触れたい
ロンダートは地面に膝をつけたまま動かなかった。
「ミーナ!」と名前を呼ばれて振り返ると、セトが通りの奥を指差して叫ぶ。
「早く追いかけないと!」
「そ、そうね……!」
今は取り乱している場合じゃない。ミーナはロンダートの方を向いて言った。
「ロンダートさんはここで待っていてください。私たちが連れ戻しますから」
ロンダートから返事はなかった。放心しているのだろう。これ以上ここで立ち止まっている暇はないと二人は駆け出した。
「クリス、ちょっと待って……話を聞いて!」
ミーナは思い切り叫んだ。クリスとの距離はそう遠くない。追いついて引き留めれば、きっと楽に連れ戻せる……けど、本当にそれでいいのだろうか。
「あれは、きっと何かの間違い……あなたを嫌っているからじゃない!」
そうだと言える根拠は見つからなかった。そうあってほしいという願いがそのまま口をついて出たのかもしれない。
クリスは振り返らなかった。もう……無理やり連れて帰るしかないのだろうか。それで本当に二人の仲は元に戻るのだろうか。
「ミーナ、もう……」
隣を走るセトが首を横に振った。説得は通じない。連れ戻すしか……。
そう諦めかけた瞬間、セトが異変に気付いて叫んだ。
「ミーナ!」
ミーナは、前方に視線をやった。クリスが倒れている。何かに躓いたのか、理由はわからなかった。不本意だが、もうこれで逃げられないと少し安堵していると、ミーナもようやく異変に気付く。
通りの奥から人々の騒ぎ声が聞こえた。群衆の間を掻き分けて出てきたのは馬車を引いた二頭の馬だった。
「たっ、助けてくれえ!」
御者は手綱を握ることで精一杯で、とても馬を操れる状態ではない。何よりも問題なのは、馬の進行方向にクリスが倒れていることだった。
「クリス!」
ミーナが叫ぶ。しかしクリスは起き上がれなかった。慌てて駆けつけようとする。
「ミーナ、待って!」
「離して! このままだとクリスが……」
「もう間に合わない……飛び込めば君も巻き込まれる!」
「けどっ……!」
見捨てることはできないと腕を振りほどこうとするミーナにセトは言った。
「だったら僕が、気絶させる……」
「ちょっと待って、それは……」
一瞬止めようとしたが、それ以外にこの状況を何とかする方法が思いつかなかった。
迷ったミーナは、ぶんぶんと首を振って叫んだ。
「だったら任せる! だから……行かせて」
セトの手を振り払い、迫りくる馬の影に立ち向かう。恐怖は当然あった。目の前に死が近づいているようなものだ。けれど、背を向ける気にはならなかった。
「クリス!」
死を覚悟して飛び込もうとしたその時、ミーナの体が大きく横に倒れる。それは、意図していた事ではなかった。背後から近づいてきた何者かの手が、肩を掴み、助けたのだ。
「どいていなさい」
倒される直前、ミーナはその人影と目が合った。そして人影の主――ロンダートが追い抜きざまにぽつりと言った。
「ありがとう」
懐かしい背中がミーナの目に映った。
***
それは、ロンダートの数少ない家族の記憶だった。それほど仕事が立て込んでいなかった頃、妻のルイーダと娘のクリスと三人で森にピクニックに行ったことがある。
とはいえ、着いて早々にクリスは眠ってしまい、ロンダート達は木陰で休んでいた。
こんな時でも、研究のことが頭から離れない。だからこそ手荷物は何も持ってこなかったが、それが余計に不安を掻き立てた。
クリスを膝の上で寝かせていたルイーダが、ロンダートの様子に気付いて声をかけた。
「どうしたの?」
「……僕は、理想的な父親というものがわからない」
森の陽気にあてられてしまったか、ロンダートは普段決して言わないことを口にした。すぐさま我に返ったが、言ってしまったことは戻せない。しまった、と唇を噛みしめる。
「どういうこと?」
ルイーダが訊ねる。それは怒っているというより、純粋に疑問に思ったような声だった。
