飢餓の理由
次の日、村長のウミガメさんに話を聞きに行こうと私はセトに提案した。
すると彼は、「わかった」と小さく頷いた。
会う前にヌシの状況が知りたいとセトが言ったので、私たちはヌシのいる池へと向かった。
「……何この臭い」
突然、生き物の腐ったような臭いがしてきて、私は思わず顔をしかめた。池の方に目を向けると、カキが長い木の棒を持って立っていた。池の中に木の棒を入れてかき混ぜるようにすると、さらに臭いが強まった気がする。
「もうダメ、吐きそう……」その場に膝をつくと、セトが平然と池に向かってカキに話しかけた。
「それ、何やってるの」
「魚の死骸を取ってるんだよ」
そう言って、カキは慣れた手つきで棒を回して水をかき混ぜる。すると水面に魚が浮かんできた。
「どうしてこんな……」
「水に問題があるのかな」セトがしゃがみ込んで池の水を掬い上げる。私は慌ててその手を叩いた。
「どうしてそんな危ない真似できるのよ。本当に毒だったらどうするの?」
「確かめなきゃ、何もわからないからさ」そう言って、彼は再び水を掬い取った。少しでいいだろうに、彼は両手の水を全部飲み干した。
「……味は普通だね」平然とそう答える。「臭いは少しするけど」
「オイラもたまに飲むけど、今日みたいな日に自分から飲む人初めてみたよ」
カキは驚いた顔でセトを見た。
「ほら、やっぱり危険なんじゃない」言うと、セトは首を振った。
「水じゃないよ」
その理由を問い質しても、彼は答えなかった。ただ臭いのする日としない日があり、臭いのする日はこうして魚が浮かんできて異臭がするため、取り除いてまとめて焼いてしまうらしい。
「食べはしないのよね」
「うん、土に埋めるんだ。今までそうしてきたよ」
それが正しい方法なのかはわからないらしい。けれどそれを続けて今まで問題が起こらなかったのだから、今はこれが最善の方法なのは間違いなかった。
「臭いの原因は何なのかしら」
「それは間違いなくこの魚たちだろうね」セトが言った。カキの側の鳥の巣のように枝が組まれた特製の籠の中に魚の死骸は入れられていた。近づくと、立っていられないくらいの強烈な臭いが全身に駆け巡るように広がった。
「死んだ生き物をそのままにしてると、腐って虫が寄ってくるんだ」
「知ってるわよそんなこと。だから、どうして魚が死んだのよ」
彼は答えを知っていると思った。教えてくれないのは、それを私に気づいてほしいからだろうか。
するとそこへ足音が近づいてきて、その声に私たちは振り返った。
「まったく酷い臭いじゃの。ちゃんと掃除はしておるのか?」
鼻をつまみながら現れたウミガメさんは、魚の入った籠を見つめて、驚きの行動に出た。
ひょいっと魚を持ち上げると、それをそのまま口の中に運んだ。直後に「うおぇっぷ」と吐き気を催したような仕草を見せる。
あまりに衝撃的な光景に、私は言葉を失っていた。平静を取り戻すと、「なにやってるんですか!」とウミガメさんに駆け寄った。「今すぐ吐き出してください!」
「もう呑み込んじまったよ……」舌を出してウミガメさんは言う。「平気じゃよ。魚の死骸なんか昔もっとたくさん食ってきた。おぬしらは知らんじゃろうが、その昔この村はそれはもう大変な食料不足でのう……」
「けどそれ、毒だよ。村長さんは毒を食べたんだ」セトが、真剣な眼差しでウミガメさんの方を見た。「知らないなら仕方ないけど、そんなはずない。じゃなきゃ、魚を取り除くなんてこと、カキにさせなかったはずだ」
するとウミガメさんは、にっこりと笑って言った。「賢い子じゃの。いや、それだけではないか。なら、言わなくともわかってくれるじゃろう?」
「わからないよ」セトは首を振った。「僕には、おじいさんのしたいことが少しもわからない」
ウミガメさんの目の奥が色を失う。
「ねえ、どうしたのよ。何があったっていうの?」訊ねても、セトは答えなかった。代わりに答えたのは、ウミガメさんだった。
「ワシも、もうすぐ死ぬからの。一生の最期くらい、好きにしなせてほしいと思っただけじゃよ」
「毒で苦しんで死ぬ人生なんて、僕は嫌だ」セトははっきりと言った。そんなのは、誰だって同じだろう。苦しみながら死ぬなんて、絶対に嫌だ。
「ヌシは、病気なんでしょ」セトが、ぽつりと言った。「たぶん、相当前から」
ウミガメさんは、一拍も置かずに頷いた。「村の者たちには黙っておったがな。いや、気づいておる者も何人かいるだろう」
「病気?」訊ねるとセトが頷いた。
「どんな病気かはわからないよ。でも、食べたものを呑み込めずに吐き出してしまうくらい蝕まれているんだとしたら、もう長くない。今日明日そうなっても、何も不思議じゃないよ」
セトの声は、緊張感を帯びていた。けれど彼が普段見せないような険しい表情をしているのは、それだけが理由じゃない気がした。
なぜなら、彼はほんの少しだけ、怒っているように見えた。
「村は、どうなるんですか」
「そんなものワシがいなくたって、どうとでもなる。現にいま、村は機能しておる。村長なんてものは、ただの飾りじゃ」
