ヌシ釣り
ヌシの姿をはっきりと目にしたのは、これが初めてだった。
異様に大きく、目の奥まで裂けた口がまるで全てを呑み込もうかとしているように、大きく開かれていた。実際、ヌシは大量の水を口に含んでいて、裂け目から滝のように勢いよくこぼれ落ちていた。
「……これが、ヌシ」
目の前の景色が全て遮られると、全員が納得した。その大きさも、見た目もどんな魚とも違う。見た目は大きく異なっていても、肌に伝わるこの緊張感は、あの大熊と対峙したときと大差なかった。
「いったん避難するんじゃ!」ウミガメさんが叫んだ。私たちは急いで池から少し離れた高地に移動した。ヌシが水中に落下した衝撃で水飛沫が飛び散って、池の水が溢れる。雨なんか一滴さえ降っていないのに、濁流のような勢いで水があたりに流れた。
私たちのいる高地にも、洪水の影響は及んでいた。高地の周りはすでに水で満たされ、私たちは身動きが取れなくなった。
ヌシの方を見ると、何度も水中から顔を出しては、飛び込みを繰り返していた。
「あれは何をやってるの?」セトに訊ねると彼は首を振った。
「わからないよ。けど、苦しんでるように見える。早くなんとかしないと」
「助ける方法があるの?」聞くと、セトはすっと見る方向を変えた。
そこにいたのはウミガメさんで、セトの目を見て答えた。
「助ける方法はない。何十年も何も食べなかった奴じゃ。体力もとうに限界を迎えておる。あれは、その最後の抵抗じゃ」
ウミガメさんは、諦めたように目を閉じた。
「いや、まだわからないよ」セトが首を振った。「体内の毒素さえどうにかできれば、まだ助けられるかもしれない。中に入って、体から出すことができれば」
「やめろ、危険じゃ! たかだか数時間苦しむだけの毒とはわけが違うのだぞ! あの大食漢のヌシでさえ、食欲も気力も全てを削られた奇病じゃ。おぬし、それを真正面から受けるつもりか?」
「僕がやらなくても、きっと誰かがやらなきゃいけないんだ。このままヌシが死んだら、その死体の中で毒素はさらに成長する。腐臭だけじゃない、いずれみんなのいる村に届くことになるんだ。そうなったら、誰一人生き残れない」
「じゃから村を捨てて新たな地へ迎えと言っておる」
「そんなことしたって病気はなくならないよ。そうやってどんどん人が住める場所が少なくなっていくんだ」
セトはまるで見てきたように言った。けれどもしかすると、彼は本当に見てきたのかもしれない。
「でもどうやってヌシの中に入るの? あんなに暴れてたら近づくこともできないわよ」
私たちが手を繋いだ長さよりもヌシの胴体はずっと太く見えた。
「止めるのは無理でも、動かすことならできるよ」セトは呟いた。そしてゆっくりと視線を動かし、ある方を見つめた。
「……え、オイラ?」目をぱちぱちとさせたカキを見つめて、セトがにっこりと頷いた。
「ムリムリ無理だよ! あんな大きな魚、オイラ釣ったことないよ! それに、竿も釣り糸も引っ張る前に絶対千切れちゃうよ!」
「竿は使わないよ。それと糸は、これを使う」そう言ってセトは懐から白い何かを取り出した。
「何よそれ」
「クモの糸だよ。前に買ったのを思い出したんだ。それにただのクモじゃなくて、ハコグモっていうとびきり丈夫な糸を吐く生き物なんだ」
「見た目にはそうは思えないけど」私は糸を覗き込んで呟いた。糸の太さも、カキが使っているものと大差ない感じで、心許なさは十分すぎるほどあった。
けれど私たちが誰も知らないことを知っている彼の知識に、私たちは託すしかなかった。
糸を括り付ける竿の代わりには、この辺りで最も太い樹の幹を選んで何重にもくくりつけた。
「釣り針はどうするの? 小さかったらすぐに引きちぎれちゃうわよ」
