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広場にぞくぞくと人が集まってくる。誰もが若くして息を引き取った子どもを悼んでいるのだ。
母親の涙は涸れることを知らず、どんどん冷えていく我が子にますます絶望していくようだった。
「チャルさん、仕事に行かなくていいんですか?」
こんな時に仕事の話など不謹慎かもしれないが、ゼノが仕事を無断欠席すると、再び不幸が訪れかねない。
「ああ、すぐ行く」
チャルさんが怒りや悲しみを抱えたまま仕事に行こうとしたその時、コツコツと靴音が地下街に鳴り響いて来た。
その靴音はお金持ちが履くことを許されている絹製の踵が木製で作られた靴音で、ゼノでは決してありえない。
私たちはケルウスの貴族が現れたのではないかと緊張し、身を固くしてその音の主が現れるのを固唾をのんで待った。
「あれは……」
現れたのは、背の高い女性。日焼けをしていない純白の肌、紫陽花のような紫の髪をした女性だった。
「ああ、ここだったの。地上を探し回っても見つからないはず、地下とは」
女性は悠々と歩いて私たちの集まる広場に入ってくる。そしてゼノ達が道を開けると、その開かれた道を当然のように堂々と進み、呼吸をしなくなった子どものもとで膝をついた。
「さぞ痛かっただろうね。助けに行ってあげられず、すまない。私たちを許してくれ」
堂々とした佇まいからはかけ離れた、とても優しい声で女性は子どもに声を掛け、慈愛のこもった手で頭を撫でた。
あんなにも泣き叫んでいた母親のうめき声が止まり、赤くはらした両目が女性を捉えて言葉を失っている。
「私に歌わせてくれないか」
睫毛に涙の粒をつけた母親が、肯定の瞬きで涙を零す。
そして紫髪の女性が弔いの歌を歌い始めるのだった。
紫青様、と族長が話しかけると、ゼノ達はすぐにその場に膝をついて女性の歌声に耳を傾ける。
「紫青様、その歌を歌ってくださるとは、恐れ入ります」
「私はレクイエムの中でこの歌が一番好きだというだけですよ」
私はこんな美しい声を始めて聴いた。透明な硝子のような澄んだ声は、人の心に美しく優しく届くように感じる。
「チャルさん、この歌って有名なんですか?」
「確か、立派な人に歌われる歌だったはずだ。医者とか人助けをした人とか、格式の高い歌って聞いたことがある」
「そうなんですね。……そろそろ仕事に行った方がいいです。これ以上不幸が続かない方がいいと思うので」
「ああ、そうだな」
そう言って、チャルさんは赤ちゃんがハイハイするよに四つん這いになってこの広場を出て行くのだった。
歌声が広場に広がり、静かに涙を流す人も多くいた。私は、涙よりももっと熱い何かが体の奥から湧き出てこようとするのを感じていて、ずっと歌を聴いていられずにその場を離れた。
地下街を速足で通り過ぎ、真っ暗な階段を慣れた足取りで上っていく。そして凍えた風が吹く外に飛び出した。
体が冷えてくれれば、この体の奥に籠っている強い熱さが無くなるのではないかと考えたから。
地下階段側で膝を抱えながら自分をしっかりと固定する。
「これは怒り?それとも恐怖?」
私は今何を感じていて、どの感情が体の奥を強く熱しているのだろう。目を閉じて必死に思考を巡らし、この感情に名前を付けようと試みた。
どんな言葉でも当てはならないと気づいて、思わず「精霊様」と口にした時だった、その現象は突然発生したのだ。
両掌の上に集まる小さな光の粒が渦を巻いている。光粒は右と左の真ん中で終結し、小さな青い炎を発生させるのだった。
「何これ!」
私が手をぶんぶん振ると、青い炎は再び光の粒に分裂して、闇夜に消えていった。
「まさか、そんな」
ゼノの間では不可思議な現象に名前を付けてきた。それはずいぶん昔から減少し、現代では多くを失ったそれだ。
「私、魔法が使えたのね」
エアルという旅人が人類から魔法を奪って二百五十年以上経っている。その日以来、魔法使いとして生きてきたゼノ達は、普通の人間に変化してしまった。
九割以上の魔法を失い、とても簡単な魔法が弱々しく残る程度まで減退した。
現在では血液を媒介した魔法が少し残っているくらいで、それ以外の魔法を使う者はマガ以外に存在しないと言われている。
「今、血を使わずに炎が産まれて消えた」
血液の魔法と呼ばれるゼノに残された魔法は、血液中の鉄分を操作して金属などを加工したり、血液をゆっくり増やしたり、傷口を癒す、原始魔法と呼ばれる弱い魔法だ。
クジラ地域と呼ばれるこの土地に残された唯一の魔法で、百年以内には廃れて消えてしまうだろうと言われている最後の魔法。
私も少しは血液の魔法を使うことができるが、今回のように血を使わない魔法を使ったのは初めてだった。
「どうして。ううん、どうやって炎が産まれたんだろう」
自分の掌をじっと見つめて、仄かに香る何かが焼けたような焦げた匂いに首を傾げた。
手は火傷していない。なら、一体何が燃えた匂いなのだろうと。