ロンダートは答える。
「君は、この子にとって理想的な母親だと思う。この子も君には懐いているし、君からはその愛情も伝わってくる」
「ありがとう」ルイーダは少し照れながら振り向いた。「貴方もそうでしょう?」
「僕は……この子を愛せている自信はない。世話をしているのは君ばかりだ」
「仕事があるんだから、それは仕方ないでしょう……こうしてたまに時間ができた時に付き合ってくれるだけで十分よ」
ルイーダが笑顔で返すと、ロンダートはさらに思い詰めた表情で言った。
「それが正解なのか? クリスも僕には君に向けるときのような顔をしてはくれない。それは、父親として認められていないからなんじゃないか……」
ロンダートは不安を洗いざらい口に出した。
「教えてくれ……どうすれば理想的な父親になれるんだ。君にとって、僕は理想的な夫なのか?」
するとルイーダは、「少し落ち着いて」と優しく声をかけた。
「あなたは頭がいいから、色々なことを考えてしまうのよね」
「悪いことなのは自覚している」
「悪いことじゃないわ。それは色々なことに真剣に向き合ってるってことでしょう? この子のことも……あなたなりに色々考えているのよね」
ロンダートは頷いた。
「しかしわからない。僕がいなくてもこの子は問題なく大きくなっている。それが君のおかげなのは言うまでもないが、この子の中で父親は必要のない存在になってしまったのか」
「そんなことないわ」ルイーダは首を振った。「私だって、不安じゃないって言ったらウソになる。不安じゃない人なんてこの世にいないわ。けど、それをこの子に伝えても意味なんてないでしょう?」
ロンダートは頷いた。辛い姿を見せられて喜ぶ子供なんていない。
「だから君は……いつも笑っているのか?」
不安を押し殺して、娘のために気丈な母親を演じているというのだろうか。
「半分はそう」ルイーダは言った。「けどもう半分は、この子が私を愛してくれるから」
どういうことかと理由を訊ねると、ルイーダは微笑んで言った。
「理想的な母親になろうなんて、わたしはしてないわ。ただわたしがしたいようにしてるだけ……何が正解かなんて、考えても結局わからないもの。だったら楽しむしかないじゃない」
「楽しむ……」ロンダートは呟いた。「そんな無責任なこと……僕にはできない」
親は子を立派に育てなければならない。失敗は許されないのだ。
「そうね、私は正しいことをしていないかもしれない。もっと言えば、わたしが子供の頃にしてほしかったことをこの子にしてるのかも」
ルイーダの家族は会ったことがある。両親ともに威厳が形を成したような風体で、ルイーダの印象とは少し異なるが立派な人だと思った。
「父も母も、仕事で家にいなくてね。友達もいなかったから、部屋から出ることもしなかった。仲良くしてくれたのは、お世話係のおばさんだけ。その人にだけは何でも話せたわ」
ロンダートは驚いた。今の彼女の性格からは想像もできない。
「だからせめて、この子にはそうなってほしくないの。私があの人から受け取った愛をこの子にも感じてほしい」
「その……君の父親は、君にとって理想的な父親だったのか?」
恐る恐る訊ねると、ルイーダは笑顔で首を振った。
「けど、だから嫌ってるってことでもないの。仕事で忙しかったのは知ってたし、お金に困らなかったのはそのお陰だから。だから、恨んじゃいないわ」
お金のことに不自由させない。それはクリスを授かる前に決めていたことだった。もっと言えば、ルイーダと婚約をするときに守ると誓った唯一のことだ。
「恨んでないけどね、今さら……私のこと愛してた? なんて聞けないでしょ」
「ああ……」
ロンダートは、自分にはそうしてほしくないのだろうと思った。たまにでいい。会話をせずとも、こうして家族でいることを確かめられることをしていたい。
