ニンゲン
腕に力を込めて、私たちは糸を引いた。糸から手に伝わるヌシの重さは、まるで山一つを引っ張っているような感覚でびくともしなかった。けれどほんの少しずつ、ヌシは私たちのいる場所に近づいていた。
「みんなもう少しだ!」そう叫んだのは、ウミガメさんの息子で今のウミミノ村の実質的なリーダーのウミシカさんだった。
そうすると自然と掛け声が生まれて、よりいっそう私たちは息を合わせた。手に伝わるヌシの重さが少し軽くなった気がして、ほんの少し希望が芽生えた。
ヌシの大きな口がどんどん近づいてくる。もうぴくりともしようとしないのは、きっとそういうことだ。ウミガメさんの方を見ると、近づいてくるヌシに歩みを寄せた。そしてその手には、大きな刃物が握られていた。
ヌシを引き上げると、ウミガメさんはその体によじ登った。何をしているのかと目を凝らすと、ヌシに刃を突き立てる。
「何をやってるんですか⁉ そんなことしたら」
「あの少年を助けるためだ」
救いたいなら手伝え。そう言われて、私はウミガメさんのいる場所まで向かった。ヌシの体はべっとりとしていて少し臭った。けれど所々に触ると硬い部分があり、私はそれを頼りにヌシの体をよじ登る。ヌシの大きさと相まって少し山登りをしている気分だった。
ようやく目的の場所に到着するとそこはヌシの口の端だった。
「こいつはもう自分の意志で口を開けられん。だから無理やり開けさせる」
ウミガメさん曰く、顎の筋肉を切って口を開けさせるらしい。私はウミガメさんから刃物を受けとり何度も口の端あたりに突き刺した。
刃が入るたびにヌシの震えが伝わってきて、声は聞こえないけれど痛がっているのがわかった。そしてウミガメさんの方を見ると、口から血を垂らしながら刃を突き立てていた。
「くそっ、ダメか! これ以上は」何度刃を突き立ててもヌシは口を開けなかった、「こうなったら口を切り落とすしか……」
「そんなのあんまりよ!」私は思わず叫んでいた。「他の方法はないんですか」
「一刻も早くあの少年を助けたいなら、手段を選ぶな」
ウミガメさんは振り返ってそう言った。もちろん彼を助けたい。でも、これ以上ヌシが痛がることもしたくなかった。
どちらかを選べなんて、そんな残酷なことはすぐに決められなかった。
すると少しだけヌシの口が動いて、中の臭いが伝わってきた。
辺りを見回すと、村人の人達がヌシの周りに集まっていた。
ヌシの鼻とエラの周りに集まって、その部分を押さえている。
ヌシの口がゆっくりと開かれた。
「開いた、あいたぞ!」歓声があがった。中の臭いは鼻をつまんでしまうほどひどいものだった。生身でヌシの中に向かうのは危険だとウミガメさんは言った。
「じゃあどうやって中に入れば……」言いながら私は何か答えがある気がした。彼ならばきっと思いつく。思いつかないのはまだ私があるものを捨てきれていないからだった。
辺りを探し、それを見つける。でも、本当に大丈夫だろうか。不安になっていると横から声がした。
「きっと大丈夫だよ」
セトかと思い振り返るとそれはカキだった。けれど私は、これをどう使えば彼を救えるのかわからなかった。
「教えてカキ、どうすれば彼を助けられるの」
するとカキは、水汲み用のバケツを持ってきた。その意図に気づいた私は、村の人たちにも協力してもらうことを提案した。
ヌシの空いた口に、池の水を流し込む。するとかさが増え、中が小さな池のようになった。
そこに舟を浮かべ、私とカキそしてウミガメさんが乗り込む。
舟を進めた先、声がした。けれどそれは彼の声ではなかった。
「何だその顔、オレ様に会えてそんなに嬉しいのか?」
「あなた、泳げたのね」その小さな生き物は、短い手を起用に動かして浮かんでいた。
私は驚いた顔を元に戻して言った。
「これは苦笑いよ。勘違いしないで。それよりも、どうしてあなたがここにいるの?」
「色々あってな。話すと長い」
「じゃあ聞かないわ。それよりも、あなたの他に誰か人影を見なかった?」
「いや、見てねえな。オレ様ひとりだ」
「……そう」私は頷いた。
「何でそこまでアイツに肩入れするんだ。命を救われたからか?」
「どうしてそんなこと聞くのよ」
「いいから答えろ」
有無を言わさぬ勢いに私は頷いた。
「そうね……。もちろんそれもあるわ。彼は私の命の恩人だもの」
「だからってそれでてめえが命を懸ける理由になるのか? アイツは、てめえだから助けたわけじゃねえぞ。初めからそういうヤツだ。それで死んでもあいつのセキニンだろうが」
私は、少し驚いた。ハムは、もっと彼に興味がないものだと思っていた。
「責任なんて、まるで人間みたいなこと言うのね。だったらわかるでしょ。目の前に助けられる命があったら、助けたいって思うのが人間なの」
「……わけがわからねえ。なんでてめえらはそこまでできるんだ」
どうして? そんなこと初めて聞かれた。だって、当たり前だったから。
そう教えられたから? 父に、母に、友達が困っていたら助けてあげるんだよと。
でも、言われたからといってそれを実行したのは私の意志だ。私たちは、当たり前のように人を助ける。まるで、生まれる前からそうすることが決まっていたみたいに。
それは、私たちの細胞に刻まれた決して変えることのできない運命なのかもしれない。
「よくわからないけど、たぶん。それは私たちが弱い生き物だから」
助け合わないとひとりでは生きていけないほど、私たちは弱くて非力だ。それをきっと本能的に理解しているから、私たちは無意識に助け合う。
「くだらねえな。弱えことの何がいいんだ」
「そうね、でもそれが人間だもの」どう嘆いたって、これ以上強くなれない。たった一人で怪物に立ち向かえる人間なんて本当に稀だ。
だから勇者なんて本当はいないのかもしれない。勇者なんていうのは、私たちが弱さから目を逸らすために作り上げた空想の人物像なのかもしれない。
「てめえの弱さを肯定するなんざ、生き物として負けてることを認めることじゃねえのか」
「弱いことの何が悪いの? 私は自分自身の弱さを呪ったことはあっても、人間として弱いことを恥ずかしいと思ったことなんて一度たりともないわ」
強くありたいと思う、彼のように。けどそれは、生き物としてじゃない。
人としての強さは、強さだけじゃない。
「あなたは、誰かに助けられたことはないの? 助けたい人はいないの?
……あなたは本当にずっと一人で生きてきたの?」
思い浮かんだ疑問を私はぶつけた。そして、何を言っているんだと私は思った。だってこんなの、まるで人間としゃべっているみたいだった。
ハムは私の問いには答えなかった。舌打ちをして、身を翻した。
「どこに行くの?」
「いいから付いてこい」
そして、私たちは彼を発見した。
何を思うかは人それぞれだと思います。




