リィンの瞳
登場人物
コハン:宇宙を視る者
リィン:宇宙に憧れる地上の瞳
宇宙台の司祭:言葉に仇なす者、善悪の崩壊者
コハンの影:宇宙台の学堂で学ぶ学士
白服先生:宇宙台の学堂の先生
第一幕
第一場:宇宙台の館、その屋上
(コハンと司祭がいる。善悪の崩壊の儀式を行っている)
宇宙台の司祭:
今ここに、善と悪がある
お前はまだ、それらを区別して捉え
善と悪に形を与え
偽りの姿を地上で認識し
あたかもそれがまったきもののように感じている
しかしお前の善は本当に善で
お前の悪は本当に悪なのか
地上の石を見よ
それがお前に与えるものは、いったい何なのか
どんなに美しい宝石も
お前の内で情欲となると知れ
地上に呼ばれ、地上に恋するものよ
お前の抱いた幻想のなかで
悪なるものを嗅ぎ
善なるものを視よ
コハン:
私は言葉なるものに仕える者
あなたは言葉の敵ではないのか
私を見守る白き外套に仇なす者ではないのか
私を愛する言葉を寝取る者ではないのか
宇宙台の司祭:
いかにも私の外套は黒く
爪も唇も黒く、私の見つめる太陽も黒い
だが言葉に仕える者よ、お前は視る者ではないのか
今、心の宇宙を見上げよ
お前が真に持つ者ならば
私の技の何を恐れる
コハン:
いかにも、私は宇宙を視る者
あなたの技を受ける資格を有する者
だから言葉よ、私の言葉よ
限りない瞳の恩寵を受け
私を正しく導きたまえ
宇宙台の司祭:
宇宙を視る者よ
お前の腕に、私の印を刻もう
これにてお前の善悪は崩壊する
宇宙に生まれし熱き火の玉よ
お前の光が、宇宙の冷気とならないように
私は祈り続けよう
第二場:宇宙台の学堂
(コハンは学士たちと席に座り、授業が始まるのを待っている)
コハンの影:
やあ、どうやら白服たちに、何かがあったらしい
もう授業はとっくに始まる時間というのに
いつまで経っても来ないじゃないか
何でも昨日の夜半あたりから
神経質にぴりぴりされていたという
どうだい、コハン
このままここを抜け出したって
きっと今日はお咎めなしだが
君には街の喧騒のなかで
大いに楽しむ勇気はあるかい
コハン:
街に行って何をする気だ
淀んだ言葉で耳が痛くなる
君はどうせ
いつもの鳥の焼きものを、腹一杯に食べたいだけだろ
少し待ってみるほうがいい
運が悪けりゃ
竹藪のなかで流星群を数えることになるだろう
いやいっそ、君にはそっちがいいかもしれん
竹の澄んだ音のなかで
君は青くまっさらな時間を得られるだろう
コハンの影:
やいやい、冗談なんて言うもんじゃない
確かに我らは宇宙台の学士たちだ
地上よりも宇宙に惹かれ
石より星、記号より言葉を大切にする
だが優等生君、地上の石は醜いのか
記号の羅列は下品なのか
ほら、ほらほら、君にも彼女が近付いてくる
(リィンが近付いてきて、振り返るコハンにくちづけをする)
コハンの影:
なんてやつだ!
神聖な学堂で色事とは!
コハン:
リィン、やめなさい
リィン:
どうして?
私はあなたを愛しているのに?
少し、変わった感じがして
ちょっとだけ心配
コハンの影:
おい、リィン──コハンから離れろ
君のようなやつがいるから
我らから宇宙が遠くなるのだ
地上を這いずりまわる蛇め
大人しくその頭蓋をかち割られたらいいのだ
リィン:
どうして?
あなたの宇宙には光がないの?
だとすると、きっと愛もなくて寂しいのね
私たちは教わったでしょ
憧れは全て愛の内にある、って
コリンの影:
どうしてどうして、いいこと言うな
おい、コリン、鳥の焼きものが食べたいと
そう思うことの何が悪い
憧れは全て愛の内にある──
コリン:
君は石が語りかける言葉の色を
どこか勘違いしているみたいだ
コハンの影:
優等生め、冗談も通じないのか
リィン:
ええ、でもコハン、今日はもう、街に行きたい
さっき聞いたの
今日はもう、白服先生来ないって
コハンの影:
やった、やったぞ!
