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今朝はとても寒くて、魚屋の桶には氷が張っていた。
かじかむ手で魚の鱗を落としていく。さっき欠伸をしたら店の奥さんに頭を叩かれた。
昨日、眠らずにフロリスタの著作を片っ端から読み漁り、未だに全てを読破できていない。魚屋の仕事が終わったら、また続きを読もう。
青と赤が混ざって不気味な色になった手を、白い息で温める。生臭い匂いと痺れるように痛む指先、死んだあの子はこの仕事を毎日していた。私よりも若かったのに。
私は首を横にぶんぶん振って、余計な事を考えるのを辞めようと努めた。
失ったものを数えても仕方ない。失った人の事を思っても仕方ない。これまでそうしてきたのだから、これからもそうしよう。
再び魚の鱗を落としていると、不意に後方から声が聞こえた。
「エウィ、暖炉に火を入れたから、こっちにおいで」
そこには誰もいないと知っていて、馬鹿正直に振り返って、落胆する私がいる。
その懐かしい声が未だに私の耳に届く。
彼はもうこの世の人ではない。
あの日、髪の長い美人なルシオラがやって来て、男の声で悲し気に歌い、黄金の魂を連れて帰った。
その時、私の甘やかされた日常は幕を閉じたのだ。
誰かが私に言い聞かせた。「あるべき日常に戻っただけよ」と。
私はゼノで、レピュス人の奴隷で、お姫様のように大切にされるべき人間ではなかった。
こうして毎日、ただ同然で働き、こき使われ生きていくのが定めだろう。
私の親も、その親も、またまたその親もそうだったのだから、変えられない道の上を歩いていくのみだ。
「また、王子の子どもが亡くなったらしい」
桶の水を捨てに行こうと、隣の家のわき道を通り過ぎようとして時、そんな噂話が耳に入った。
「暗殺かしら」
物騒な話だなと聞き流そうとしたが、なぜか興味を持ってしまった。
「それが、また魂が入っていなかったとか」
「まあ、お気の毒に」
魂の入っていないまま生まれてくる赤子がたまにいると聞いたことがあったが、よくよく思えば最近、珍しいと感じない。
「これで何度目かしらね」
「おい、そういう話は外でするな」
店の主人のような大男が妻か妹に話を中断するように呼び掛けていた。
「あの一族は呪われているんだよ。武力で国を奪った野蛮人めが」
お腹の中がひやっとするような、強い言葉に私は足を止めた。一騒動起きなければいいけど、と精霊様に祈った。
「きっと死に至る歌でも歌われているんだろう。蛮族にはお似合いだ」
「あんな一族、滅んでしまえ」
誰もが聞き耳を立てていたせいで、一瞬静まった中で、その言葉は妙に響き渡った。
私は物陰から往来をちらっと覗く。
「誰だ!王国を侮辱した者は!」
往来の真ん中で大声を上げたのは、制服に身を包んだ老齢の騎士だ。
辺りは緊張感が張り詰め、戸惑うように隣の人と小声で相談を始める人々。
「出で来い。国家に不満があるならば堂々とこの場で述べよ!」
騎士が歩みを進めると、人々が道を開けていく。
これは大変なことになったと思い、私は桶を置き去りにして魚屋に駆け込んだ。
「こいつです。はっきり聞きました」
指をさされた人にこの場の全員の視線が注がれる。
そして民衆は指をさされた人から距離を取り、舞台のように開けた場所に騎士と、ならず者という構図になった。
「違う、俺じゃない。濡れ衣だ」
「お前、王族への侮辱罪は死罪だと知っていての発言か?」
「違う、そんなことは言っていない」
私は人々の隙間から輪の中心を覗き見る。濡れ衣を着せられていたのは、チャルさんだった。
人を掻き分け、頭巾を目深に被った人物が、騎士のもとへ向かう。
「騎士様、確証がありません。ここは往来の真ん中でもありますし、穏便に済ませてはいかがでしょうか」
「お前、何様だ。騎士階級の人間に指図するつもりか」
声からするに男で、彼は何かしらの証明書を騎士に見せ、身分を明かしているようだ。
「いいえ。私は陛下にこのような些細なことでお心を乱してほしくないだけなのです」
「些細なことだと?」
「おそらく冗談を混じらせた噂話でしょう。本気で思っているならば、軽率にこのような公共の場で口にしたりはしないものです」
突然現れた頭巾姿の男の言葉に、民衆が「きっとそうだ」と口にするようになっていく。
どうかこれで騎士が咎めるのを諦めてくれと、私は心の中で必死に精霊様に祈った。
その時だった、チャルさんが動いたのは。踵を返して人々を押しのけ走り出そうとした。
逃げる者を追いかけたくなるのは強者の常なのか、騎士はすぐさま、腰に下げていた剣を抜いて、チャルの背中を躊躇なく切りつけるのだった。
辺りに女性の悲鳴が響き渡る。
チャルさんはその場に倒れ込み、痛みでもがいている。