あれから数年――ロンダートは今も、正しい父親のあり方というものがわからないでいた。今はもう支えてくれる相手はいない。だから自分が、その代わりにならなければいけないと思ってきた。けどどのように接すればいいか、何が正解か、考えるべきではないことを考え続けた。それが結局、子供を一番傷つけていたのだと今の今まで気づかなかった。
――僕はバカだ……ロンダートは心の中で呟いた。答えはずっと近くにあった。かっこ悪い父親で構わない。彼女は一度だって、自分のことをそう言ったりはしなかった。理想を求めてもいなかった。ただ純粋に……自分の意思に従っていた。
――僕はいま……何がしたい? 仲直りか? それとも……謝罪か? どちらでもない。僕はいま、心の底からあの子に……「大好きだ」と伝えたいのだ。
「クリス!」
間一髪のところでクリスを抱き寄せると、ロンダートは懐から小さな瓶を取り出す。中には色のついた液体が入っていた。
「大丈夫か? ……息を吸い込んでいなさい」
クリスにそう小さく告げ、ロンダートはビンを前方に投げた。するとビンが割れ、液体が空気に触れると忽ち気体となり霧散した。まるで薄い霧のように周囲に立ち込む。
「どうなってるの……?」
ミーナが少し離れたところで目の前の光景を見つめる。霧はすぐに消え、遮られていた視界はすぐさま晴れた。すると、目の前ではクリスを身を挺してかばっているロンダートの姿とそのすぐ近くで足を止める二頭の馬の姿があった。
「止……」
状況が飲み込めず、呆然と景色を見入るミーナ。
ロンダートは、歯を食いしばって万が一の衝撃に備えていたが、それがいつまで経ってもこないので、片目を開けて後ろを見つめた。
「間に合ったか……」
イチかバチかだったが、うまくいった。念のため効果の強いものを選んだのも正解だったかもしれない。頭の中に思考が駆け巡るが、それはすぐさま消え失せた。
「くるしい……」
腕の中でかすかに聞こえた声に反応してロンダートは慌てて拘束を解いた。
「すまない! 咄嗟に……」
力加減を考える余裕もなかったので、言い訳のしようもない。大丈夫か? なんて聞いても、きっと大丈夫じゃないだろうから何て言えばいいか言葉が浮かばなかった。
「本当にすまない……」
もっといい方法はなかったかと今更頭を働かせるが、奇しくもこれが最善であることに異論の余地はなかった。その顔に触れることさえ、今まで怖くてできなかった。
触れたい……と無意識にそう願って、ロンダートの右手はクリスの頬をそっと撫でた。
「くすぐったい……」
反応があったのですぐさま離そうとすると、クリスの手がロンダートの手に重なった。
「おとーさんのて……おっきい」
「イヤ……じゃないのか?」
そんなことをまだ訊ねてしまう自分に嫌気がさすと、クリスが振り向いた。
「どうして? おとーさんのて……あったかい。おかーさんみたい」
ルイーダ! 心の中でロンダートは叫んだ。君がいつも、苦しいくらいにこの子を抱きしめていた理由がわかった。愛しさが、溢れて止まらなかったのだ。
この溢れる愛を抑える方法はいつも彼女が教えてくれていた。
「大好きだ……クリス」
もう……離さない。離れないで向き合うと決めた。自分の家族と……そして、自分の罪と。
「……ねえ、あなたはお父さんの記憶ってあるの?」
二人の様子を見つめていたミーナは、ふと頭の中に浮かんできた記憶を振り返ってセトに訊ねた。
「ううん、ないよ」
あるのは母である竜との記憶だけとセトが答える。
「ミーナはあるの……?」
「うん、けど……あんなにまっすぐ向かいあった気はしてない」
父と母の愛に……最後まで気づけなかった。もっと早く素直になっていれば、こんな気持ちを抱くこともなかっただろうに。
「ダメね……わたし」ミーナは溜め息をついた。「今からでも……あの頃に戻りたい」
こぼれた本音は、風の音にさらわれた。