おい、コハン
お前の唇が受けた恩恵を
今度は俺も受けてやる
今日は街だ
鳥に、女に、石──
星を数えるのはまた今度だ
コハン:
君の頭蓋に、星が流れ込みますように──
さあ、リィン、それなら僕らも行くとしよう
リィン:
ねえ、コハン、それなら、手を繋ぎたい
あなたから、見たことのない星が流れてる
ねえ、どこに行くつもり?
もしかして、見えていないの?
コハン:
どうしたものか──
リィン、今日は、手を離さないでほしい
君の、その、意志に満ちた瞳が見えないと
僕は──すぐに迷ってしまいそうなんだ
リィン:
かわいそうに、コハン
でも、大丈夫
私はずっと、あなたを見てるから
星が──
ほら、今日も、宇宙から星が──
第三場:喧騒の街
(コハンとリィンは手を繋いで、騒がしい街を歩いている)
コハン:
ああ、リィン
あそこを見てごらん
あんなに幼い子どもが
母親からはぐれて不安に泣いている
リィン:
星を追うことはできる?
いつもみたいに、ねえ、コハン
宇宙から地上へ、人から人へ
流れ続ける星を追って
あの子のお母さんを探してあげて
コハン:
ねえ、リィン
あの子はどうしてはぐれたのだろう
ここは今日も騒がしくて
ここの人たちは、まるで人を見ていない
今ここに、あの子を見ている人なんて
僕らだけじゃないか
だからこそ、僕らはあの子に手を差し伸べて
あの子の名前を聞くことができる
でもあの子は
自分の名前を言えるだろうか
その言葉で、自分の本当を、伝えられるだろうか
見てごらん、あの煙、雑多な光、痛々しい音
僕はずっと、あれが苦手だった──
あれ、でも──
僕が育ったのも、あのなかじゃないか
そこで僕は、そう、僕もやっぱり、ひとりだった
はぐれていたんだ
星の光も、石の声も届かない場所で
でも、それでも、それは僕にとって
意味のあるひとりだった
だったら、ほら、あの子を助けることは
いったいそれは、善行だろうか、それとも
悪意だろうか
リィン:
コハン、あの子の目を見て
寂しそうで、不安そうで、でも
誰にも言えずに泣いている
きっと昨日のあなたなら、助けていたわ
ねえ、コハン、何が見えてるの?
あなたになら、すぐにお母さんを見つけられるでしょ
この街の悪意があの子の言葉を食べてしまったら
あの子は大人になれないかもしれない
ねえ、コハン、それでいいの?
コハン:
ああ、リィン、君の瞳の力なら
僕は信じることができる
君が助けよと言うのなら
きっとそれは善行だ
でもね、でも、リィン
君はずっと僕のそばにいて
僕もずっとリィンの瞳を見てきた
もしも、もし、僕の考えがそもそも間違っていたら
リィン、僕らはそろって
幻という檻のなかから出られなくなる
ねえ、リィン、聞いておくれ
僕があの子を助けた後に
それがきっかけで、あの子に不幸が降りたとすれば
僕は知らずに悪意の手先になったことになる
もしも助けずに、あの子が不幸になったとすれば
僕はやっぱり悪意の仲間だ
でもね、こう考えてほしい
いったい僕ら人間に
悪の何が分かるのだろう
リィン、君は宇宙と地上の全てを、見渡すことができるかい
リィン:
どうしてそんなことを言うの?
不安に泣いてる小さな子どもを助けることが
その寂しさを消してあげることが
どうして悪意になったりするの?
ねえ、コハン、そんなに頭を抱えないで
あなたの唇は、今日も温かい
だったらあなたの言葉は
必ずあの子を助けるはず
ねえ、星は、星の流れは見えてるの?
宇宙の光は輝いてるの?
コハン:
もちろん、今日だって星は
人の形を作りながら、この街の神経みたいに流れているよ
でもこの街はうるさすぎて
宇宙の光は届かない
見てごらんよ、歩く人たちの笑い顔を
この街から、本当の光を消しているのは
他でもない、人々の笑い顔だよ
ねえ、リィン
あの子の母親を探すというのは
光を届ける行為だろうか
リィン:
コハン、私は
あなたの答えにはなれない
だからこれ以上、あなたが苦しいのなら
私はあなたに頼まない
宇宙は遠く、地上は近い
光は消えて、闇が輝く
でも私は
私の瞳は、いつでもあなたを見つめてる
いつでも、真剣に、貫くように、ただ
あなたの愛となれるように
(リィンはコハンの手を離して、迷い子のもとへと駆けていく)
コハン:
リィン、待ってくれ
手を離さないでくれ!