「騎士様、なんて事を!」
頭巾の男が駆け寄り、チャルさんの切られた背中を被っていた頭巾で押し当て、出血を止めようとする。
その時、私はその頭巾の男の顔に見覚えがあった。
とある中年女性が「汚いから触らない方がいいわ」と彼に声を掛けたが、彼はその言葉を無視した。
「逃げるという事は、やましいからだ。お前たちも軽口で王族を批判すればこうなるという事を覚えておくように。今回は陛下の御心を思ってこれぐらいにしておく」
騎士はまるで英雄かのような顔でずかずかとチャルさんの横を大股で歩いていく。
チャルさんの血を止めなければと魚屋に戻り、使ってなさそうな手拭いを手に取った時、それは突然起きた。
カーン、カーン、カーン。
聞きなれない高音の鐘の音が曇天の中、城下に響き渡っていく。
鐘の音は王宮の方角から聞こえ、私は灯部屋の話を思い出した。
「まさか、これは……」
ランテルナの灯が消えた時、鐘が鳴り響く。あの噂は本当だった。
鐘の音と共に空から降ってくる音がある。声だ。言葉だ。
「今、なんて言ったの?」
贖罪の時は終わった。
これは自由を報せる鐘の音だ。
同胞よ、再び誇りを取り戻せ。
「シェル、今すぐに医者に見せなければ。シェル!」
鐘の共に聞こえてくる声をかき消すように、頭巾の男が誰かを呼んでいる。
それなのに私の頭の中は空から降ってくる声で一杯になり、心を奪われて、チャルさんの事などすっかり気にしていなかった。
情けない。自分の愚かさに嫌気がさすばかりだ。
私は、鐘と共に聞こえる声に気を取られて、大怪我をした仲間の事を忘れてしまった。
チャルさんに謝らなければと考えながら、必死にチャルさんが生きていることを信じたながら走った。
地下のゼノ集落に駆け込み、治療室の扉の前で立ち止まる。中から声がするので、そっと扉を少しだけ開け、隙間から中を覗き込んだ。
治療室ではゼノの中でも治癒魔法が使える人が常駐していて、擦り傷などの軽い傷を魔法で癒してくれる。
しかし魔法の効果は大きくないので、大怪我の場合、多くを期待してはいけない。
「どうしてあの二人がここに?」
寝台の上でうつ伏せになっているチャルさんを取り囲むのは、大長とリドさん、そしてダリアさんだ。
ダリアさんはチャルさんの血まみれの背中に手をあてて、独り言をぶつぶつ呟いている。
「筋肉をくっつけて、血管を繋いで、皮膚を重ねて……」
呪文と思いきや、人体の構造について呟いているよう。するとだんだんと流れる血の量が減っているように感じる。
まさか、と思った時、リドさんがこう言った。
「今回も綺麗に塞いだね」
私はその言葉を聴いて、思わず扉を思いっきり開いてしまった。
「どういうことですか?」
私の登場に大長は外に出ていなさいと言ったが、その言葉を振り切ってチャルさんに駆け寄る。
リドさんが背中の血を吹きとると、あるはずの傷がどこにも見られなかった。
「どうってきかれても。たぶん魔法としか言いようが無いのよね」
ダリアさんは疲れたように近くの椅子に腰かけながら、平然と答えた。
「治癒魔法ってもっと小さい傷しか治せないんじゃないんですか?」
「普通はそうらしいんだけど、私は何故か大怪我も治せてしまうのよ。首もくっつけたことがあるし」
「首?」
目の前の女は虚言癖でもあるのだろうか。この現代で魔法で大怪我を治せる人など、マガ以外存在しないはず。
「ダリアさんはマガなんですか?」
「違うと思うわ。よく覚えていないけど」
ダリアさんは汗を拭いながら、背もたれに体重を預けて大きなため息をつく。
「なら、他にも魔法が使える人って存在するんですか?」
「さあ、世の中広いし、どこかにはいるんじゃないかしら。ごめんなさい、ちょっと疲れたから質問は後にしてくれない?」
そう言って、近くの壁に頭をくっつけてゆっくり目を閉じる。
「エウィ、治癒魔法は体力を使うらしいんだ。そっとしてあげて」
リドさんが毛布をダリアさんにかけると、私の前で膝をついた。
「今までありがとう。エウィにお願いしていた翻訳の仕事は今日で終わりになった」
「急にどうしてですか?私が居眠りばっかりしているからですか。それならちゃんと起きていられるように頑張ります」
とうとうこの優しい人にまで見放されてしまう。やはり、仕事のできないゼノなんていらないんだ。
「エウィ、そうじゃない。君たちゼノはもう、無理やりに働かなくて良くなったんだって。だから早起きして魚屋さんに行かなくていいんだよ」
「それは、どういう……」
私の存在意義は労働だけだ。足蹴にされても働いてさえいれば、生存を認められているのだと思って生きてきた。
後ろを振り返り、大長の顔を見ると、大長は大きく頷いてこう言うのだった。
「ゼノは今日、鐘が鳴った時より自由を取り戻したんだよ。贖罪の期間が終わったんだ」




