唯一のもの
村を引っ越すなんて、私は聞いたことがない。村人は、生まれてから死ぬまでその村に居続けるのが普通で、私みたいに外に出るような例外はあっても、村全体が住む場所を変えるなんて信じられなかった。
けれど、ナツメさんをはじめ、村の女の人たちはみんなそれを受け入れている。
不思議な感じだった。
「えっと、それは……一時的に移動するってことですか」
「おそらく違うわ。ここにはもう帰ってこない。村長も、たぶんわかってるんじゃないかしら。もう限界だって」
何が限界なのだろうと私は思ったけれど、その答えはすぐにわかった。
やはりナツメさんたちは、ここの生活に満足していないのだ。たった一つの調味料でさえ手に入らない山奥の森。そんな閉ざされた空間での生活を強いられる過酷さを、私はまだ全然知らなかった。
「いつ、引っ越しするんですか」
「さあね、それは村長が決めることよ。ここに住むって決めたのも、あの人の判断らしいし。私たちはただついていくだけ」
他の人も同じ気持ちだった。けれど私も、村にいたらその取り決めに従っていたと思う。
みんなと離れるのは嫌だし、それに、村を離れて一人で生きていくなんて、まず想像もしなかった。
だから私の今の感覚は、話してもきっと理解されない。この人たちにはこの人たちの生き方があって、それを否定する権利なんて、私にはないのだから。
「村を引っ越すのって、これが初めてじゃないんですか?」
いいえ、とナツメさんたちは首を振った。「親の頃に一度あったみたい。それより前は知らないけど」
どれくらいの期間で引っ越しを繰り返していたのか。ここより前に住んでいた場所を聞いたけれど、誰も知らなかった。
けれど村長は知っている。やっぱり村長に聞く以外に方法はないのかもしれない。
「セト、遅いわね……」
どこまでハムを探しに行っているのか。それほどの仲が彼らにあるとは思えない。
彼は結局、夜中になっても帰ってはこなかった。
***
夜の森は、少し苦手だ。虫の鳴き声がうるさいし、時折風が吹くと、獣が襲ってきたんじゃないかと思って全然落ち着かない。
調味料のお礼にとナツメさんたちに作ってもらった草のベッドは、予想以上に心地よかった。誰も寝静まったなかで静かに星空を見つめている時は、少しだけ気持ちが安らぐ。
ずっとこのまま、何事もないまま無事に毎日を過ごしていくことが幸せだろうと思っていた。けれどそれは私の幸せじゃなくて、村が幸せになることだった。
私はナツメさんや、他の人達の話を聞いた。彼女たちの幸せは、子どもや家族と一緒に居られることだった。村が変わっても、そこに住む人は前と変わらない。だから自分たちはそこで生きていけるのだと力強く語っていた。
それが、村人としての彼女たちの幸せ。
「……眠れない」
周りに獣の気配はしないけれど、私は立ち上がって歩いた。
この先の旅は、彼がいないと成立しない。行き先も何も聞いていないけれど、彼と一緒ならばどこかには辿り着けるだろうと思った。彼は私がいなくても大丈夫だろうけれど、その逆はきっとない。
村の人達は、寝床は誰も適当に作っていると言っていたけれど、だいたい三つくらいの木をまたいで散らばっているのは、偶然とは思えなかった。
村から離れた森の中を歩いて、私は少しずつ声を出していく。獣に気づかれる怖さがあったから、大声で叫んだりはしなかった。
「セートー」
周囲に目を配り、光るものの類を探す。月明りでも、この暗さならば見つけられないはずがなかった。
本当に山奥にある場所なんだと、この時私は改めて感じた。人の気配、動物の波形すらろくに感じない。昼間森を女の人たちが歩き回れていたのもきっとこのためだ。
だからこそ男の人たちは川を下って魚を獲りにいくしかない。そんな理由からも、やっぱりここは引っ越すべきなのかもしれない。