そうじゃないと
僕は歩き方すら分からない
知ってるかい、善悪は、歩き方にも浸透している
僕は悪意に怯えながら
今や善行と悪意の区別も付かず
だから
光は、地上と宇宙でその色を変える
僕は今
どこに──
どこにいるんだ?
第二幕
第一場:街はずれ
(座り込むコハンが、暗闇のなかで流れる川を見つめている)
コハン:
流水は善行の喩えとされるが
ではいったい、星の流れは何だろうか
そこには黒々と光る悪意もある
宇宙を満たす星の全てが
天使たちのまばたきではない
ああ、また、星が流れた
その先には何があるだろう
人間、街の喧騒──どうも好きになれない
だからといってそれらが悪だと言えるだろうか
宇宙が光と闇でできているなど
とうの昔に知っていたのに
どうやら善と悪に境を置くのは人間らしい
僕もまた人間だ
いや、でも
今はもう、光と闇の境も分からぬ
ああ、全てが、川の流れる音のように
善意も悪意も持たず、ただ流れていけばいいのに
(足音がして、コハンが振り向くと、白服先生がやってきている)
白服先生:
コハンよ、宇宙台の視る者よ
こんな肌寒い川辺で何をしている?
ここには街の光も届かない
宇宙台の星の器からも遠い
それともコハンよ、お前は川面に映る星々を見ているのか
そうであった、そうであった
お前は幼いころから
地上に星を見ては、大人たちに気味悪がられた
だがコハンよ、お前は突き刺さる星々の欠片を
なんと美しい目で見ていたことか
おお、コハン、今のお前は
自らの感覚に従うことができない
どうしたことか
宇宙のなかでは
地上の法則など、役には立たぬ
さあ、コハンよ、立つことはできるかな
歩くことは、手を伸ばすことは、どこかへ向かうことは?
コハン:
先生、ここには大地があり
人間は垂直に立てばいいのです
ですから私の肉体は
地上において立つことができます
ですが命は
世界のなかを川のように流れる命は
私という地上の内で何を目指せばいいのでしょう
私の心は
何を上とし、何を下とすればいいのか
私は宇宙を視てきました
しかしそこでは、地上の善悪など
はるかに超えたものが流れているのです
地上で窃盗したものは罰を受けます
ですが窃盗も、罰も、
いったいどちらが善で、どちらが悪なのでしょうか
白服先生:
お前の受けた印によって
あらゆる善悪が崩壊した
しかしコハンよ、それは
善いこと、ではないのか?
コハン:
善悪がもはやない世界で
善いことにどれだけ意味があるでしょう
白服先生:
では悪意には?
コハン:
もはや、あらゆるものが悪意に見えます
白服先生:
おお、優しいコハンよ
美しいものに輝かせた目を
今もなお持ち続ける者よ
だが美しいもの全てが星からの声ではない
翼あるものの全てが昇りゆくのではない
コハンよ、お前はただ
何ものにも縛られぬまったき言葉を持てばよい
コハン:
今や私の言葉もばらばらとなり
私は、どうしてこれまで
判断というものを下せてきたのか分かりません
それらは全て
間違っていたように思います
白服先生:
その通り
これまでお前の判断はお前のものではなかった
お前は今の今まで
真の意味で判断などしてこなかった
だがこれからは違う
お前はどんな些細なことでも
お前の言葉の全てを懸けて挑まなければならない
コハン:
ああ、今では
流れる星の全てが
私に突き刺さってきます
見えない流血のなかで
私は生きていけるでしょうか
白服先生:
コハンよ、ほら、街に戻ってみるとよい
コハン:
今の私には、あの街で歩くことすらできません
白服先生:
あそこでリィンが待っている
あの子はずっと、お前を待っているだろう
だから、ほら、戻ってあげなさい
コハン:
リィンが──
彼女はまだ、私を愛してくれるでしょうか
白服先生:
リィンはお前の名前なくして生きてはいけない
同じように、コハンよ
お前もまた、リィンの言葉なくして生きてはいけない
コハン:
先生、先生──
どうか、お祈りください
私は街に戻ろうと思います
ですから、私の足取りのために、今はただ
お祈りください──
第二場:喧騒の街
(ひとり不安げに、コハンは騒がしい街を歩いている)
コハン:
夜毎人々は目を輝かせ
しかし宇宙の星を隠しては
地上の石に執着する
ああ、リィンはどこにいるのだろう
痛みを痛みと言えるリィンは、いったいどこに?
