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捕食者

「帰ってこないってどういうことよ⁉」


 私はカキに向かって叫んだ。カキは拳を握った。「……ごめん」


「その先はワシが話そう」カキの後ろからウミガメさんが現れた。


「ワシらはヌシの近くまで行くことに成功した。運よく、ヌシはそのとき大人しくしておった。暴れ疲れてしまったのか、毒で身体が動かなくなっていたのかは定かではないが。とにかく、ヌシの体に乗ることには成功し、背中までたどり着いた。しかし」


 ウミガメさんは池の方を見た。ついさっきまで足元まであった水は引いていて、波も穏やかだった。水面には魚の影すら見えない。


「まさか……」


「ヌシが潜ろうとしていた時、糸は完全には繋がれていなかった。彼はそれに気づいたのだろう」


「じゃあ、彼はまだ池の中に……?」


 ウミガメさんはぐっと頷いた。

 あれから、どれだけ時間が経っただろうか。私はカキに言った。


「それで、糸はヌシと繋がっているの?」


「うん、たぶん。オイラが引っ張ってももうビクともしないから」


 だったら、やるべきことは一つしかなかった。「全員で糸を引っ張って、ヌシを引き上げましょう」


 いま焦ったところで、状況は何も良くはならない。

 彼ならばきっとそうする。私の記憶の中で、彼は一度たりとも狼狽えなかったのだから。


 ***


 奇妙な液体が、顔の頬に落ちた。雨露のような音が耳の中に響いてきて、セトは意識を回復させた。


「ん、ここは……」


 ゆっくりと目を開くと、そこは洞窟のように暗い場所だった。灯りの類は何もなくて、自分が立っている場所がどこなのか、セトは検討もつかなかった。


 しだいに目が慣れてくると、そこが思っていたよりも狭い空間だったことに気づく。人間三人分くらいの横幅で、天井はセトの身長と同じくらいの高さだった。


「……痛っ」セトは突然頭を押さえた。すると意識を失う前の記憶が蘇ってきて、セトはゆっくりと状況を理解しはじめた。


「えっと、ヌシに掴まって水の中に引きずり込まれたんだ。それで何とか糸を結んで逃げようとしたら足が抜けなくなって、それから……」


 それからの記憶は途絶えている。つまりその後の最初の記憶がさっき起き上がった瞬間なのだとしたら、セトはあのまま水中で溺れていたということだ。


「誰か助けてくれたのかな」


 周りを見るが人影はなく、いやに声が耳に響いた。大声で叫ぼうと思っていたがやめ、とりあえず歩いてみることにする。

 靴は脱げてしまったのか素足だが、踏みしめる感触に痛みはなかった。歩きやすくはなかったが、這って進まなければいけないほど滑りもしない。


「洞窟でもないよね」壁の感触も岩のごつごつとしたものというより、少し弾力がある感じがした。下と同じように、粘液のようなものが染み出している。


「……ヌシの中か」セトはそう結論づけた。


 奇しくも目的を果たしてしまったことになるが、素直には喜べなかった。もともと、ヌシを地上まで引き上げて動きを止めてから侵入しようと思っていたので、計画が大幅に狂ってしまったことに間違いはなかった。


「にしても、生き物の中ってこんな感じなんだ」


 セトはそう呟いた。決して楽観できる状況ではないが、滅多にできない体験なのも同じだ。超巨大生物に食べられたなんて、土産話としてはいささか空想じみているが。


「先生は信じてくれるかな。けどそれよりも、まずはヌシをどうにかしないと」


 ヌシの毒は、すでに体中に巡っている。それをどうやって取り出すか、セトは答えを持ち合わせていなかった。


「ハムがいたらなあ」弱音が口をついて零れた。ハムがいれば道もわかる。外に出ることも容易だったはずだ。それに、昨日からまともに食事を取れていなくて力も出ない。

 そっとポケットに手を入れると、果物を踏みつぶしたような感触がしてすぐに出した。


「くっさ……」


 諦めてゆっくりと歩を進めると、少しだけ視界が明るくなる。

 暗闇の中の僅かな光を反射して、ヌシの巨大な歯が現れセトの行く手を塞いだ。


「行き止まり、というかここが出口か」


 ヌシの口さえ開けば外に出られる。でもきっとそこは水中で、その瞬間に流れ込んでくる大量の水から逃れることはできない。つまりヌシが再び口を開くまでが、セトに残された時間だった。


