龍のつくる島
結局、さえはその日のうちに嫁ぐことを決めた。
男の不器用そうな様子とあたたかな眼差しが気に入ったのだ。きっと大事にしてくれる。そう感じた。
そもそも神々や天人たちの結婚というのは、相手と魂の格が釣り合って、もしくは対になっていなければ成立しない。
地上の神と結婚した天女が神格を得るのはそのためだ。
そして魂が対の質であるということは、すなわち相性が良いということ。どちらかが大きくその質を変えでもしない限り、夫婦としてうまくやっていけるのは間違いない。
海神とさえは幸いというかやはりというか、対の性質を持ち合わせていた。
宴が終わり、次の300年後を約束して、地上からやってきていた神々は次々と天界を後にしていく。
さえの親友も涙を浮かべながら家族に別れを告げていた。
その様子を少し離れた場所で見ていると、彼女が気がついて駆け寄ってきた。
「さえ、さえも地上に嫁ぐのね。住まいは離れてしまうけど、地上ならまだ行き来は楽なはず。わたしから会いに行くわ。子供が生まれて大きくなったら縁組をしましょう。あなたの子だもの、きっといい子に育つはず」
「子供たちがいいと言ったらね」
「わたしの子だもの、嫌とは言わせないわ」
「ひので、無理矢理はダメよ」
さえが笑うとひのではつん、と生意気そうに顎を上げる。
「毎日言って聞かせるわ。きれいな女の子がいるのよ、素敵な男の子がいるのよって」
そして泣きそうな表情でさえを抱きしめた。
「わたしの嫁ぎ先ではあなたの花は咲かないのですって。代わりに芙蓉の枝を女神様が下さったわ。二人で分けなさいって。どちらの地域でも花が咲くから、って」
そう言ってぽろぽろと涙をこぼす。
この気の強い親友が泣くのを、さえは初めて見た気がした。
ひのではさえに芙蓉の枝を握らせる。
「わたしを思い出して。必ず会いに行くから」
ひのでは何度も何度も振り向き、手を振って地上へと降りていく。その様子を見てさえの夫となった海神は苦笑した。
「気の強そうな娘だな」
「気は強いけどいい子なんですよ」
「お前の周りはきっと、みんないいやつばかりなんだろう」
どこか嬉しそうにそういう夫の腕をさえは優しくとる。
「あなたもそうです」
海神はそうか、と笑ってさえを抱き寄せた。
「さあ、我が家へ急ごう」
海神は巨大な龍の姿になると、家族と別れを済ませたさえをその背に乗せた。
そして地上へと降りてゆく。
さえは地上に降りるのは初めてだった。
白い雲が、風が、凄まじい速さで近づいては流れ去っていく。さえは夫の体に強くしがみついた。
天から祝福の花びらが降り注ぎ、風に巻かれて散っていく。
あの桃色の花びらは天の園に咲く桃の花。
一年中、季節を問わず花咲き実る桃園の近くの丘の、大きな木のそばで草に寝転び遊んだ子供の頃。
葉桜の中で駆け回った若草のあの匂い。
子供時代の全てが遠く流れてゆく。
さえが声を殺して涙を流していると、夫の声が響いてきた。
『泣くな、妻よ。誰より幸せにしてやろう。他の何より大事にしよう』
さえがうなずくと、龍はゆっくりと動きを止めた。
いつのまにか海面が近くにあった。
『妻よ、これからはここがお前の住まいだ』
龍がそう言うと、海面が泡立った。
少しずつ、少しずつ。
波とともに。
泡とともに。
海底から何かが浮き上がってくる。
轟音と、震動とともに。
島が、大地が顔を出しはじめた。
それは珊瑚礁でできた島。
珊瑚の森で形作られた大地。
その巨大な全体が海上に姿を現し、そしてその上に土が風によって運ばれ、土の上に植物が芽を出し、伸び、覆い、木々が生え、根を張り、ぐいぐいと、めきめきと成長していく。
生命。
白い珊瑚の石灰岩の上に黒い土が、緑の植物が城を築き、そして生き物たちがやってきた。
鳥が、獣が、虫たちが、海神が許可したありとあらゆる生き物たちがやってきた。
そして周囲にも同じようにいくつかの島が出来上がり、海神の妻となる女神のための美しい住まいが飾られる。
島が、生まれた。
海神がさえを優しく島の砂浜に下ろす。
さえは美しい白い砂浜に立って周囲を見渡した。
「おまえの島だ」
海神が静かな声で言った。
それに振り向いて、さえは少し先の小高い丘を指さす。
「あそこへ、連れて行ってもらえませんか」
海神は無言のままうなずくと、龍の姿で妻をふたたび背に乗せた。
丘へ着くと、さえはひのでからもらった枝をそこに挿した。
「大きく、たくさん、咲きなさい。わたしの大事なあの子を思い出させるように。大きく、きれいに咲きなさい」
枝は勢いよく伸びて大きな仏桑華の木となった。
「ひので、ひので。あなたのところには何が咲いているかしら。できればわたしに似ている花が咲きますように」
そう言ってさえがシャコ貝の殻で仏桑華に水をやると、木にはたくさんの蕾がついて、大きな美しい花を咲かせたのだった。
そのうち、さえと海神の間には多くの神が生まれ、一人は望まれて遠い異国のひのでの息子の花嫁となり、ひのでの娘もさえの息子の花嫁としてやってきた。
ひのでは言葉通りにたびたびさえの元へと遊びに来ては夫たちをやきもきさせたが、そんなことは知らぬとばかりに好き勝手に振る舞ってはさえを笑わせた。
ひのでは気が強くてわがままだ。だがさえのことをとても大切にしている。さえはそんな親友のことがとても好きだった。
ひのでのところでは白い姫芙蓉が咲いたという。
花は開かないが、百合の花の形のようでさえを思い出す。それが嬉しいのだ、とひのでは笑って言った。
ひのでは来るたびいろんな植物や生き物を持ってきた。
島は様々な植物であふれ、様々な生き物が集まった。
さえはその全てを愛おしんだ。
だが、人間だけはいなかった。
夫である海神がそれを許さなかったからだ。
彼にとって、この島は彼と妻だけのものだった。
島を荒らす人間などには住まわせるつもりは毛頭ない。
だがいつか、とさえは思う。
いつか、きっとそう遠くない日にこの島にも人間が住む日が来るだろう。
そしてそれはきっともうすぐ……。
さえは目を閉じ、夢想する。
白い砂浜に、足が踏み入れられる。
透きとおる波が、その足を洗う。
彼は恋人と一族たちを引き連れてやってくる。
いく艘もの小さな舟で。
彼女のこの島で幸せを見つけるために。
珊瑚礁の上にできた、海の上に輝く宝石のようなこの島へ。
生命と奇跡に満ちた、龍のつくったこの島へ。
ー 了 ー