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37話ボツ案:ルイーダ

37話 「触れたい」を書く前の前稿に書いていたものです。本編に直接関係しているとは言いませんが、このような結末になる世界線もあったかもしれません。

 これは彼らがまだ家族だった頃の話。


「やった! ついに……手に入れたぞ!」


 まるで卵を守るように、男は人混みの中を背中を丸めて走っていた。そして、家に帰ると大声で叫んだ。


「ルイーダ、これを見てくれ!」


「あら、どうしたの。あなた」


 流行りからは外れた、長いスカートを履き、緑が泥に被れたような色だが、しっかり手洗いされシワのない上着を着て、少し櫛を入れただけの散らばった髪をなびかせて女性が振り返る。


 その男――ロンダートは興奮冷めやらぬ様子で胸に抱えたものを机の上に置いた。


 それは、小さな金属製のカゴだった。ロンダートがカギを開けると、中から小さな生き物が顔を出す。


「あら、かわいい!」


 ルイーダは一目でその生き物に夢中になった。顔を近づけると、その生き物はぷいっと顔を背ける仕草を見せる。

 ルイーダは生き物を見つめながら言った。


「珍しいわね、あなたが生き物を買ってくるなんて」そして振り返りロンダートを見た。「もしかして……私へのプレゼント?」


 この時すでに、グランベールは交通の要所としての地位を築いていた。獣市場では小動物が最も人気であった。その背景として、飼いやすさや餌の少なさなどの理由が存在する。

 ロンダートは首を振り、「落ち着いて聞いてくれ!」とまだ抜けきらない様子で言った。


 ルイーダはうっすらと笑みを浮かべて、「はいはい」と頷いた。


「どうやらこの生き物はヒトの言葉を話すらしいんだ!」ロンダートが叫んだ。「信じられないだろう? 今までこんな生き物は現れた試しがない。本当ならば正規の大発見だ!」


研究(しごと)に使うのね」ルイーダは言った。「それじゃあ、世話もあなたがするの?」


「もちろんだ! それに君に負担はかけらない。今だって家事やクリスの世話を君に押し付けてしまっている」


「そんなこと、気にしないでいいわよ。私が好きでやってるんだから」ルイーダは笑った。


「ほら、早く本出さないといけないんでしょ。私のことはいいからお仕事して下さいっ」


 ルイーダはそう言ってぐいぐいとロンダートの背中を押して居間から押し出した。

 ロンダートが振り返って言った。


「できるだけ早く終わらせるようにするよ」


 それから数日が経ち、ロンダートがカゴを持って朝食の場に現れた。ぼさぼさの髪をかきむしって、その場にルイーダしかいないことに気付いて、はあ、と大きく溜め息をつく。

 ルイーダは皿をロンダートの目の前に置くついでに訊ねた。するとロンダートが、ぼそぼそと朝食を食べながら答える。何度かハムと会話を試みたが、まったく相手にされないのだとロンダートは嘆いていた。