「ここからは出られない。そういうことか」


 身近に感じられる死の恐怖。けれどセトは冷静だった。


「他に出口は……」辺りを見ながら、通れそうな道を探す。すると不自然に空いた小さな穴を見つけた。地面にぽっかりと空いたそれに手を伸ばすと、ヌシの肉質が腕に伝わってきた。腕を穴に突っ込み、まさぐるように中で手をあちこちに動かす。


「……ん?」中でヌシとは思えないものに触れた感触があった。やわらかいその何かを手に掴んでひっぱり上げると、それは意外なものだった。


「……ハム、どうしてこんな所に」


 相棒は動けなくなっていた。すると、ハムの口から血の匂いがした。


「無茶したね」セトは呟いて、ハムをポーチの中に入れた。


 捕まった経緯は、おそらくセトと同じだ。そこから出るための行動をハムはとったのだ。

 セトは、ハムを連れて引き返した。おそらく、前側から出ることはできない。

 そして、ヌシの中を歩きながらセトは一つの結論を抱いた。


「やっぱりヌシは、もう長くないのか」


 セトはそう確信した。ウミガメが言っていたように、病気のせいもあるだろう。しかし最も大きな要因は――寿命による体力の衰えだった。


 後ろに行くほどヌシの肉質ははっきりと悪くなっていった。やせ細り、内部の骨の輪郭がくっきりと見えるほどまで。


「てめえもオレ様も、そんな余裕はねえぞ」ふとポーチの方から声がして、セトは頷いた。


 ポーチの隙間から顔を出し、ハムがセトを見つめていた。


「わかってるよ、毒でしょ。……ちょっと目が霞んできた」


 セトは片目を擦った。片方の視界がぼやけて、ただでさえ見えにくい暗闇なのに余計にうまく歩けない。


「このまま死ぬのかな」ぽつりと呟くと、何かがゆっくりと胸の中を落ちていく感覚がした。死を身近に感じることはこれが初めてではない。むしろ死が身近にあったからこそ、ここまで生き延びられてきたと言える。

 もっとも生きようとする意志は、死が身近にある時ほど力を発揮するものだ。


「……お腹空いたね」


「……ああ。何か持ってるか?」


「うん、でも」セトはポケットに手を突っ込んだ。もうすでに原型をとどめてはいない、ミーナから受け取った食べ残しのサンドイッチ。


「よこせ」ハムが鼻をヒクつかせて言った。手に乗せたまま手をハムの目の前にやると、ハムはひと口食べてぽつりと呟いた。


「悪くねえ」


「それはずるいよ」


「食ったらハラが減ってきたな」


 ハムは少し元気になった様子だった。セトの手に貪りついて残飯をほおばる。


「僕も何か食べないと」そう言ってセトは食べられるものを探した。しかしヌシの体内にそんなものがあるはずもない。すると残飯を食べ終わったハムが言った。


「あるじゃねえか、そこら中に」そう言って、ハムはヌシの肉に歯を突き立てた。


「そうだね」セトは頷いた。今ここにあるものすべてが餌だ。セト自身も含め、生きるために食べられるものは何でも食べる。


 セトは採取用のナイフをポーチから取り出した。ヌシの身に薄く刃を滑らせて、身を切り取って頬張った。ずっと泳いでいただけあって、新鮮さは保たれている。弾力もそれなりにあって、味以外は食べられない感じはしなかった。


「せめて焼いてから食べたかったよ」食べるものに対して少しわがままになってしまった。それはきっと彼女が旅に加わってからで、事あるごとにセトの作る料理についてのダメ出しをされた。


「ミーナならこれも美味しくしてくれるかな」セトはぽつりと呟いた。少し欲が出てきたので地面だけじゃなく今度は側面を切り取って咀嚼する。


「少し味が変わった」そこはまだ毒の影響が少ないのか、味も多少マシだった。大きめの肉片が食べたくなり、セトは少し深く歯を入れた。


「オレ様にもよこせ」


「わかってるよ」セトは切り取ったブロック肉を二つに切り分けて半分をポーチの中に入れた。


「出口ももうすぐ近いかな」歩いてまだ少しだが、ヌシの体内は思った以上に短いのかもしれない。というより、これが標準の大きさではないのだ。

 本来、数百年を生きる生き物の寿命がその十分の一以下に低下したとすれば、環境に適応するために体の成長を止めざるを得なかったとすれば……。


「間違いない」セトは頷いた。「やっぱりヌシは……」


 すると音のなかった空間にわずかな空気の震えを感じた。


「何か来る……」予感がして、セトは前方を見た。何か風が吹いているような、大きなものが押し寄せてくる感覚。


 その正体に気づいてから一瞬の後、セトとハムは大波に呑み込まれた。

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