屋台に灯る赤い炎は
人々の影を濃ゆく映して
やっぱり、全ては悪意と囁いてくる
もしも指輪ひとつで歪んだ声を遮られるなら
僕もやっぱりそれが欲しい
いやでも、それはきっと
僕を宇宙から遠ざける
正しい声だけ、優しい声だけ聞けたらと
そう願う思いを否定はしないが
そもそも無理なら仕方がない
ああ、宇宙はやっぱり煌めいて
そこに流れる命の川に、ほら
天使たちが足を浸けにやってくる
彼らは眩しい光のように微笑んで
何も言わずに去っていく
それでも、あの微笑みを見るために
僕はやっぱり悪意に晒されながら
どっち付かずの臆病者みたいに
ふらふら歩き続けるのだ
リィン:
コハン、ねえ、コハン
戻ってきてくれたの?
やっぱりあなたは、私のコハンだった
ねえ、許してくれる?
あなたの手を離してしまったこと
コハン:
リィンの声が聴こえる
ああ、でも、今の僕には
どうしてその声をリィンのものだと信じられよう
誰かが僕を騙そうとして
いやいや、誰が、いったい誰が
僕など騙して喜ぶだろう
リィン:
コハン、私はこっち
ねえ、私の瞳を見てくれたら
私があなたのリィンだって
あなたはきっと、気付いてくれる
コハン:
そうだ、リィンの瞳は特別だ
あの力、聖なる魔力の強い力が
リィンの瞳に輝いている
瞳を、リィン、僕の手を取って
その、瞳を見せてほしい
リィン:
雑踏のなかで
あなたの手は一本の糸のように細い
ふらふらと、人波に飲まれ
今にも白波のように砕けてしまいそう
もうちょっと、ねえ、コハン
もう少しだけ、手を伸ばして
屋台に灯る炎は熱い
でも、私たちの火は
太陽のように生き生き燃える
この地上が燃え尽きる時
私の言葉は見えない炎で燃え上がり
きっとあなたの新しい、手足になるはず
だから、もっと、もっと近くまで
あなたの指と、その指を動かす名前を──
コハン:
ああ、祈りの言葉のように
リィンの声が響いている
大丈夫、リィン、きっと大丈夫
宇宙はちゃんと、ここにもある
人々が見ないふりをして歩き続けるこの街に
ちゃんと、きらきら星を輝かせて
宇宙が、静かに広がっている
リィン、僕の手はここに
(リィンが、伸ばされるコハンの手を掴む)
コハン:
ああ、リィン、ありがとう
ちゃんと見つけてくれて
ちゃんと掴んでくれて
リィン:
ねえ、コハン
私の手を、信じることはできる?
揺れるあの屋台の炎で
私の瞳が陰になっても
ねえ、コハン
あなたはちゃんと、私の瞳を見てくれる?
コハン:
大丈夫、もう大丈夫だ
凛とした強い意志に貫かれた
君だけの青い瞳
間違いない、僕の手を掴んでくれたのは
僕だけのリィンだ
ねえ、その瞳で見つめながら、くちづけをしてくれないか
リィン:
もちろん、私はいつだって
あなたのためにこの唇を差し出すから
でも、ねえ、コハン
街の影が大きくなって
夜のなかに夜を生んで
そこに、何かが動いているの
コハン、ねえ、あれは何?
(リィンとコハンは優しく唇を重ねる)
コハン:
あれは正真正銘の悪意だ
地上で流れ続ける石を生み
そのなかに人間を閉じ込めている、僕らの悪意だ
あれは僕らから、地上を奪っていくためにある
何もかも、奪おうとしている
未来も、光も、永遠も──
リィン:
私たちは、どうすればいいの?