「ふーん」とルイーダは両肘を机について考え込む仕草を見せる。カゴの中を覗き込むと、何の気なしに呟いた。「お腹すいてるんじゃない?」


「食事は与えているはずだが」


 ロンダートは否定したが、ルイーダは試しに菓子作りに使う木の実をカゴの中に入れた。そして二人が見つめると、生き物はひょいっとそれを掴んで口に入れた。


「ほら、やっぱりお腹空いてたのよ」ルイーダは言った。「何あげてたの?」


「水と草だが」


 ロンダートはきっぱりと答えた。もちろん食べられる草だと自信満々に言うので、ルイーダは肩を落とした。


「それが原因じゃない……」


「そうなのか?」


「ウサギとか草を食べる動物もいるけど、この子の見た目はウサギじゃないでしょ?」 「確かにそうだが、草も食べていたぞ」


 それはあなたがそれしかあげないから。ルイーダは言おうか迷ったが、ロンダートは大型動物専門なので、それ以外のことになると知識は素人以下だった。


「まあ、これだけやっても効果がないなら、諦めるしかないな」そう言って片手でカゴを持ち上げる。


「どこにいくの?」


 ルイーダが訊ねると、ロンダートは振り返って言った。


「これ以上は無理だ。処分するほかない」


 他の生き物の研究もある、とロンダートは研究者の顔で言い放つ。

 ルイーダが、「ちょっと待って」と呼び止めた。「だったら私に譲ってくれない?」


「構わないが、君の負担が増えるだけだぞ? 私はもう世話をしないが」


「わかってる。この子のことは私が看るから、あなたは気にしないで」


 それなら、とロンダートはカゴをルイーダに渡した。ルイーダは両手で受け取り、中の生き物を見つめて言った。


「それじゃあまずその身体、キレイにしないとね」


 ***


 数日分の汚れが、泡とともに流れ落ちる。出会った頃に黒ずんで見えていた毛が、徐々に本来の色を取り戻していく。


「気持ちいい?」ルイーダは生き物の体を洗いながら何度とかなく語り掛けていた。生き物は答えなかったが、抵抗もしかなかった。

 水の音だけが響く浴室の中で、ルイーダぽつりと言った。


「あなた、本当は喋れるんでしょう?」


 それは揺るぎない確信を持った一言だった。生き物が答えないのを見て、ルイーダはその確信に至った理由を伝える。


「言葉がわからなかったら、最初に顔を背けたりなんてしないでしょ?」


 少なくとも感情は伝わっていたに違いない。あれはそれに対する拒絶だったと、ショックを受けたと同時にルイーダは確信したのだった。


「……アイツに言うのか?」


 少し子供っぽい声が意外だったが、ルイーダは首を振った。


「心配しないで。あの人には言わない。家族だとしてもね」


「口では何とでも言える。言わなくても知っちまった時点で、もう終わりだ」


「……出て行くの?」


 生き物はちらりと振り返った。ルイーダの少し寂しげな表情を見て前を向いた。


「いまはそうでも、てめえらはいつか、オレ様を裏切るんだ」


「そんな」


「そんなことわからねえなんて、わかったみたいなこと言うなよ。絶対に裏切らねえなんて、裏切らなかったときにだけ言え。死んでそのときまで、てめえがオレ様を裏切らねえで、オレ様がてめえを認めるまで」


