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先生

 足音が近づいてくる。ミーナは立ち上がり、急いで本を戻そうとした。上の棚に一冊分の隙間ができているのが見えた。


「届かない……!」


 隙間は上の棚の二段目にあった。子供はもちろん、大人でもそう簡単には手の届かない位置だった。


「どうすれば……」ミーナは本を抱いた。足音がすぐそこまで近づいてきて、姿を現した。


「何かあったのかい」


 そう声をかけてきたのは、四十代ほどの男だった。無精ひげがあり目元が少し疲れたような見た目だったが、穏やかな声にミーナは内心ほっとした。


「えっと、上から本が落ちてきて……頭に」


「それは災難だったね。どれ、少し見せてみなさい」


 男が近づいてきた、ミーナはじっとその場で目を閉じた。


「大丈夫だ、出血もしていない。落ちてきたのはその本か……私が店員に返してこよう」


 ミーナから本を受け取った男は、その直後……血相を変えてミーナの方を向いた。


「君は……この本の中身を見たか?」


「いっ、いいえ! 見て……ません」ミーナはぶんぶんと首を振った。


「そうか、ならいい……これは、子供が読むにはまだ早い。生き物図鑑が読みたいなら、そうだな……この辺りの本がおすすめだ」


 男はそう言って、二冊ほど下の棚から本を取ってミーナに渡した。

 ミーナは呟いた。


「あの、この本って……」


「ん? ああ……此処に来たのは初めてなのか」男はミーナを見て言った。「本についた紐の付箋に板がぶら下がっているだろう。そこに値段が書かれている」


 男はミーナに渡した本についた値札の板を手に取って見せた。首を振りかけたミーナだったが、飛び込んできた値札を見て言葉を失った。


「ん? ミーナ、どうしたの?」


 セトの声が聞こえてミーナは我に返った。「セト……」


「セト?」男が言って後ろを振り向いた。


「あっ……先生!」セトはさっきよりも数倍大きな声で言った。


「どういうことだ、これは……?」とセトに先生と呼ばれた男は首を傾げた。


 やがて、セトから事情を聞いた男は、「なるほど」と頷いた。


「そうか、ちょうど今朝帰ってきたのか」


「うん、でも先生……やっぱりここにいたんだね」


「少し調べたいものがあってな……あとで話そう。しかし驚いたな、お前が人を連れて戻ってくるとは」


「色々あったんだ……それもあとで話すよ。今はまず彼女に紹介させてよ」


「そうだな」男は頷いてミーナに手を伸ばした。「私の名前はロンダート。生物学者をしている。今はセト……彼と協力して様々な生物の生態の研究をしている最中だ」


 向けられた視線を感じて、ミーナは慌てて頭を下げた。


「ミーナです! その、セト……彼には命を救ってもらって、その後も……たくさん助けてもらって、それで、えっと……」


「そこまで緊張しなくても」ロンダートは少し困った顔で言った。「これ以上騒がしくすると私も仕事がやりにくくなる。あとは外に出てから話そうか」


「は、はい……」


 ***


 外に出ると、セトはミーナの方を見て言った。


「あれ、ミーナ。 さっき持ってた本買わなかったの?」


「え、ええ……ちょっと内容が難しかったから」ミーナは笑顔を浮かべた。


 すると、ロンダートがミーナの方を見て訊ねた。


「そういえば、ミーナはどこの出身なんだ?」


「えっと……村です」


「……なんて言う名前の?」ロンダートは少し首を傾げた。


「名前は……ありません。ただの村なので」


「そんなはずはない。どんな村でも、必ず名前を()()()()()()()ものだ……いや、まさか……そういうことか?」


 ロンダートは何かに気付いたように立ち止まった。


「ミーナ、もしかして君は……大熊の生息地の近くに住んでいたのか?」


 ミーナが小さく頷くと、ロンダートは納得した表情を浮かべた。


「なるほど、それならば名前が無いことにも合点がいく……災難だったな」


 なぜか、気持ちがわかるというような表情を浮かべたロンダートに、ミーナは首を傾げた。


「えっと、これからどこに行くんですか?」


「私の家だ。そこなら話もしやすいからね」


 人々の服装が大通りに近い印象になってきた。大通りと商店街の中間にある短い通りは、人通りは少ないが周辺に店が多いため町人にとっては中心街の次に家を建てたい場所でもあった。

