ヌシについて
流されて付いてきてしまったけれど、本当にこれでよかったのだろうか。
セトがなぜかすごく興味津々だから何も言わないけれど、私は特にヌシのことに興味があるわけじゃなかった。
カキがヌシを釣りたいと言ったからそれに協力したいと思って、そのためにヌシについて調べる必要があるということになった。無理やりじゃない、たぶん。
いまは、そう思うことにした。
「村長さんは村のどのあたりにいるの?」セトが訊ねた。
「家があるんだ」とカキは歩きながら指をさした。しばらく歩くと小さな小屋がぽつりと現れて、「ここだよ」とカキが言った。……家だろうか。
扉をノックして現れたのは若い男の人で、私たちを見ると目を細めて言った。
「どういうことだ、これは」少し怒気を含んだ声が広がる。私は委縮して言葉を発せなかった。代わりにセトが、男の人の前に立って事情を話す。
「こんにちは。ちょっと村長さんに会いたくて、今いますか?」
「今はいない。いつものところだ」
「いつものところ?」
セトが首を傾げると、男の人は目線をカキに向けた。
「わかるな?」と一言だけいうと、カキは頷いて踵を返した。
「居場所はあいつが知っている。会いたいなら付いて行け」それだけ言って、男の人はゆっくりと扉を閉めた。
「なんか嫌われてる?」
「そういうんじゃないと思うよ」セトが首を振った。
村に村長がいないなんておかしい。やっぱりあそこは村なんかじゃないのかもしれない。
何かの理由で追い出されたか、そうしないといけない理由があったんじゃないかと思う。
「ここだよ」
周囲の草木が無くなって、私たちは広い場所に出た。
そこは森の中にあるとは思えないくらい大きな泉で、山の影がうっすらと見えるさらにずっと向こうまで続いていた。
水面には小さな影が移り、気まぐれに飛び跳ねて水飛沫を飛び散らせた。
「きれいな水だ」セトが水面の前にしゃがみ込んで言った。両手ですくいあげ口に含むと、いきなり顔を水面に沈めた。
「ちょっと、何やってんの⁉」私は慌てて駆けつけた。また同じことになるかもしれないと、今度は後ろに引っ張る。けれど動かない。
「ちょっと、なんで動かないのよ⁉」セトはまるで地面と一体になったみたいにびくともしなかった。彼が動いたのは、水面から顔を上げたときだった。
「この水、すごくおいしい!」
何もなかったみたいに、彼は無邪気に言った。
「だからっていきなり顔つっこまないでよ……。下手したら死んでたわよ」
彼の行動は、いつも私の予想を超える。もしこれが冒険の普通だというなら、私はとっくの昔に死んでいたかもしれない。
「ほっほっほ。この泉の美しさがわかる者がもう一人現れたか」
泉にそった地面からわずかに生えた草を踏みしめる音を響かせながら一人の老人が現れた。
「めでたいことじゃのう」白い髭を威厳のようにたくわえて、口元は全く見えない。
「おじいさんが、村長さんですか?」セトが振り返って訊ねた。
「いかにも、ワシがこのウミミノ村の村長のウミガメである」ウミガメさんは眉を精一杯吊り上げて言った。そしてちらりと別の方を見て、ぽつりと呟く。
「カキが連れて来たのか」
するとカキがウミガメさんの前に走ってきて叫んだ。
「村長! オイラ早くヌシを釣りたいんだ。釣り方を教えてよ!」
「それは何度も断ったじゃろう。カキよ、大きな獲物を釣れるからよい漁師なのではない」
「何回もきいたよ……けど父ちゃんも誰も舟に乗せてくれないんだ」
「ならばここで釣りでもしていればよかろう。それも止められておるのか?」
「いやだよ! だって小さな魚なんか捕まえても一人前だなんて思われない。ヌシみたいなでっかい獲物じゃないと、子どものオイラじゃ駄目なんだ!」
この光景を何度か見たことがある。でもこの目線じゃない。私は向こう側で、大人として理由をつけて諦めさせるのが役目だった。そうすることで、危険から子どもたちを守っているつもりだった。