 ルイーダは、じっとその言葉を聞いていた。その生き物に過去何があったのか、きっと深い心の傷があるのは間違いないけれど、それを癒してあげられるのは、言葉じゃない。


「じゃあ、死ぬまで一緒にいてくれる?」


「ハナシ聞いてたかよ、信用しねえって言ってんだ」


「だって裏切らないって証明するにはそうするしかないじゃない。一日中わたしを見張らないと、あなたが見てないところで裏切っても、あなたは気づけないでしょ」


「……バカみてえなツラしてんのに、てめえもやっぱりニンゲンだ」


 悔し紛れに生き物は言った。


「一つ聞かせろ、これは嘘でも信じてやる」


「何を?」


「オレ様のことを伝えねえのは、アイツへの裏切りじゃねえのか?」


 にやりと笑ったハムに、ルイーダは笑みを返して答えた。


「そうね、私の心を裏切りたくなかった。人の役に立つ仕事だから応援はしてるけど、だからって人間の都合で好きにしていい理由にはならないでしょ」


 するとハムが言った。


「てめえはオレ様が出会ったなかで、二番目に口がうめえ」


「あら光栄」


 ルイーダはくすりと笑った。

 そして次の日から、ハムはロンダートの目の前でも普通に言葉を発するようになった。


 ***


 ある日、ロンダートが思い悩んだ表情をしているのを見てルイーダは訊ねた。


「あなた、どうしたの?」


 その理由は明快であった。ロンダートとクリスの一人娘であるクリスが、最近ほとんど外に出ないからである。


「あの子は本を読むのが好きだから」


「きっと僕に似たんだ、あの子の閉じこもり癖は……」


 頭を抱えるロンダートにルイーダは優しく言った。「そんな悪いことみたいに言わないで。あの子だって本を読んでる時は楽しそうなんだから」


「しかしあのまま誰も友達がいないで育ってしまったらどうするんだ。このまま家に居続けて、大きくなってしまったらどうする。僕の二の舞じゃないか!」


「素敵じゃない」


「今は時代も、環境も違うんだ。特にこの町でヒトと関わらずに生きられるわけがない。あの子には、僕みたいにはならないで欲しいんだ」


「うーん、まあ少しは外に出してあげたいとは思うけど……」


 ロンダートはハッと気づいたように言った。


「あっ、いや……すまない。君を同行させようというつもりで言ったわけじゃないんだ。中心街に学校があるだろう。そこに通わせてみればどうかと」


「そうだ! 中心街っていったら新しい建物が最近できたっていうじゃない? 私があの子を連れて行くわ」


「だっ、ダメだ! あんなヒトの多い所……それにどこで聞いたんだ。少し体調が良くなってきたとはいえ、買い物はほとほどでいいと言っているだろう」


「だって家族が増えたんだもん。大丈夫よ、ハムもいるし。迷子にはならないわ」


 ルイーダを目の前にロンダートも強く言うことはできなかった。一日そして夕の鐘がなるまでという約束で、ロンダートは渋々二人の外出を許可した。

 そして二人が外出した日、ロンダートは二人のことが気掛かりになりほとんど研究に集中できなかった。夕の鐘が鳴っても帰ってこないため我慢できずに捜しに行こうと家を飛び出そうとしたその時、ドアをノックする音が聞こえた。

 慌ててドアを開けると、そこには、ルイーダとクリスを背負った軽装備の兵士二人が立っていた。


「ルイーダ!」ロンダートが慌てて駆け寄ると、ルイーダが少し体を起こして言った。


「ごめん、少しはしゃぎすぎちゃった」


 聞けば飲食店で食べ過ぎてしまい、動けないでいるところを見つけて運んでもらったのだという。ロンダートはほっと息を吐き、兵士からルイーダと歩き疲れて眠ってしまったクリスを引き取って頭を下げた。


「妻と娘を……どうもありがとう」


 兵士二人を返したあと、ロンダートはクリスをソファーに寝かせ、ルイーダを床にゆっくりと下ろして寝かせる。


「水でも持ってこようか?」


 訊ねると、ルイーダは首を振ってぽつりと言った。


「あなたも来ればよかったのに」


「僕は人混みは苦手なんだ」


 すると、ルイーダは「そうじゃないわ」と首を振った。


「あの子、楽しそうにしてたわよ。たぶん、外に出るのが嫌いなわけじゃないと思うの。あなたから誘ってくれるのを待ってるだけなのよ」


「僕を?」ロンダートは驚いた顔で言った。「そんなこと気にしないでいいんだが」


「お父さんでしょ。心配するのはいいけど、たまにはちゃんと見てあげないと」


 それは君がいればいいじゃないかと、言いそうになったロンダートだったが、言わずにこくりと頷いた。


「そうだな、すまない。もう少し、時間を作れるよう頑張ってみるよ」


 ***


 突然、大きな物音が鳴り響いてロンダートは急いでかけつけた。


「大丈夫か⁉」


 見ると、カップの破片が床に散らばり、その中心に膝をついた状態のルイーダがいた。

 数秒遅れて、「どうしたの?」とクリスもやってくる。


「あはは、ごめんなさい」


 ルイーダが振り返って笑みを浮かべた。ロンダートはクリスに、「部屋に戻っていなさい」と告げ、ルイーダに近寄った。


「ケガはないか?」


「ええ、平気」ルイーダは落ち着いた表情で頷いた。「ごめんなさい、最近は調子がよかったものだから気が抜けてたわ」


 次からは気を付けると元気な様子を見せるルイーダにロンダートは真剣な顔で言った。


「明日にでも医者に診てもらおう」


「そこまでしなくても大丈夫よ。ほら、約束の日はまだ先でしょ?」


 ルイーダは生まれつき体が他人よりも弱かった。そのため、定期的に家に医者を呼び、体の状態を診てもらうことを何年も続けていた。この家に住んでからは、半年に一度のペースである。