獣がいないと気づいてからは、少し大きな声も出せるようになった。大胆に草むらを走ったり、木を揺らして音を立てても誰も何も近づいてこない。
「ホントに大丈夫なんでしょうね……」
少し心配になり、私は走りながら彼の名前を叫んだ。ここまで大声でも反応がないのは、たんにこの森が広いためか、それとも……。
私は、昼間に訪れた泉に向かった。すると昼間にはなかった、黄色く光るものが無数にあたりに漂っている。よくみると羽の生えた虫で、体の一部が光っているだけだった。
「――セト!」
光る虫が密集してそこだけとても強く輝いている場所に、人が倒れていた。姿からすぐに彼だとわかって駆け付ける。肩を揺らすとすぐに目を覚ました。
「……ミーナ?」
「そうよ、こんなとこで何してたのよ⁉」
「ごめん……。ハムを探して歩いてたら、お腹が減って動けなくなって」
彼はゆっくりと起き上がった。「何か食べ物ある?」
「まったく……」私は夕食の残りをパンで包んだものを彼に渡した。
「大事に食べてよね。それが最後なんだから」
「うん、これ美味しいね」
よほどお腹が空いたのか、セトは大口を開けてかぶりついた。
「じゃあ、まだ見つかってないのね」ぽつりと言うと、彼は頷いて答えた。
「食べ物を探しに行くって言っていなくなることは何度かあったよ。けどすぐに帰ってきたし、今回みたいに、何も言わないでいなくなるのは初めてだったんだ」
「私のせいよね……」それでこれほど彼が動揺してしまうとは思わなかった。「ごめんなさい」
「いいよ、あれはハムが悪かったと思うし」セトはそう言った。
彼は、彼らは今までそうやって生きてきたらしい。彼らは、生きるために手段を選んだりはしなかった。
「人のものを盗ったの?」
すると彼は頷いた。
「そこに食べ物があればそれは食べていいものだと思ってた。食べ物が木の上にぶら下がっているか、籠の中に入っているかの違いでしかないってね」
それが誰かのものであるという認識が彼らには乏しいのかもしれない。
すると彼は、続けてあることを打ち明けた。
「ミーナ、君の村でも同じことをしたよ。お腹が減っていたから、それだけの理由で僕たちは食べたんだ」
思い当たる節は確かにある。彼に出会うまえに、そのような出来事があった。犯人は捕まっていなかったし、思い返せば腹も立つけれど、彼の話を聞いていると、これ以上責める気にはなれなかった。
「もういいわよ。あなたたち、村で暮らしたこともなさそうだし。私がお昼作ってあげようかって言ったときも、断ってたものね」
彼らにとって、食べ物は与えられるものじゃなく、自分たちで見つけて取るという感覚なのだろう。だから、奪うという行為もその意味も分からなかったのだと思えば、怒っても仕方のないことだと諦めもつく。
「でも、もうしないわよね?」少し強めに言うと、彼は小さく頷いた。噛み締めるようにパンを頬張って、ぽつりと呟く。
「ハムにも、食べさせてあげたいな……」
「どうしてそんなに彼に甘いのよ」
「ハムは、美味しいものが好きだから」彼は少し微笑んだ。
「答えになってないわよ。それはあなたのものでしょ。それに彼、あなたが死んでも構わないって言ってたのよ」
そんな相手に優しくする理由なんてどこにあるのだろうか。疑問に思っていると、彼はこっちを向いて言った。
「ハムは、僕のたった一人の家族なんだ」
その言葉の意味が、この時の私は理解できなかった。ただ、セトは優しさでそうしているわけじゃないのだと、彼の表情を見てなんとなく理解した。
「相手はそう思ってなくても?」
この時、いじわるなことを言ってしまったと思う。だからこれは私なりの抵抗だったのかもしれない。
「それでもいいよ」セトは最後のひと口を見つめて、ポケットの中に入れた。




