黒い影
その日は、暴風雨が吹き荒れる夜だった。私は船の甲板で舵を握り、雨に打たれながら船を操っていた。乗組員たちも船の揺れに合わせて激しい動きをする中、山登りでもするかのように船内を移動していた。
これまでにも何度か嵐に遭遇したことはあったが、こんなにも大きく不規則な波の流れは初めてだった。まるで船に謎の引力がかかっているような感覚に襲われた。
そして、その感覚は現実となった。船はいつの間にか巨大な渦潮に巻き込まれていた。いつ現れたのか、無意識のうちにその渦に入り込んでしまったのか、私には分からなかった。
舵もまったく効かず、ただ船が沈むのを待つしかなかった。私はその時、自分の最期を悟った。
渦に吸い込まれる中、私は海の向こうに巨大な山々が無数にそびえ立っていることに気づいた。私たちの進路を阻むかのように巨大な壁が、突如として姿を現したのだ。
船員たちの中には、これが海の祟りだと騒ぐ者もいたが、私はそのような説明を信じることができなかった。この光景は、蜃気楼とも違うもので、まるで私たちが何か蠢く存在の巣に迷い込んでしまったかのような不安が心の中で渦巻いていたのだ。
しかし、気づくと、私たちはいつの間にか渦から抜け出していた。先ほどまであった巨大な渦が、突如として消えていたのだ。
海の気まぐれなのか、それとも摩訶不思議な出来事なのか。どちらだったとしても、これ以上命の危機を感じたことはない。
船員たちと喜びを分かち合い、私たちは夜明けを迎えた。
船長、あれを見てくださいと見張りの船員が叫んだ。海の上に、無数の黒い岩が浮かんで見えた。しかし、よく見ると、それは岩ではなかった。
魚の鱗、と表現するにはあまりにも巨大だった。岩礁と言われても不思議に思えない。そして、その下にはさらに大きな影が浮かび、私たちの船の周りを囲んでいた。
誰もが驚愕し、腰を抜かした。その巨大な影は一体だけではなかったのだ。無数の巨大な古代魚が、私たちの船の周りで漂っているように見えた。
私は思った。もし彼らが全身を海面から出せば、それだけで波が起こるだろう。彼らの存在は壮大で、見間違えることのないものだった。
魚の群れはゆっくりと海面を北上していった。幸いにも、私たちの航路とは反対方向だったが、この時だけは本当に死を覚悟した。
(【海洋冒険家 ニック・リリーの遺失大陸:未知の地への航海】より)
***
木漏れ日が辺りを照らす森の中を私たちは歩いていた。村を出て数日が経ち、想像していた冒険と現実の姿に境目が無くなってきている。
思っていたほど危険には巡りあわなかった。獣に襲われることも、毒に当たることもない。後者は、彼らが何度か味見を試みたのを私が止めていなければ起こり得たかもしれないけれど。
ともあれ、冒険は順調に進んでいた。少し物足りないくらいに。
「ねえ、ちょっと」声をかけると彼――セトは振り返った。「何?」
「昨日からずーっと森の中歩いてるのに、生き物をほとんど見かけないんだけど」
大丈夫なの、と不満げに言うと、彼は、頷いて答えた。
「ちょうどいま、新しい獣避けを試してるところなんだ」
「そうなの?」私は訊ねた。鼻をすんとしても、特に変な臭いは感じなかった。
「獣避けっていうと、腐らせた木の実を畑にまいて生き物は現れなくなったけど、野菜にも臭いがうつって結局家畜のエサになった話があったわね」
それに比べたら彼の獣避けは無臭もいいところだ。こんなもので本当に効果があるのか怪しいけれど、実際に私たちはいま、一度も生き物に出遭っていない。
「臭いは抑えてあるんだ」彼はぽつりと言った。
私は立ち止まった。彼は意図してそう言ったとは思わない。けれど私はそのとき、気づいてしまった。
私は右手を鼻に近づけた。臭いがしない。というより、もうずっとこのままだった。
いくら泥だらけで土まみれでも、村で身体を洗わなかった日はなかった。
生き物は臭いにも敏感だと子どものころ母に教えられた。
冒険の日々に浮かれて、忘れていたとしか考えられなかった。
「ねえ、この辺に水場はないの?」慌てて訊ねると、彼は森のある方を指さした。
