばかりだった。
気がつけば、魔物はすべて塵と化し、生き残った人々が、騎士たちと協力して倒れた馬車を起こしたり、逃げた馬を捕まえに行ったりしていた。
先ほどの角笛は、領都から救援に駆けつけた辺境騎士団のものだったのだ。
私の命の恩人は、無造作に斧を投げ出すなり、私の前に跪いた。
「大丈夫か。怪我はないか?」
言いながら兜の目庇を上げれば、王都で見慣れた女顔のイケメン達とはまるで違う、威風堂々とした男の顔が現れる。マントと同じ海色の瞳。しっかりした太い鼻筋の下に、髪よりやや濃い金色の口髭をたくわえているところも、いかにも成熟した大人の男という感じで頼もしい。
「……っ、ありがとうございます。おかげさまで助かりました」
慌てて頭を下げる私に、
「なんの。それが俺の仕事だ」
と白い歯を見せて笑った彼は、ドルフ・ディ・アルヴェリア。
アルヴェリア辺境伯その人だった。
その日から、彼は私のヒーローになった。
魔王復活の報は、大分前から我が国にも届いていたが、魔王城から遥かに遠く、大陸の南端に位置する王都に暮らす人々にとって、それはまだまだ他人事だった。
華やかに着飾った男女が街路を行き交い、社交シーズンともなれば、王宮や貴族のタウンハウスは毎日のように茶会や夜会で賑わう。
けれどもここ辺境伯領は、魔王の領土に最も近い北の国境に接しており、日増しに強く、数を増していく魔物達との戦いに、住民たちは早くも危機感を募らせていた。
そんな中、私はすぐに人々の耳目を集めることになる。
というのも――。
「シスター、怪我人だ。三人! 羊の群れにドゥンギが紛れてた!」
修道院長の言いつけで薬草を摘んでいた私のもとに、どやどやと人々がやってきたのは、ここへ来ていくらも経たないある日のことだった。
ドゥンギは他の生き物に擬態する魔物だ。力はさほど強くないが、牙に特殊な毒があり、咬まれれば血行が阻害されて、最悪壊疽を起こしてしまう。
運び込まれた三人のうち、一人は血を流す腕を押さえながらも自分の足で歩いており、気絶した一人はがっしりした老人に担がれ、残る一人は担架の上で呻いていた。
私は彼らを一瞥するや、矢継ぎ早に指示を出す。
「腕を怪我した人はこのまま教会へ。この傷口は咬み傷じゃないから、初級ポーションで洗浄すれば大丈夫。気絶してる人は手首の捻挫と、肩を脱臼してるわね。捻挫は湿布するとして、この中に肩を嵌められる人は?」
「儂がやろう」
進み出たのは、彼を担いできた老人だった。
「オーケー。それじゃここに寝かせて。私が身体を押さえるわ。いい? 一、二、三!」
「むん!」
老人が外れた腕を正しい位置に戻した途端、気絶していた男は「ぎゃっ!」と叫んで目を開けた。私は魔法で氷を出すと、水筒代わりの皮袋に詰めて即席の氷嚢にする。
「よかった。その様子なら教会まで歩いていけそうね。肩はしばらくこれで冷やして、手首はアルニカの葉で湿布してもらって。後で様子を見に行くわ。次」
残るは、担架で運ばれてきた身なりのいい若者だ。今も盛んに呻いているが、私は彼には目もくれず、先ほど脱臼を治してくれた老人のほうに向き直った。
「肘と膝の痛みはいつから?」
老人は一瞬、驚いたように目を見開いたが、すぐにふんと鼻を鳴らした。
「儂なんぞよりそっちの若いのを見てやれ。さっきからぎゃーぎゃーうるさくてかなわん」
「もう見たわ。両掌に擦過傷、大腿部と上腕の筋肉に軽度の炎症。腿と腕は単なる筋肉痛だし、そもそも今日負った怪我じゃない。掌は水できれいに洗っておけば、あとは自然に治る傷よ」
そんなことより、と、再び老人に向き直った私の腕を、担架の若者がぐいと引いた。
「待てよ。俺の手当てが先だ」
「今の説明、聞いてなかった? あなたに治療は必要ない」
若者はやおら立ち上がり、威嚇するように私を見下ろした。
「あ? 誰に向かって口きいてんだ。俺はヒュー・メイナード。メイナード男爵家の長男だぞ」
「大変失礼いたしました、メイナード男爵令息。先ほどの説明をお聞きになりませんでしたか? あなた様に治療は必要ございません」
そう言って王宮仕込みのカーテシーを披露すれば、集まった人々の間からまばらに笑いが漏れる。
ヒューは顔を真っ赤にして怒鳴った。
「同じことを言い直しただけじゃねえか!」
「ええ。一度ではご理解いただけなかったようなので」
「こいつ!」
ヒューは拳を振り上げたが、その腕を先ほどの老人が素早く取って背中側に捩じり上げた。たまらず地面に膝をついたヒューが悲鳴を上げる。
「痛え! 放せよ、くそジジイ!」
「いいえ。せっかくなので、そのまま押さえていてくださいな」
そう言うと、私は鞄から注射器を取り出した。王都で腕利きの細工師に頼みこんで作ってもらった特注品だ。
この世界には存在するはずのない医療器具を見て、ヒューは露骨に顔色を悪くした。
「な、何だよ、それ。何するつもり……」
「お望みどおり、治療して差し上げますわ、メイナード男爵令息。今からこちらのガラスの円筒に薬液を吸い上げ、この針をあなたの掌に突き刺します。針は中空になっているので、このピストンを押し込めば、薬液を直接、あなたの体内に注入できますの。王都でも最先端の治療法ですのよ」
そう言って注射器にポーションを吸い上げ、ピストンを押して針の先から薬液が滴る様子を見せてやると、ヒューはみるみる青ざめた。
うん。前世で勤めてたクリニックでも、注射が苦手な男の人って、結構な割合でいたものね。
「よ、よせ。おまえ、さっき治療は必要ないって言ったじゃないか!」
「ええ。でも治療しないと殴られそうでしたので。……しっかり押さえていてくださいね? えーと」
問いかけるように老人を見れば、相変わらずヒューを押さえつけていた老人は、にたりと悪い笑顔を浮かべた。
「アレックだ」
「アレックさん。少しでも動くと、針が掌を貫通してしまうかもしれませんので」
「ひ、ひぃ……」
「はい、ちくっとしますよー」
涙目になったヒューの後ろに膝をつき、背中に回した掌を掴んだとたん、若者はぐにゃりと地面にくずおれた。恐怖で気を失ったのだ。
「さ、これでやっと静かになった。それで、肘と膝の痛みはいつからですか、アレックさん?」
アレック老の肘と膝は重度の関節炎だったが、中級ポーションの皮下注射で劇的に改善した。
「聖女レティシア。いや、レティシア・フィンドリー元男爵令嬢。お館様がお呼びだ」
辺境伯に呼び出されたのは、その日の夕刻のことである。