「この前も何ともなかったんだし」


「ダメだ」ロンダートは首を振った。「僕にとっては君の身体が第一なんだ。それに、最近の君は少し無茶をしているように思う」


「それは……そうだけど」


 肩を落とすルイーダにロンダートは元気づけるように言った。


「一日だけだよ。それで何ともなければ杞憂だったと安心できる」


 そう言うと、ルイーダは渋々頷いて階段を登った。今日は仕事を少し抑えて看病に時間を当てようとロンダートは少し気合を入れて調理台に立った。

 できあがったスープは我ながらうまくできた。これから彼女も喜んでくれるだろうと階段を登った。


 ロンダートとルイーダは寝室を別々にしている。というのもロンダートは自室でないと落ち着かないので、入浴以外の全ての作業を自室でできるようにしていた。そのため、ルイーダの部屋は全て彼女のために造られていると言っていい。ロンダートはルイーダの部屋をできうる限り豪華なものにした。家具やベッドの質はもちろんのこと、彼女は花が好きだったので町の花屋からあるだけ花を買い漁り部屋に飾りつけた。


 コンコンとノックしてロンダートは部屋に入った。するとそこにはベッドに横になっているルイーダとハムがいた。ハムはベッドの上のルイーダのひざ元にあたる部分に腰を下ろし、彼女からもらった木の実を貪っている。