コハン:
僕らが人間でいるためには
きっと戦わなくてはいけない
リィン、そばに──僕のそばに
リィン:
お願い、コハン
私たちは、こんなに多くの人のなかにいるのに
どこまでも孤独で寂しい
とても寒くて、凍えてしまう
どこかに、ねえ、どこか火のある場所に
あの、屋台の炎は
あんなに明るいのに、ずっと冷たいの
コハン:
こんなに凍えて、リィン
ずっとひとりで待っていてくれて
もう、大丈夫、リィン
僕のそばに
そしてともかく、火のある場所へ
宇宙の、大いなる火の場所へ
第三場:宇宙台の館の一室
(コハン、リィン、白服先生がいる
部屋は暗く、中央には、小さな火が灯っている)
白服先生:
どうして我々人間は
こうも火の温かさに心落ち着くのか
ここに灯るのは地上の火
しかしコハンよ、リィンよ
お前たちにはお前たちの火が見えていよう
ああ、火こそ我々人間そのもの
思い出すがいい
はるかな昔、遠い遠い、ずっとはるか昔
ひとつの熱として生じたお前たちの最初の意志を
コハン:
なぜ地上には、暗い影が立ち込めるのでしょう
白服先生:
コハンよ、大地を真に見たことはあるか
大地は常に暗い色をして
お前たちに囁き続けている
その声に耳を傾けたことはあるか
コハン:
春には彩り鮮やかに目を楽しませ
秋には燃え尽きるように赤く輝く大地が
どうして暗い色と言えるのでしょう
それに地上にだって
いつでも宇宙の星々が煌めいています
白服先生:
確かに大地は美しい
だがコハンよ、偉大なる宇宙の視力よ
お前は大地のどこかにお前自身を見出せるか
コハン:
いえ、それはできませんでした
その美しさは、最後には私に虚しく背を向けるのです
白服先生:
その後に、大地が微かな声で囁く言葉を聴いてみるとよい
だがその声は、全ての人間に届きながら
誰もその声と向かい合おうとしない
それでも大地の深くこもった声は
人間が暗いままにしている意志を飲み込んでいく
コハン:
飲み込まれた意志は、どうなるのでしょう?
白服先生:
悪意に付け込まれる
そうしてあの街の
痛々しい明るさと喧騒が生まれる
コハン:
先生、でも
それは本当に悪いことですか
私はあの街が苦手です
ですがあの街が好きな者もいます
リィン:
街の陰から
とても恐ろしいにおいがする
私の思考を麻痺させていく
大きくて、赤い、無機質な何か
白服先生:
大地は今や、染み込んだ悪の力が支配している
そこには大いなる死も存在するが
人間に巣食った悪意は
死を忌むべきものとして隔離してきた
おお、だが、大地の赤い悪の姿なくして
どうして人間は地上に立つことができよう
コハンよ、リィンよ
お前たちは、自らの内にある悪を憎むかね?
コハン:
私には分かりません
ただ、私たちが戦う
その真の相手とは
大地に染みた悪ではなく
人に巣食う暗く淀んだ情念の悪意です
リィン:
コハン、優しいコハン
あなたは悪意に翳った人間の火を
決して見失わないのね
まだ、火は灯っている
人々の内に、その言葉の内に
煌々と光を放っているはず
でも、それを全て覆い隠すほどの
冷たくて嫌な感触の闇が
あの街のいたるところで姿を見せてる
ねえ、コハン、優しいコハン
私たちは、ちゃんと戦える?
コハン:
リィン、澄んだ瞳のリィン
その純粋さと宇宙への憧れが
僕らの力となってくれる
ああ、地上に、この大地に
僕らは甘んじて悪を受け入れ
人が人であるための悪を受け入れ
自らの手で、悪意を刈り取ろう
先生、ありがとうございます
僕らはもう、行こうと思います
あの街に、悪意の芽と枝を刈りに
白服先生:
天使の声に気を付けよ
それは悪魔の羽音かもしれない
大地でも宇宙でもない場所で
お前たちがお前たち自身の星を見出せるよう
私は祈っている
リィン:
先生、ありがとう
いつまでも熱く、私たちの火が燃え続けますように
コハン:
さあ、行こう、リィン
あの街に私たちの火を灯しに
第三幕
第一場:喧騒の街
(コハンとリィンは手を繋いで歩いている
明るい夜の街に、暗く低い声がどんより響いている)
コハン:
リィン、今なら聴くことができる
先生の言っていた、大地の暗い声を
それは人間たちに、静かに静かに語りかけ
情念や、欲望を、生み出していく
リィン:
コハン、ねえ、それは
冷たいけれど恐くはない
むしろ、悲しくて優しい
コハン:
そうだね、リィン
あの屋台のぎらぎらした炎を灯しているのは
大地でも悪でもなく
僕ら人間なんだ
リィン:
炎のそばで、淀んだ影が動いてる
ねえ、コハン、私たちは
いったいどうすればいいの?