 ミーナが持つ家のイメージは、小屋や納屋程度の大きさだったが、それに照らし合わせると目の前にある家は、まるで目の前に城でも聳えているような衝撃だった。


「さあ、遠慮せずに入ってくれ」


 ミーナたちが中に入ると、ロンダートは二人を目の前にして次のように言った。


「準備をするから少し待っていてくれるか? セト、ミーナに飲み物を入れてあげなさい」


「うん、わかった」


 ミーナが、急いで階段を駆け上がったロンダートを見つめていると、セトが手を引いた。

 案内されたのは、大きな机とソファー、そして奥には台所のある居間だった。


「都会の人は……全員、こんな家に住んでいるの?」ミーナは震える声で呟いた。


「さあ、どうだろ……」セトは首を傾げた。


「そうよね、考えるまでもないわよね……」ミーナは独り言のように呟いた。


 セトから受け取ったティーカップを、まるで毒でも入っているような素振りで口に運ぶ。

 ふと、今の壁側が気になってミーナは立ち上がった。目に入ったのは棚に立てられた写真立てだった。


「すごく似てるわね」ミーナはぼそりと言った。「となりの子供は誰?」


「ああ、それは……」


「待たせてすまない」慌てた声で登場したロンダートに二人の視線はそちらに向いた。


 案内された二階の部屋は、一階の居間に比べると半分かそれ以下の広さで、色々なものが散乱していた。特に本の類が多かったが、どうにか足の踏み場は確保されていた。


「ここは……?」


「僕の研究室しごとばさ」


 そう言ってロンダートは、二人を席に座らせ、自分はその目の前に腰かけた。


「まずは簡単に結果を報告してくれるか、セト?」


「はい」と立ち上がってセトはロンダートに村で起こったことを伝えた。


「情報の通り、大熊は親子連れでした。ミーナの村の近くの森に潜んでいて、最初はなかなか見つけられませんでした」


「臭いで追跡できなかったのか?」


 ロンダートが訊ねると、セトは頷いた。


「そうか……被害は?」


「村人が二人……動物は特に大きく減っていた感じはなかったです」


「それも情報の通りか……臭いで追跡できないのと、何か関係があるのか……どう思う?」ロンダートはセトに訊ねた。


「はい、あとで調べてみたんですけど、大熊の巣の近くからこんなものが出てきました」


 セトは懐からビンを取り出した。その中には、三粒ほど何かの種のようなものが入っていた。


「これは……?」


「木の実の一種かなと思います。僕もハムも……気になって食べてみたんですけど、ちょっとおかしなことが起こったんです」


「おかしなこと……?」ロンダートは首を傾げた。


「不思議と……お腹がいっぱいになったんです」


 するとロンダートはビンの中を見つめ、人粒取り出して口の中に放り込む。


「先生……?」


「味は……煎った豆のようだな。満腹になるとは、栄養価が高いということか」


 咀嚼しながら考察を述べる。「……なるほど、他の動物に被害が及ばなかったのはこのためということか……不幸中の幸いだな」


 残りの木の実は、重要な証拠して残す必要があるとロンダートはセトから瓶を受け取った。

 セトは言った。


「ああ、あと……もう一体別の生き物を見つけたんです。先生なら何か知ってるかなって」


「どんな生き物だ?」


「ヌシって呼ばれてて、体型は……えっと、どれくらいだっけ……ミーナ?」


 セトがミーナの方に視線を向けると、ミーナは呆然とした様子だった。


「ミーナ?」と少し大きめに名前を呼ばれて気がづく。「えっ……あっ、何⁉」


「ヌシの話。どれくらいの大きさだったかなって」


 ミーナは、「ああーっ」と声をあげて言った。「山くらいの大きさだったかしら」


「そんなにあったかな」とセトが口を挟んだ。


 ロンダートが言った。


「山……か。もしかするとヤマテンコウかもしれないな」


「ヤマテンコウ?」二人は首を傾げた。


「名前の通り山のような体躯を持つ魚だよ。この辺りには通常生息することはない生き物だが、魚類でそこまで大型となるとそれしか思いつかないな……」


 確か本がどこかにあると、ロンダートは立ち上がって辺りの本を漁った。


「手伝った方がいいかしら」とミーナが立ち上がると、セトが言った。


「いいよ……先生しか本の場所わからないし」


 やがて、「ああ、あった!」と宝物を見つけたような声をあげてロンダートが二人に近づく。「この生き物だ」

 目の前に寄せられた本の一ページの、ロンダートの指先に二人は視線を向けた。そこに描かれた生き物は、ヌシとは瓜二つとは言えなかった。しかし……大きな口と、背中の部分に岩のような模様が描かれた様は、その特徴を捉えているといってよかった。


「これだ!」と声を出したのはセトである。「間違いないよ……! ヤマテンコウ」


「本来は、ここよりもさらに南にいった大海洋などで見られる生物だが、海流などで卵が流されてまったく別の場所に行き着いてしまった事例はいくつかある。環境に適応できずすぐに死んでしまうが」


 ヌシも同じだった、とミーナは心の中で思った。


「ヌシは少し違ったよね」とセトが言った。「だって、家族に看取ってもらえるって、最高の死に方じゃないかな」


 すると、ロンダートが言った。


「ふむ……ということは我々は、二種のビーストの生態を知ることができたわけだ」


「ビースト?」ミーナが首を傾げると、ロンダートは本を閉じて表紙を見せた。


「このタイトル……」ミーナが呟くと、ロンダートは頷いて言った。


「『特定環境・保護指定生物』――通称『ビースト』……我々の調査対象だ」



 ===========


 file.1 大熊:危険度★★

 概要:

 大型だが、通常の熊と比較して生物としての強さにさほど差はない。特筆すべきはその食欲であり、一体で一つの森林の生物を食い尽くせるほどの捕食性が高い。生息場所によっては指標以上の被害をもたらす可能性がある。


 発見:

 その生態から一つの場所に留まることはないと言われていた大熊だったが、今回調査した森においては、大熊は少なくとも七年もの間その森に留まっていた可能性がある。子供連れでありながら森が破壊されなかったのには、その森で発見した木の実が大きく関係していると思われる。(その木の実は後に効果が証明され、ハラパンの実という名が付けられた)


 file.2 ヤマテンコウ(ヌシ):危険度★★

 概要:

 かつては群れで数隻の船を沈めたことも広く知られている生物だが、直接的に人間に危害を加えた事例は殆どない。産卵期に海流によって卵が流されてしまうことは広く知られているが、その後に発見されるものが稚魚のまま餓死している状態であることが殆どであったため、詳しい生態については未解明な点が多かった。


 発見:

 今回、生体のヤマテンコウが発見された。生息場所は近くに湖のある場所だった。どうやら60年以上生きていたらしく、大きさとしては本来の十分の一にも満たなかったものと思われる。食糧不足による餓死が散見されるなか、人間の手によって長く生きたビーストがいたことは人とビーストの関係性を考える上で無視できない事例である。

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