「……ね、それでね」楽しそうな表情のルイーダは、扉の音を聞きつけて視線を向けると、少し声のトーンを落とした。「あら、あなた」


「出直した方がいいかな」ロンダートはハムを一瞥して再びルイーダに視線を向けた。


「そんなことはないわ」ルイーダは首を振って、ロンダートの手元を見た。「わざわざ作ってくれたの?」


 ロンダートは頷いた。するとハムがおもむろにベッドから飛び降りて部屋を出ようとロンダートの目の前を横切った。


「邪魔したな」ぽつりと言って、颯爽と部屋を出る。


「ううん、聞いてくれてありがとう」ルイーダが頬を染めながら言った。


「何を話していたんだい?」ロンダートが食器をルイーダに渡すと、ルイーダはそれを受け取って言った。


「ただの世間話よ」


 そんな風には見えなかった。いや、たとえそうだったとしても、自分には話してくれないのかとロンダートは少し疑問に思った。


「何か悩みがあるんだったら僕が聞くよ」


 椅子を引いて話を聞く体勢をとったが、ルイーダは首を振ってスープをすすった。


「あっ、おいしい。これなら晩御飯も任せちゃおうかしら。今度ハンバーグの作り方教えるわね」


「どうしてハンバーグを? 君が好きなのか?」


 意図がわからず訊ねると、ルイーダは微笑みながら答えた。


「それなら家族三人で作れるでしょ?」


「私はいいよ、研究でそれどころじゃない」


 ロンダートはそう言って首を振ると、ルイーダは少し目を細めて頷いた。


「そうよね、ごめんなさい。クリスのことは私に任せて。けど、味見はあなたにしてもらうからその時はお願いね」


「わかった。必要なものがあればメモに書いてくれ」


「ええ、ありがとう」


 そして翌日、医者がやってきた。グランベールに病院はなく、個人で医者を生業としている者が数名いるだけだが、その医者はその中でも特に腕がいいと評判の老夫だった。


「ご無沙汰してます」


 玄関を開け、ロンダートが深々とお辞儀をすると医者ははきはきとした声で言った。


「足を滑らせて転んだと聞いたが」


「はい。ケガはないみたいですが、万が一のため診てもらえないかと」


 事情を説明すると、医者は頷いて慣れた足取りで階段を登った。二階のルイーダの部屋の扉を開けると、部屋の周りをじろじろと見つめて呟く。


「相変わらずだな」


「あ、先生。ご無沙汰してます!」ベッドの上のルイーダが医者の方を見て笑顔を浮かべた。


 医者は強面の顔を少し緩めてルイーダの方を見る。「思ったより元気そうだな」


「心配症なんですよこの人」ルイーダはロンダートの方を指さした。「ほら、他にも患者さんいるんでしょう。私なんかさっさと済ませて次に行ってください」


「バカ言え」医者はカバンを床において予めベッドの前に置かれていたイスに腰かける。


「あの小さいの……なんて言ったか」


「クリスですか?」


「どうしてるんだ?」医者はルイーダの腕をもむようにしながら訊ねた。


「部屋にいますよ」ルイーダは言った。「一人で本読んでます」


「なんだ、まだ外に出してねえのか? 過保護もいいが、もういい年だろ。そろそろ一人で買い物にでも行かせたらどうだ?」


「って言われちゃったけど、どうする?」ルイーダはロンダートの方を見て言った。


「あ、うん。そうだね」ロンダートは頷いた。「あの子が行きたいって言えばいいんじゃないかな」


「部屋で本読んでる方が楽しいみたいだし」ルイーダが苦笑いを浮かべる。


「さ、次は内臓だ」医者はちらりとロンダートの方を見た。「女の裸は無闇にみるもんじゃねえぞ。ほら、早く出ていけ」


 いつもながら厳しい口調にロンダートはいそいそと部屋を出た。しばらくして医者が部屋から出てくると、ロンダートは恐る恐る訊ねた。


「あの、それで、どうなんですか?」


 医者は扉を閉めてからロンダートの目を見て言う。


「いつも通りだ。骨は多少弱っているが、適度に体を動かせば問題ない。心配なのはわかるが、家に閉じ込めてないでたまに外に出て気分転換させろ」


「はい……」


内臓(なか)も特に異常はなかったが、話の節々に強がりが見てとれる。空元気ってわけじゃねえが、多少無理をしてるのは間違いない。何かストレスになることでも言ってんのか?」


「いえ、特には」


 ロンダートが首を振ると、医者は肩に手を置いて言った。


「とにかく、もっと話し合って安心させることだ。子供のことも、もっと気にかけてやれ」


「はい、ありがとうございました」


 玄関まで付き添い、診療費を払ってロンダートは医者を見送った。


「何か言われた?」


 部屋に戻って早速ルイーダに訊ねられ、ロンダートは首を振った。


「何もなかったよ」


 あえて不安にさせることはない。心に何かしら問題があるなら、余計なストレスを与えるべきではないとロンダートは思った。


 ルイーダが今まで多少無理をしてきたことは間違いない。今回倒れたことも、体が無理をしていたことを知らせるための出来事だったに違いないとロンダートは考えた。


「ルイーダ、いい機会だしこのままもう少し休もう」


「えっ」


「家のことは僕が代わりにやる。君は元気になるまで、この部屋で休んでいればいい」


「でもお仕事は? 大丈夫なの?」


「問題ない」ロンダートは少し強がりを言った。「もう一冊はできあがってる。多少家のことに時間を当てても取り返せない遅れにはならないよ」


「そ、そうなの……」


「だから君は心配しなくていい。君はゆっくり体を休めるんだ」


「はい……」


 ルイーダは俯くように頷いた。


「でも、クリスのことはどうするの?」


 部屋を出る直前にルイーダがそう訊ねてくる。ロンダートは、「問題ない」とだけ答え、すぐさま隣のクリスの部屋に向かった。


「クリス、ちょっといいか?」


 扉を叩いてゆっくりと開くと、部屋の中にはクリスとハムがいた。クリスは、両腕にハムを抱きかかえて、少し驚いた顔でロンダートの方を見つめた。


「なに?」


「ルイーダ……お母さんがしばらく部屋から出られなくなったんだ」


「どうして?」


「ちょっと転んでケガをしたんだ。命に別状はない。ただ、これからは良いというまでおかあさんの部屋に行ってはいけない。わかったかい?」


「うん……」クリスはハムをぎゅっと胸に押し付けるようにして頷いた。


「それはあんまりじゃねえのか」クリスの腕の中でハムが言った。「ちょっと会うくらい構わねえだろ」


「ダメだ」ロンダートは首を振った。「彼女のためなんだ。我慢してくれ」

 するとハムはチッと舌打ちした。


 ***


 願いとは裏腹に、ルイーダは一向に回復しなかった。週間が経つ頃には、扉を開けても反応しなくなり、声をかけてようやく顔を上げるほど、最初の頃と比べて元気がなくなっていた。