代わりに失ったものの大切さにも気づけずに。
「あの、少しだけ。話を聞いてあげてもらえませんか?」
私は、そう声をかけた。ウミガメさんが私の方を見て、小さく頷く。
「そうか、ならば、少し場所を変えよう。おぬしらもそのつもりで訊ねてきたのだろう?」
案内されたのは、泉に造られたちょっとした秘密基地のような場所だった。
泉が一望できるところにぽつりと置かれたゆりかご椅子に腰かけて、ウミガメさんは長い息を吐いた。
「最近は少し歩いただけでも腰にくる。これならゆっくり話もできるだろう」
落ち着いた様子でウミガメさんは言った。
「何が知りたいんだね」ウミガメさんは、私たちの方を見て言った。
「ヌシのこと」セトが答えた。「あの生き物は、いったい何なんですか?」
「何者か……。それは、ワシもよくわからんよ。あやつは突然現れて、この村に棲みついた。どこから来たのか、元々この森にいたのかもはっきりとせん」
「そんなわけない!」セトが叫んだ。「あれは、ここの生き物なんかじゃない!」
「セト、落ち着いて」
私は彼の肩に手を触れて言った。
「言わずとも、確信を持っているならば、答える必要もなかろう」
「どうして、あの生き物はあの池を出ようとしないんですか」
私は言った。「そんなの、一人じゃ無理だからでしょ。あの池は、どこともつながってないし」
いや、とセトは首を振った。「入り口はあったよ。水中で見たんだ。あそこからなら、たぶん出られる。それに、あんなに大きな体なのに、僕のこと、追いかけようともしなかった」
あまりにも異様だったと、セトはウミガメさんに詰め寄った。「教えてください。あの生き物は、何なんですか」
セトの気迫に負けたのか、ウミガメさんはぽつりと答えた。「いいだろう」
***
ワシがヌシを初めて目にしたのは、あやつがまだほんの小さいときだった。その頃、ワシは村の漁師として一人で漁に出ていた。当時は今よりたくさん魚が獲れたものでな、網一杯に魚を捕まえてワシも大いに喜んだ。
魚の数を数えていると、ふと、網の中に岩のようなものを見つけたんじゃ。それが、まだ今の百分の一の大きさにも満たないヌシじゃった。明らかに他の魚とは違っておったよ。色合いも泥のようで、少し噛んでも背中が貝殻のように硬くてとても食えたものじゃなかった。
食えないものはもとに返すのが村のルールだったから、ワシは渋々あやつを返すことにした。運命のようなものを感じたから、その時は苦しかったが、また会えるような気がしておった。
そして次の日、いつものように漁に向かうと、本当に会うことができた。見るとあやつは一回りほど大きくなっていたように見えた。それでも、まだ小さかったが。
何度も捕まえてしまうものだから、ワシはだんだんとあやつの好物がわかるようになっていった。そして獲った獲物の一部を、あやつに分けてやった。驚いたことに、あやつはワシの与えた魚をすぐに食べ切りおった。よっぽど腹を空かせていたのだろうと思った。
数年が経つと、あやつはワシが想像していたよりもずっと大きく、たくましい姿になっておった。他の魚とは比べ物にならん、圧倒的な「捕食者」としての威厳に満ち溢れていた。
「その時はすでに、ワシもあやつがこの海域に棲む生き物ではないと悟ってはいたが、あやつは離れようとはせんかった。むしろこれまで以上に、ワシらとあやつの結びつきは強くなっていったんじゃ」
ウミガメさんは、当時を懐かしむような声色で言った。その先であった出来事が、私の目にも浮かんできた。この村は、ヌシと一緒にその歴史を跨いできたのだ。
そう思えば、ウミガメさんが言っていたことも少し理解できた。あれは、ヌシを守るための言葉だったのだと。
ならば、カキには申し訳ないけれど、ウミガメさんの言う通り、ヌシは捕まえるわけにはいかない。このままそっと、その時が来るまで、そっとしてあげるべきだ。
「でも村のみんなは……ヌシのことを邪魔者だって思ってるんだよ!」