するとウミガメさんが言った。「ヌシの背中は、とてつもなく硬い鱗に覆われておる。岩のようにな。背ビレも同じじゃ。そこに糸を巻きつければ、恐らく解けはせんじゃろう」
けれどそのためには、ヌシの所まで行って、そしてヌシの体をよじ登らないといけない。言うのは簡単だけど、ヌシの姿を見てもそれができるとは私にはとても思えなかった。
「僕がやるよ」セトが言った。「泳ぎは得意だし、似た経験も何度かあったしね」
「あなた本当に何者なのよ……」大熊の時といい、只者じゃないとは思っていたけれど、これはもう生態調査の域を大きく超えている。
「危険じゃ。この池の水はもう奴の毒が混じっておる。触れ続ければおぬしも動けなくなるぞ」ウミガメさんが重苦しい声で言った。
「大丈夫だよ。すぐに戻って来る。それよりも、もっと人手がほしい。ヌシに糸を繋げられても、この人数じゃ引っ張り上げられないからね」
「わかったわ」私は頷いた。
「オイラも行くよ」とカキが言った。私は、「駄目よ」と彼に言う。
「私一人で大丈夫よ。それに何が起こるかわからないから、ここで誰か見張ってないといけないでしょ」
そう言うとカキは、「わかったよ」と頷いた。
「ワシの舟を使え」突然そう言って、ウミガメさんが立ちあがった。「生身で飛び込むのは危険じゃ。近くまでなら、ワシの舟で連れて行ってやれる」
それを聞いたセトは、少し笑った。「それじゃあ頼むよ」
そして私たちは、それぞれ行動を開始した。急いでウミガメさんの舟を池まで運んだ。セトが乗り込み、ウミガメさんが先導する。
「じゃあ行ってくる」
「気を付けてね」私は二人にそう言って、急いで村の人達を呼びに向かった。
事情を話すと村の人達はすぐには答えてくれなかった。むしろ混乱した様子で私に言った。
「じゃあ村長は、私たちのことよりもその魚の方が大事だったっていうの⁉ 本当はすぐに戻れたのに、その魚のせいで私たちは元の村に戻れなかったの⁉」
戸惑うのも無理はなかった。それが真実だったとしても、簡単に受け入れられるわけがない。けれどウミガメさんの話を聞いた後だと、簡単に選べるはずがなかったと思えた。
「ヌシは、皆さんと同じ、ウミガメさんにとって大切な家族の一人だったんだと思います」
小さい頃から、最も長く一緒に過ごした子供のような存在だったなら、それがたとえ言葉の通じない生き物でも、簡単に見捨てられるわけがないと思った。
彼もきっと、同じ気持ちで私にそう言ったんだと思う。私は、まだあの二人のことをよく知らないから。彼が自分から話してくれるのを待っているけど、でもそれをずっと知らないままあの二人の関係を否定するのは、やっぱり違うと思うから。
「お願いします。助けてください! 家族を……」私は必死に頭を下げた。
すると肩に、温かい感触が伝わってきて、顔を上げるとナツメさんが、こっちを見つめていた。
「悪かったね。うちの村の事情に巻き込んじまって。余計なものまで背負わせてたみたいだ」
「ナツメさん……」
「関係が無いわけがないさ。あの人は、私たちの家族なんだ。だからあの人が大事しているあの魚も、私たちの家族に変わりない。むしろ目を逸らしていた私たちに原因はある、良く知りもしないで邪魔者扱いしていた私たちにこそね」
ナツメさんがみんなを説得してくれたおかげて、私たちは全員で池に向かった。臭気はさらに遠くまで広がって、池の近くまでくると眩暈や立ちくらみで立っていられない人が何人か現れた。
「カキ! セトは?」私は糸を取り付けた樹の場所まで向かった。糸は途切れておらず、その先はピンと張った状態で池の底に沈んでいた。
「うまくいったのね!」私はカキにそう言った。
けれどカキはこっちを振り向きもせず、目を見開いたままじっと池の方を見つめて言った。
「セト兄ちゃんが、池に潜ったまま帰ってこないんだ」




