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迷い人

 あれから八年が経った今でも、あの日のことは夢にみる。

 起き上がって顔を洗い、私は外に出た。隣りの小屋に向かうと、家族はすでに起きていたらしい。


「おはよう。クク、ココ、メメ」


 今の私の唯一の家族――三頭の牛たちがそれぞれ鳴き声をあげた。

 父と母が亡くなってからは、この子たちの世話をすることで私は生活を続けてきた。父と母が守ってきた畑は、今は村の人に使ってもらっている。


「まずはククからね、じっとして」


 とん、と手を体に触れさせるとククはその場に静かに立ち尽くした。

 掃除に使うのは、使い古しの服を裁断した手製の雑巾。


「初めは全然いう事を聞いてくれなかったのに。ずいぶん聞き分けがよくなったわよね」


 そう言うと、ククは少しむすっとした。表情はまったく変わらないけれど、世話を続けていたらいつの間

 にか、そんな小さな変化にも気づけるようになっていた。


「お母さんみたいに優しくしようとしてからだったっけ? ちょっとずつだけど気持ちいいときはちゃんと応えてくれるようになったよね」


 撫でるように毛をすいてやると、ククは息を吐くような太い声を出す。


「……それとも、気を遣ってる?」


 本当は全然気持ちよくなんかないけれど、じっとしていないと私が困るから。お母さんだったらもっと気持ちいいけれど、あの人はもういないから。


「だったら、そう言ってくれたらいいのに」


 私は額をククのお腹にぴたりと当てた。こうしたら心が通じ合えるかな? なんて、そんなこと絶対ありえないけれど。声が聴こえたら、声が聴きたいと思った。


 ククは、何も言わずにゆっくりと歩き始めた。


「もういいのね」


 私は手を離して、小屋を出て行くククを見送った。

 そして、待たされてうとうとしているココとメメに向かって言う。


「はい、じゃあ次はどっち?」




 牛たちの世話を終え朝食を済ませると、私は籠を持って坂を下った。


「ミルクいかがですかー?」朝の挨拶の代わりに、大きな声でそう叫ぶ。

「おはようミーナちゃん! お仕事お疲れさま」


 鍬を背中に背負った村人の一人に私は深くお辞儀をした。


「おはようございますカルロスさん。ミルクいかがですか? 新鮮ですよ」

「じゃあ一本貰おうかな」


 代金をもらい、籠の中に入ったミルクの瓶を渡す。カルロスさんはその場でフタを開けてぐびぐびと喉の奥に流し込んだ。


「おお、こりゃうまい! またおいしくなったんじゃないか」


「ありがとうございます」頭を下げると、カルロスさんは言った。


「ああ、そういえばまたウチのリックが迷惑かけちまったんだって?」


「いえ、そんなこと。ただまた森に行こうとしていたので、注意しただけです」


「そうか。また森に入ろうって無理やり誘っちまったんじゃねえかと思ってな」


 悪い、とカルロスさんは頭を下げ。お詫びにもう一本ミルクを買ってくれた。


「あいつもこれ飲んで、少しは頭の方も賢くなってくれねえかな」


 真剣に悩む様子のカルロスさんに、私はくすりと笑顔を浮かべた。

 リックはこの村の子供たちの中でも、一際冒険心の強い子供だった。年々、外の世界の冒険を夢見る子供たちは増えている一方で、跡取りとなる子どもが減ってきている。


 カルロスさんも、どうにかして一人息子のリックをこの村に留めて稼業を継いでほしいと思っているのだろう。それなのに強く言う事ができないのは、きっと、私にはわからない深い理由があるからだと思う。


 お昼過ぎ、私はお弁当の入ったカゴを持ってある場所に向かっていた。

 あの日以来、村の森は正式に村の立ち入り禁止区域に指定された。そのため昼間は大人が森を巡回し、子供の出入りを見張っている。


 村の子供たちはこれに対抗して、秘密の特訓場所を新たに見つけた。

 村には森のある山から水が流れ、それは下流の湖へと続いていた。村はこの湖を隔てるように成り立っている。

 湖岸に向かうと、湖に向かって釣り糸を垂らす子供たちの姿があった。湖は生き物がいるけれど森ほど狂暴な動物はいないし、周りには漁師の大人もいるから何かあったらすぐに対処できる。