「家事はどう? ちゃんとできてる?」


 会えばそればかり聞いてくるので、ロンダートは、「心配いらない」と短く答えた。


「クリスは? 外に連れていってあげたりした?」


「部屋から出てこない。それに僕と行くより君と行った方が楽しいだろう」


「そんなことないわ。あなたと出かけたいってあの子も思ってるはずよ」


「まだそこまで時間が取れない」


「わたしの看病はできるのに?」


 ルイーダがロンダートの目を見て言う。ロンダートが黙り込むとルイーダは言った。


「私なんかよりあの子にもっと時間を使ってあげて」


「君が元気にならないとあの子だって心配する。子供は母親が一番大切なんだ」


「だったら私のためにあの子の面倒を見てよ。わたしと同じくらいあの子も愛してあげて」


 ルイーダがロンダートの手を掴んでまっすぐ目を見つめた。ロンダートは見つめ返そうとしたが、思わず逸らしてしまう。


「……僕にとっては、君が一番だ。君と寄り添って生きると決めたときから、僕は……君だけのために働いてきた」


「クリスは? あなたの子供なのに……愛せないの?」


「僕は真っ当な父親じゃない。君だったら僕の分まであの子を愛してくれると思ったんだ」


「私に全部押し付けないでよ!」ルイーダが叫んだ。「あなたに愛されてないって知ったらあの子だって傷つくに決まってるじゃない! どうしてそれがわからないの⁉」


「落ち着いてくれ、ルイーダ。僕が悪かったから」


 ロンダートが立ち上がって言うと、ルイーダは震える声で言った。


「どうしてそんな冷静でいられるの……?」


「君の身体に良くないだろう」


 怒りは動悸を早め、心身に不調をきたす。それでも、怒らなかったわけじゃなかった。


「……わたしが死んだら、あの子はどうなるのよ?」


「僕ひとりじゃ、君の代わりが務まるとは思えない。だから……」


 その先のことを聞かれなくて良かったと、後にロンダートはルイーダの顔を見て思った。


「あなたが責任もって育てるって言ってよ! 心配するなって元気づけてよ。時間がないなんて言い訳しないで、あの子のためにあなたができることを探してよ……ねえ、仕事って家族よりも大事なの? あなたにとって」


 それは、ルイーダが長年溜め込んできた感情だった。働いていない自分には、言う権利がないとずっと我慢していた。けれどもう、止められなかった。


「何か言ってよ! 嘘でもいいから……」


 それを答えてしまえば、もう……もとには戻れないとわかっていた。いつまでも冷静でいられる自分が半分恐ろしくて、もうどうしようもないとロンダートは思った。


「何かあったときのために、この仕事を辞めるわけにはいかない。僕がいなくても、あの子が生きていけるようにするために金は必要だ。君の今後の治療にも相当必要になる」


 ルイーダが引きつった笑顔を浮かべて言う。


「わたし……お金のためにあなたと結婚したわけじゃないのよ? 貧乏でも、楽しく暮らせたらそれでよかった。二人で一緒に働いて、辛いことも楽しいことも一緒に経験したかった……それで私が先に死んじゃっても、あなたが見届けてくれから怖くないって思ってたの」


 ルイーダの目はその時宿した光をとうに失っていた。

「わたし……今とっても不安なの。あなたのことも、クリスのことも……私がいなくなったら、どうなるんだろうって。本当に後悔しかない。あなたたちを残していくことがこんなに怖くなるなんて思わなかった」


 それも半分は自分の責任だとルイーダは溜め息をこぼした。


「どうすれば……君の不安を取り除けるんだ?」


 後戻りできないとわかっていても、せめてルイーダが安心できるようにしたかった。

 するとルイーダが、そうねと呟いた。


「朝ごはんは、どれだけ忙しくても一緒に食べてあげて。それから、あの子のお願いは絶対に断らないで。時々外にも連れ出してあげてほしい。あの子一人だけでもいい……遠くで見守ってあげて。すぐにはうまくいかなくても、諦めずに続けて。そうすればあなたも、いつかきっとわかる日が来るから」


「わかった。続けると誓うよ」


 するとルイーダの顔に少しだけ生気が蘇り、彼女は微笑みを浮かべた。


 そして数日後、彼女は静かに息を引き取った。

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