コハン:
意識すればいい
暗い意志のままで消していかずに
僕らの意志に語りかけてくる
大地の声をそっと撫でてあげればいい
リィン:
それは、私の言葉で?
コハン:
そう、僕らの言葉で
そうすれば、リィン
思考を麻痺させてくる、あの力に抗えるはず
リィン:
ねえ、コハン、あなたは
この街を歩くことが恐くないの?
あなたにとって、善いことと悪いことは
いったい何が違うの?
コハン:
リィン、君の言葉が聴こえるなら
その言葉の宿る瞳が見られるなら
僕はきっと、この街を歩くことができる
そして今は
僕はこう思っている
善いことも悪いことも
天使たちは区別していないのではないかと
僕らはその翼に触れることすらできない
だけど光あるところ、天使たちは常に存在する
全ては光によって織られ
僕らは世界と自分の両方に
天使たちの光を担っている
そう、あの、屋台の炎は
人間が悪意によって歪めてしまった光だ
だからそれは闇を生み出し
どろどろの塊となって街を侵食していく
でもそれらは全て
僕らが立つ大地に由来する
ああ、大地は、どこまでも黒い
色鮮やかな花々も
川の流れも
きらびやかな宮殿も
何もかも──
何もかも黒々と情念を吐き続けている
リィン:
その黒さに自らを染めながら
人間は生きていくのね
それは悪?
ええ、この地上で生きる限り
私たちは悪と同居し
悪の淹れるコーヒーを飲みながら
どこかの誰かの悪を聞いて
怒ったり、泣いたりしている
ほら、また
あの街角の暗い影が
こっちにやってくる
ねえ、コハン、私は恐くて震えてる
手を握って
もっと強く、私の言葉の全てを握って
コハン:
リィン、強い瞳の湛えられた意志
その唇から溢れる言葉は全て
艶やかな赤さを帯びて、僕の血液となる
だから、リィン
僕はこの存在の一番深いところで
君の言葉を感じている
ほら、影が、暗くてどろどろした影が
無機質な目玉をぎょろぎょろさせて
こちらを見ている
あの赤さは情念の赤
衝動と欲望の赤
僕らの名前を否定する赤
だけど──
リィン:
ええ、コハン
今なら、今の私なら
あの影を抱きしめて泣くことができる
その涙は
浄化した赤
薔薇の花びらに落ちた透明な朝露
どこまでも澄んだ血液の赤
ねえ、コハン
影は、あの影たちは
街角に巣食っているだけじゃない
もっといろんなところに
光を見失ったあらゆるところに
憎しみをいだいて座ってる
だから、ねえ、もっと、歩きましょう
コハン:
手は離さない
行こう、リィン
瞳あるところ、僕らは光となる
第二場:喧騒の街の中心地
(騒がしい街のなか、煌々と炎が揺らめき
コハンとリィンは乾いた笑い声を聞く)
コハン:
ここには多くの人が集まり
多くの声が満ち、多くの足音があるのに
どれも乾いて刺々しい
でもその音の持ち主たちは
川のように流れる生命をいだいて
星々の輝きをその内に映し
自らだけの暖かな火を灯している
しかしここには地上の石しかないかのように
そしてその石が
生命も星々も火も服従させて
「我こそ私自身」と声高々に歌っている
リィン:
だからこの街の人たちは
嘲るように笑うのね
私たちのことをおかしい人だって指差すのね
宇宙台の学堂では
もっと真面目な態度を求めているけど
どうしてここの人たちは
いつも笑っているの?