最近の私はとにかく忙しい。先日亡くなったあの子が働いていた魚屋の仕事を、私が代わりにすることになったからだ。
早朝から魚屋で鱗を取ったり、掃除をしたりなど肉体労働をして、午後からは図書館で翻訳の仕事だ。
朝は極寒で冷え切り、慣れない力仕事で疲労した体が、本を読むだけで眠気を誘う。
文字を起こしている最中に居眠りをして、机に頭突きをすることが増えたので、私のおでこはずっと痛い。
今日も気づけば机の上にほっぺたを乗せて眠っていた。
リドさんが毛布をかけてくれたのが、気配でなんとなく分かった。有り難いことに、リドさんは私が仕事をさぼっても怒鳴ったり殴ったりしない。
なんとか目を開けて仕事を再開しようとするのだが、どうにもこうにも目が開いてくれない。
体が重くて、手足が筋肉痛でぎしぎしするし、頭の中もはっきり動かないでいる。
結局睡魔に負けて、再び夢の世界に迷い込んだ。
それから数時間後、私は誰かの話声で目が覚めた。一人はリドさんで、もう一人はダリアさんだろう。そして若い男性の声が一人。
ゆっくり瞼を持ち上げて、薄い目で声がした方を見る。
三人はランプを中心に集まって話していて、どこか楽しそうだ。
「で、次はなんの調査?」
と、リドさんが訪ねてきた二人に問いかける。
「王宮の展望室の上に、ランテルナの祝福の灯が置いてあるっていうのは知ってるかしら?」
ダリアさんが窓辺に駆け寄って手招きするので、私は咄嗟に目をつぶった。そして起きていることが知られないように、目を細めることにする。
図書館は美術館と隣接されている。この文化地区と呼ばれる場所は他にも博物館、歌劇場、闘技場など、複数の施設が集めらていて、文化地区はどこからでも王宮が見えるようになっている。
ちなみに殆どの施設が王族貴族しか立ち入りを許可されていない。
「ああ、あの光か。それで?」
ゼノたちの間に広がる噂話の中で、あの展望台の灯の話は大昔から言い伝えられているらしい。
確か……。
「あの灯部屋には魔法がかかっていて開けることができないらしいの。そして、部屋の中に鐘が一緒に置いてあって、灯が消えた時鐘が鳴り響くっていう噂があるのよ。その真偽を知りたいの」
ダリアさんが楽し気にそう言うと、リドさんの目の色が変わる。
今の話でリドさんは自分の頭の中で何かを見つけたらしく、すぐに自分が広げたままにしていた本のもとに駆け寄り、頁を捲り始めた。
紙を捲る手つきと、必死な目に、どこか狂気すら感じるほどだ。
よく見れば、一緒にいる若い男性はゼノのシェルさんで、チャルさんと一緒に帰国した人だ。風の噂では、今は美術館で働いているらしい。
シェルさんが、「リドさんはここで何を調べているんだ?」とダリアさんに問うと、エアルの手記を解読しているのだと答えた。
不思議そうな表情のシェルさんに彼女は至って真面目に、真っすぐな声でこう付け足す。
「もちろん、魔法を取り戻すのよ」
私はこの時初めて、自分が手伝っている研究の辿り着く先を知った。
魔法を取り戻す。そんなこと考えたこともなかった。
リドさんは一冊の本を手に取って、古語の読めないシェルさん達の為に音読する。
「光が消えたら、終わりの合図。
金属がカンカンと鳴るのは、出発の合図。
真鍮の蝶は約束した場所へ向かわなければなりません。
すべてにお別れを言う時が来たのです。
悲しみと苦しみから解き放たれて、笑顔になれる場所へ。
蝶は、もう一度自分の花畑を取り戻すために飛び立つのでした」
それはフロリスタという大昔の作家が残した童話集の一つだ。
私はリドさんに問われた箇所のみを翻訳していて、内容までは目を通していなかった。
そしてある一文に耳を疑った。
「フロリスタは二百五十年前の人だから、関連付けすぎてもいけないと思う」
リドさんの言う通り、著者は大昔の作家。彼の作品の多くは虚構であり、真実を記す作家ではなかったはずだ。
彼の童話が現実や真実を踏まえて書かれていると考えるのは、やや無謀に思えるのは当然だと思う。でも……。
「違うんだ。確信があるんだよ。真鍮の蝶っていうのは、ケルウス王国首都ノックスのゼノの象徴文様なんだ」
シェルさんの言う通り、私もその部分が引っかかった。
真鍮の蝶という架空の生物は、古くからノックスのゼノ達を象徴する印なのだ。
「シェルくんの言う通りなら、フロリスタの童話は、ノックスの事を書いているっていうことなんだね」
物語の内容が予言なのかは分からないが、この作品がノックスのゼノと関りがあるという事は間違いないと思う。
「なるほど、って、そもそも二人は、どうしてあの灯部屋に鐘が入っているのかを知りたいんだっけ?」
リドさんのその言葉に、シェルさんとダリアさんは「どうしてだっけ?」と疑問符を頭に浮かべて、薄っすら笑っていた。
そしてまた何かあったら調べに来ると言って、図書館を出て行った。
私は音もなく席を立つと、暗闇に隠れるようにゆっくりと本棚の中に進んでいく。
フロリスタの本を読もう。