「村の人達は、そんな風に思ってませんよ」私は言った。「みんな、ウミガメさんに付いていくって言ってました」
「……やはり、引っ越しをせねばな」ウミガメさんは力強く言った。「ワシなんかがおらんと駄目なようではだめなのだ。村を守ることは、ワシの決定に従うことではない。ワシは、村を守るためにここに住むことを決めたのではない」
ウミガメさんは、ついにそのことを語った。それは、ウミミノ村に起きたある悲惨な出来事だった。
「ワシらは、望んでこの地に来たのではない。逃れてきたのだ。生きるために」
海という言葉を、聞いたのはそれが二度目だった。一度目は子どもの頃で、勇者が海を渡って世界を旅したという話を楽しそうに語っていた光景を覚えている。
ただ見たことはないので、想像するだけだった。村を見渡せるくらい広い平原よりもずっと広くて遠いのだろうか。海は澄んだ青色をしているらしい。それは、どのくらい綺麗なんだろう。海にまつわる話は、聞けば聞くほど謎めいていた。
「海の魚は、種類が多く、中には食べられない魚も多くいた。なのでワシらは、アオマスという魚だけを長い間を獲っておった。だが突然、村人が倒れだした。ワシらの主食はアオマスだけだった。原因はそれしか考えられんかった」
「原因って?」セトが訊ねる。
「アオマスということ以外わからぬ。何かの病気だとは思うが、何しろそれまで全くなかった出来事だ。村は大混乱に陥り、死傷者も出た」
「それで村を離れることになったんですか」私は訊ねた。
ウミガメさんは、いや、と首を振った。「村を離れざるを得なくなったのは、別の理由からじゃ。病気が流行ってからというもの、ワシらは漁に出続けた。何しろ他に食べられる魚を知らんかったからな。腹を下しても、生きるためには取るしかなかった。普段よりも長く焼いたり、皮をはいで身だけにしたりもしたが、効果はなかった」
話を聞いているだけでも、私は背筋が凍ってくる気がした。
「じゃがある時から、そのアオマスでさえ全くとれんようになった。網を広げても、一匹もかからぬ。じゃがワシは、漁師として最低かもしれんがそれを嬉しいと思ってしまったんじゃ。村を守るための行動であっても、結果的に村人を苦しめることにしかつながっておらんかった。そんな非道をいつまで強いてくるのだと、心が折れかけておった」
「じゃあ村を離れたきっかけって……」
「食料不足ということじゃな。やむを得んと言うほかない。それまで、海ならばともかく、陸に移り住むなんてことは考えられんかった」
「でもそうしないと生きていけなかった」
「そういうことじゃ」ウミガメさんは頷いた。「結果的にな。村人にはそう話しておる」
それは、真実は違っていると言っているようなものだった。
「もうわかっておると思うが、あの飢餓は偶然ではない。食べられておったんじゃよ、ヌシにな。それもたった数日じゃ。数日でやつは、この海域にいるアオマスを全て平らげてしまいおった」
今でも鮮明に思い出せると、ウミガメさんは目を大きく開いて話した。
「そう、それが原因じゃ。ヌシの成長が突然止まったのは。あれ以来、ヌシは何も食べんようになってしまった。村を離れるとき、ワシはヌシも一緒に連れていくことを決めた」
すると何かが地面に落ちる音がして、みるとカキが手を震わせていた。
「なのに……オイラたちは、ヌシを邪魔者扱いしてきたんだ……。何も知らないで」
「そうではない。これはもう何十年も前の話じゃ。おそらくもう、病気は治まっておる。じゃがワシは、動けなくなったヌシを放っておけんかったんじゃ。元の場所に戻れる時期になっても、なかなかその決心がつかんかった。そしてずるずると年月が経ち、とうとうこんな歳になってしまった」
ウミガメさんは、本当に済まない事をしたと項垂れた。「ワシだけ残っていれば、こうはならんかった」
「それは違うよ」セトが首を振った。「おじいさんが村長だったからじゃない。それだけの理由で村の人達は付いてきたんじゃないと思うよ」
その理由を、彼は具体的に言わなかった。言わなくてもわかるというような、言葉の意志がそこにあるような気がした。
「ふん、村人でもないくせして、随分とわかった口をききおる」
「似た者同士だよ。認めたくないけど。けど僕は、おじいさんみたいにはなりたくないと思うよ」
似た臭いを感じるというのは、私にもわかる気がした。主に性格やその行動の面で二人には共通点が多い。
けれど唯一違う点があるとすれば、それはきっと、彼が怒った理由に関係している。
「ふん、言いおるな。じゃが、その通りだ」ふっと笑みを浮かべると、ウミガメさんはそのまま地面に倒れた。私たちが駆けつけると、か細い声で言った。
「大丈夫じゃよ。このくらいでは死なん。じゃが間に合わんかったか……」
すると後ろの方で水飛沫があがり、振り返ると、巨大な山が立ちはだかったみたいに、影が目の前を遮っていた。
「これは……」セトが小さな声で言った。「たぶんもうすぐだ。もうすぐ、ヌシは死ぬ」