コハン:
真面目な態度を取れるのは
人間の意志だけだからだ
暗く沈んだ人間の意識のなかで
闇に溺れることに抗わない者たちは
夜明けが来ても眠り続けている
僕たちはどこまでも笑いもので
笑うことで彼らは
自らの憎しみの火が
自分自身を燃やしてしまうことを防いでいる
彼らにとって光は
目を焼き尽くす白い熱線
だから、笑い続けなければならない
嘲り続けることで
光そのものを虚無の産物へと仕立て上げねばならない
リィン:
そうやって生まれる心の穴を
彼らはどうやって埋めているの?
コハン:
その深く大きな穴を埋めるために
この街はどんどん大きくなっていく
だけど穴が埋まることはない
だから
彼らの笑い顔は、不安と諦めでいっぱいだ
(コハンの影が近付いてきて、コハンの肩を叩く)
コハンの影:
やあやあお二人さん
ご満足されているかな
俺はそこそこ満たされたよ
さっき食ったのは鳥の丸焼きだ
愛想の良いお嬢さんが
俺の額にくちづけまでしてくれた
だけどまだまだだ
なあ、コハンにリィン
人間の欲求というものは
どうしてこうも無尽蔵なのだろうな
いやいや、それは違う
無限なものなんてあるものか
腹が膨れれば食欲はなくなる
色に飽きたら性欲もなくなる
どれみろ、これが現実だ
必ず行き先の果てには壁がある
その壁を前に人間は
踵を返してあともどり
それで出発点まで帰ってくれば
壁があると知りながら
またも歩き出さずにいられない
いやいや、壁の外まで行こうなどとは思わない
その道中が、最高に俺を楽しませてくれる
コハン:
君もそうやって
壁の向こうを笑い飛ばすのか
コハンの影:
優等生くん、君には分からんだろうがね
壁の向こうなど存在しない!
宇宙の星々は確かに輝き続け
我々はその神経にきらめきを宿し
だが、だが──
光がいつ、真に我らの恩寵となった?
あれは闇の片割れだ
卑しい双子のもうひとりだ
つまり、コハン、優等生くん!
闇こそ我らの喜び!
リィン:
それなら、あなたたちが灯してる
屋台の赤い炎は何?
コハンの影:
あれはただの炎だ
いくら闇の従者とはいえ
真っ暗闇では何も見えない
コハン:
闇があらゆるところにあるように
光もまた、あらゆるものを照らして微笑む
だから、全てのものは光から成り
光より召命を受け、我らは愛を捧げ続ける
天使たちの衣装が
揺らめく光となって漂う
天使たちの翼も、微笑みも、歌声も
全ては光の内にある
コハンの影:
ええい、うるさいぞ、コハン
光があるから影がある
そんなことは当たり前だ
だが誰も人間は
光の内で生きることなどできやしない
まやかしで我らの築いた壁を壊すというのか
リィン:
ねえ、コハン
夜の闇のなかで
屋台の炎に頼らずに
影の笑いを乗り越えるには
私は何をすればいいの
コハン:
リィン、まっすぐな瞳の、美しいリィン
光が僕らを包むように
君の瞳が光を放つのならば
それだけで世界は愛に満たされる
誰も愛を笑う者はいない
誰も、自分の知らないものの開示を憎む者はいない
だからリィン、まっすぐなリィン
僕らには、僕らの火がある
君の言葉は火を受け取って
瞳において、煌々と燃やす
リィン:
ねえ、コハン
それなら、私の唇を受け取って
あなたの立つ地上で
そしてあなたの生命で
この唇の赤さと水気を受け取って
コハン:
そこに光があるのなら──
(リィンはコハンにくちづけする
すると嘲笑していたコハンの影はどんどん薄くなっていく)
コハンの影:
待て、嫌だ、俺を消すのか
とんだ奴らめ!
いいか、俺はずっと、ずっとずっと
お前たちが嫌いだった
憎んでも憎み切れない
でも、ああ、光だ
存在しないはずの
光が、ああ、このなかにあるのか
宇宙が、星々が──
ああ、宇宙台、コハン、ああ──
(コハンの影は完全に消えて見えなくなる)
コハン:
さあ、リィン、先を急ごう
この先に、青い枝が生えている
僕たちは、最後にそれを刈らなければならない
リィン:
行きましょう
未来が、輝いている
永遠の、永遠の──未来
第三場:喧騒の街の外れ
(騒がしさは落ち着いている
コハンとリィンの前に、青い枝が伸びている)
リィン:
ねえ、コハン
宇宙はいつ、この青い枝を大地に産み落としたの?