「みんなおはよう。どう、釣れてる?」


「全然ダメだよ」と振り返ったのはリックだった。「こんな木の棒で魚なんて釣れるの? 父ちゃんは森ででっかい生き物たくさん捕まえてくるのに」


「そういうことは一匹でも釣ってから言ってほしいわね。近くに漁師のおじさんがいるんだから聞けばいいじゃない」


「聞いたよ。そしたらみんなこう言うんだ」


「なんて言ったの?」


 子供たちは口を揃えて言った。「だったら潜ればいいだろうって」


 なんてこと言うのだろうと私は思った。そんなことをしてもし溺れたらどうするのか。

 せっかく子供たちの興味が魚に移ってようやく安心できると思っていたのに。


「そんなの冗談で言ってるに決まってるでしょ。それに潜らなくても魚は取れるわ」


 私は裾を上げて水の中に足を踏み入れた。腕を伸ばして砂の中を漁っていると、硬い感触を感じて掴み上げる。そして採れたものを手に持って子供たちの所まで戻った。


「あ、貝だ!」と内気な女の子のミアが言った。「でも小さいね」


「小さいならたくさんとればいいじゃない」私は言った。「要は考え方よ。この辺りにはたくさん貝があるから、それなら文句ないでしょ」


 そう言うと子供たちは釣竿を放り出して湖に飛び込んだ。すぐに誰が一番多く貝を取れるかの競争が始まった。


「あんまり深いところに行っちゃだめよ」


 私はひと安心して砂の上に腰を下ろした。


 これで良い。危険にさえ関わろうとしなければ、身の危険を感じる必要はないのだから。

 森にさえ近づかなければ、何も心配はいらない。


「みんなー、お昼まだでしょ。お弁当持ってきたから皆で食べましょう」


 子供たちは、「わーい」と叫びながら湖か上がってきた。それぞれの成果を発表するとやはり一番はリックだった。


「すごいわリック。これなら漁師にだってなれるわね!」私はそう言った。リックは「へへっ」と鼻の下を擦った。


「じゃあ採った貝は元の場所に戻しておいてね」


 すると子供たちが不満げに声を上げた。


「当たり前でしょ。魚と違って貝は食べるのが難しいんだから」


「じゃあなんで貝なんかとらせたんだよ」とリックが叫んだ。「ミーナ姉ちゃんならわかるだろ。ぼくたちは冒険がしたいんだ!」


「冒険なら此処でだってできるでしょ。釣りだって立派な冒険よ」と私は返した。「数日釣れないからって文句言ってる程度(くらい)じゃ、冒険に出たって何もできないわよ」


 少しばかり強く言うと、リックの目から涙がこぼれた。私は慌ててしゃがみ込んでリックの肩を掴んだ。


「ごめんなさい、ちょっと言い過ぎた。けどねリック、それとみんなも聞いて。確かに冒険は楽しいかもしれないけど、あなたたちはまだ子供。大人は子供を守る責任があるの」


「姉ちゃんだって子供だろ」リックが不満げに言った。私は頷く。


「それでも、私はあなたたちより年上だし、お姉ちゃんだから。見守る責任があるの、だからわかって」


 そう言うと、リックは小さく頷いた。「わかったよ。ごめん姉ちゃん」


「ありがとうリック。危ないことはぜったい反対だけど、遊ぶのは大事だって私もわかってる」私はそう呟いた。昔の出来事があったせいで、リックと子供たちには不自由な生活をさせてしまっている。いつかはこうなっていたとは思うけれど、もっと他の方法も取れていたかもしれない。


「だから本当は、リックたちが無事に帰ってきてくれるなら、私も心配なんかしなくて済むのよ」


 弱音が零れ落ちる。私にできることは子供たちを守ることだけだから。親じゃなくても、他人でも、嫌われたって言うしかない。それを素直に聞いてくれるリックたちは、昔の私たちに比べればずっとひたむきで純粋だと思った。


「じゃあ、ぼくたちが強くなればいいんだよ!」


 リックが昼食のサンドを口に咥えて叫んだ。物語の勇者のように剣を掴んで振り回す仕種を見せると、振り返って笑いかけてきた。私は思わず「そうね」と頷いていた。


 私がもっと強かったら、こうはなっていなかったかもしれない。けれど私は女で非力だから、どうやってもそれはできなかった。

 男の子のリックなら、強くなって成し遂げてくれるかもしれないと私はそう思った。


 ***


 茂みの中を小さな影が掻き分けて進む。陽の高くなるこの時間帯、森に入ることを許されているのは大人だけだが、それはどう見ても子どもだった。


「ハム、どこ行ったの」少年は小声で叫んだ。仲間とはぐれ、森の中を彷徨っていたのだ。


「お腹すいた」と少年は何度も呟いた。足取りは重く、顔色は良くない。


 森の中なら食料となるものが豊富に実っていることは村人であれば誰でも知っていることだ。少年はゆっくりとした足取りで森の中を進んだ。


 少年が足を止めた。ついに我慢しきれず立ち尽くしたわけではなかった。足跡を見つけたのだ。人間ではない。動物がここを通った痕跡だった。


「これは……」と少年はしゃがみ込んだ。足跡を辿っていくことにする。


 そして少年は近くに小さな村が見える茂みで足を止めた。動物の足跡はここで途切れていた。


「まさか……」と村の方を見て少年は呟いた。

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