それは私たちの進んでいる方向ではなかったけれど、私は一刻も早く身体を洗いたかった。
教えられた通りの道を進むと、水の音が聞こえてきた。
「……え?」
それは確かに水場だった。けれど私が想像していたものとは大きく違っていた。
私の目のまえに現れたその池は、森の中にあるにしてはなかなか大きかった。
なによりもその色が、池の深さと汚さを表していて、さすがにここで身体は洗えないと私は思った。
せめて両腕だけでもと思い、右腕を水の中に入れた。感触は普通だったけれど、水の底に触れることもなかった。
手を引っ張り上げて臭いを嗅ぐと、それほど嫌な感じじゃない。
洗ってない方の臭いを嗅いでも、違いはわからなかった。
「だから言ったじゃないか、臭いは抑えてあるって」
背後から彼が現れて、振り返ると肩に小さな生き物の乗せて立っていた。
「すぐ戻るから待っててって言ったのに……」ぼそりと言うと彼は答えた。
「心配なんだから仕方ないじゃないか」
「私は、守られるような存在じゃないわ」そう言い返そうと思ったけれど、やめた。なぜなら私は、彼に一度命を救われている。だから今度も守ってもらおうなんて思っていない。
「あなたたちも体洗ったら? 臭いわよ」
「え、そうかな」
彼はしゃがみ込んで、水面を覗き込んだ。
私と同じように、手を伸ばして深さを確かめる。
「ちょっと、そんなに体を伸ばしたら危ないわよ。どこまで深いかわからないのに……」
「だい、じょうぶ……」
彼は子どものような笑顔を浮かべた。けれど直後、「あっ」という声をあげて彼は足を滑らせた。
一瞬で身体を池に飲み込まれてしまう。
「た、大変……! 助けないと」私は立って服を脱ごうとした。けれど、足が竦んで動けなかった。
「これであいつもくたばったかな」横から信じられない言葉が聞こえて、振り返るとさっきまで彼の肩に乗っていた生き物がじっと水面を見つめていた。
「あ、あなた……」
「あなたじゃねえ、ハム様だ」
何にも動じていない態度でその生き物――ハムは言った。
「あなた、心配じゃないの?」気がつくと私は彼にそう訊ねていた。
「何がだ。落ちたのもなにも全部アイツが勝手にやったことじゃねえか。んなことより、てめえはなんで震えてんだ? あいつと何のカンケイもねえだろ」
何故? どうして、私は震えているだろう。
そんなことはわかりきっていた。不安だったから。彼が死ぬことよりも、私は助けに入って自分が死んでしまうかもしれないことを恐れた。
けれどそれを口にすることは決してない。
「ふん、まあいいさ。どんなことになろうがオレ様の知ったこっちゃねえ」
すると突然、水の中から手が飛び出してきた。手は何度か地面に触れて、直後、大きな水飛沫が挙がって彼が目の前に現れる。
「セト、大丈夫⁉」
私は申し訳なさと恥ずかしさからすぐさま彼に駆け寄った。彼は頷いて、目の前のハムを見つめる。
「やあ、ハム。久しぶり」
「くたばりぞこないが……」
苦しみながらも笑顔を浮かべる彼と、悪態をつく生き物。どうしてこんな関係で今まで旅を続けてこられたのか、私にはまるで分らなかった。
「あっ、そうだ!」彼は私を見て言った。「何かいたんだよ、水の中に!」
水の中で意識を失いかけていたとき、その微かな生き物の影を見て彼は意識を取り戻したらしい。
「何かって、なに?」
「わからないよ。けどすごく大きかった。それに、見たこともない形だった!」
彼は興奮気味に言った。死にかけて気分がおかしくなっているのか。少し、怖い。
とにかく今は無事でいられたことを喜ぶべきだと、彼を諭そうとしたときだった。
突然、池の方から大きな水飛沫が起こった。そしてそれが消えるど同時、何か巨大な影が池に飛び込んでいくのが見えた気がした。
「今の……見た?」彼が呆然としながら私に訊ねる。
私は頷いたけれど、姿まではよく見えなかった。
「ねえ、あれって本当に生き物なの?」
あんなに大きな生き物は、生まれて彼一度も見たことが無い。
「ふねみたいだったね」と彼はなおも嬉し気だった。
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