不気味に曲がっているこの枝
青白く光りながら実を付ける時
きっと多くの人間が
この枝のことを賞賛する
コハン:
この枝は、不死の枝
人間がはるか昔より求めてきたものの
その歪みが枝に表れている
リィン:
ねえ、その不死は
私たちにとって、いったい何になるの?
この枝の、禍々しい感じ
それは宇宙を私たちから遠ざけ
すると言葉は地上を見失って
残された地上は奴隷のように
闇の支配者に売られていく
ああ、コハン、人間は
どうしてこの枝を刈ってこなかったの?
コハン:
私たちの古い先祖たちは
天使たちがこの災いの青い枝を駆逐するのを
すぐ間近で見ていたはずなのに
だけど宇宙は
不死の枝が潰えることを認めなかった
何度も何度も
人間が地上で生きる限り
この枝は蘇り続ける
ああ、リィン、そう、この枝は
地上に不死をもたらして
人間たちを常に誘惑してきた
でも大地の上で呼吸する僕らにとって
不死などいつでもまやかしだ
だけど、ほら、街で騒ぐ人たちを、振り返ってごらん
彼らは、いたるところにあるものが不死だと思っている
きっと彼らは、そんなことはないと言う
でも枝は人間の無意識に忍び込んで
人々に不死の概念を植え付け続けている
だから、ほら、商人たちは
自分たちが扱うお金について
その不死を誰も疑わない
そうやって大地に、巨大な帝国が築かれている
誰も、そう、どんな人間も
その帝国の住民であることを逃れられない
そこに住む者たちに
不死の枝は褒美と地位を与えてくれる
でもそうやっていい気になるのは
彼らが特別な奴隷になるための準備なんだ
そうして準備を進めた者は
自分でも気付かないうちに
地上における不死が欲しいと望み始める
リィン:
どうして人間は
宇宙を見上げようとしないの?
そこで輝く星々が
私たちの言葉と名前を証明してくれると
どうして信じることができないの?
コハン:
それは、リィン
宇宙があまりにも広いからだ
誰も、そう、どんな人間も
宇宙と同じ広さの言葉を持ってはいない
だけど、リィン、深く果てしない瞳のリィン
君は違う
君の言葉は、その瞳が示す意志があれば
私たちは星々の輝く神経を持って
広がる果てしない宇宙とひとつになれる
リィン:
でも、コハン、宇宙は
私が私であることを許してくれるの?
私の言葉は無限じゃない
宇宙を見上げれば
その深く広い美しさのなかへ溶けていって
いつか私は消えてしまう
コハン:
そう、リィン、全ての人間は
宇宙のなかへと消えていく
だけどその時
私が私であることを許してくれるのは
宇宙でも、天使でも、あの枝でもなく
ただ自分自身に他ならない
リィン:
それは、私にはできないかもしれない
コハン、ごめんなさい、私には──
コハン:
大丈夫、リィン、大丈夫だよ
僕が手を繋いでいる限り
リィンは消えて無くなったりしない
大丈夫、この手が、離れることは決してないから
リィン:
ああ、コハン、見上げる宇宙が
私を飲み込んでいく
でもこの瞳で
私はずっと、あなたを見ている
コハン:
そうだ、リィン
そしてリィンの瞳の内で
宇宙はひとつの音を鳴らし始める
リィン:
コハン、聴こえるわ
コハンにも届く?
鳴り響く音、この、宇宙の全てに
余すところなく響き渡る星々の階律
コハン:
リィン、愛しいリィン
聴こえるよ
その音で満たされる僕らの言葉で
この枝を刈り取ろう
リィン:
でも、コハン、愛しいコハン
この枝はまた、何度でも生えてくる
コハン:
僕らに必要であれば
何度でも刈ればいい
ほら、リィン、宇宙の瞳のリィン
僕らにとって
僕らは宇宙だ
地上に、宇宙が広がっている
この大地の全てが宇宙を写し出している
リィン:
ああ、コハン、優しいコハン
私の唇を受け取って
コハン:
くちづけを──
僕らのくちづけが
世界の全てに届きますように
(リィンとコハンがくちづけをして、幕が降りる)




