どうも、悪役令嬢の幽霊です
※弟と表記されていますが義弟です。
暖かなベッドも、柔らかな絨毯もない。あるのは冷たい石床と木でできた硬い寝台だけ。
心地良い風が吹き込み、白いカーテンで彩られた窓の代わりは、手の届かない位置にある鉄格子がはめらられた窓。
温かい食事も無く、目の前に置かれているのは硬いパンだけ。フォークも何もついていないそれをただ無心に口に運ぶ。
唐突に襲ってきた息苦しさに、持っていたパンを落とす。
毒がもられたのだと判断して、苦痛に誘われるまま意識を手放した。
それは温かい夢だった。愛してくれる両親に、何不自由のない生活。
目まぐるしく場面が何度も切り替わり、理解した。
これは前世の記憶だ。
そして前世の私は、今世の私を知っていた。物語の中に出る登場人物として。
主人公の恋敵として登場した私は、最後には高い塔に幽閉された。
なるほど、私は悪役令嬢というもので、悲惨な末路を辿る運命にあったのか。
そう理解した時私は――
――思い出すの遅すぎ!!
と、声にならない叫び声をあげた。
ぱっちりと開いた私の目に飛び込んできたのは一面の青。
目を瞬かせながら周囲を見回して、自分が間違いなく死んだということを思い知った。
眼下に広がるのは色とりどりの屋根。
私は空中に浮いていた――幽霊として。
こういうのって幼少期に思い出して破滅回避したり、そうじゃなくても思い出した瞬間救いの手がくるものなんじゃないのか。
はい、死にました! って時に思い出して、何になるっていうの。
強くてニューゲームってこともない、完全に幽霊になってからじゃ、手遅れにも程がある。
それともこれはあれか。回避する方法あったけど、残念でしたねーっていう神様からの嫌がらせか。
ふよふよと浮いた状態で頭を抱える。苦悩している間にも飛んでいる鳥が何度か私を通り抜けていった。
触れることも出来ない、紛うことなく、幽霊だ。
死霊や骸骨兵士だっているんだから、幽霊ぐらいいるよね、とどこか冷静に今の状況を判断している自分もいる。
魂だけの状態になったから、前世について知ることが出来たのかもしれない。それなら、私が辿るべき運命は最初からこれだったのだと、諦めがつく。
すでに三度日が昇った。空腹も眠気も感じないから、悩んでいるだけでいくらでも時間が経つ。
なったものは仕方ないし、この状態では足掻きようもない。
天からのお迎えもこない。空と地上の間を意味もなく浮いているのにも飽きた。
流石に私が死んだことは広まっているだろう。なにせ希代の悪女として幽閉されたのだから。
私よりも男爵令嬢をとった王子の様子を見に行くか、私を捕らえた騎士を見に行くか、男爵令嬢自身を見に行くか。
やはり一番に様子を見に行くべきは、我が家に養子としてやってきた、同じ年の弟のところだろう。
見慣れた屋敷なのに、上空から見ると違った感想を抱ける。薔薇が咲き誇る庭園は、今日も綺麗だ。遠目から眺める薔薇も悪くない。
幽閉されて以来、帰ってきていない。まあ、見張りがいたし、親からも見放されたから帰れるはずがないのだけど。
ちょっと感傷に浸っていたら、庭園に見知った顔が現れた。青みがかった黒髪の、私の弟だ。
白かった肌が以前にもまして青白く見える。ちゃんとご飯を食べているのだろうか。姉が罪人になってしまったから、口さがない人に何か言われたのかもしれない。
あるいは、男爵令嬢との恋に敗れたせいか。王子と取り合うなんて無謀だし、勝ち目なんて万に一つもないとわかっていただろうに。
罪人を出した家の子として呼ばれ、恋した相手には袖にされ、可哀相な弟に――原因の一つは私だけど――涙が湧いてくる。
ふと、弟が顔を上げ、ぎょっとしたように目を見開いた。
「なっ、は!? まっ」
可哀相な弟はショックで喋ることすらままならないのか。姉ちゃんが頭を撫でてあげよう。触れないけど。
形だけでもと伸ばした手は、弟が上体を思いっきり反らしたので空を切った。
「死んで尚この家を呪う気か」
忌々しげに睨まれて、首を傾げる。言葉どころか頭までも、と悲しくなったが、弟の目が完全に私をのいる場所を見ているのに気付いて、涙が引っ込んだ。
灰色の目には綺麗な空と屋敷を囲う塀が映っているだけに見えるが、もしかしたら弟の脳には私が映っているのかもしれない。
幽霊って瞳に映らないんだ。死霊は映るのに、存在感の違いかな。
「お前のせいで、どれだけ苦労したと思っている! まだ怨み足りないというのか」
そんなつもりはないんだけど、と言おうとしたが、何の音も出なかった。
そりゃあそうか。実体がないんだから空気が振動するはずがない。
ならばと身振り手振りで怨んでませんよと表現する。
「なんだそれは、呪いの踊りか」
警戒するように後退られた。どうやら私にはジェスチャーの才能はないらしい。
そうしたら残る手段はテレパシーだ。実体がないのに、脳が認識しているなら、脳に直接語りかける事ならできるかもしれない。
――届けー届けー。
私の中に超能力の才能があるなら、今この瞬間に開花しろ、と気持ちを込めながら念じたら、弟が目を見開いた。
「何を届ける気だ! まさか、呪いの人形でも送りつけたというのか!」
弟の被害妄想が凄まじい。
――そんな事しないわよ。寧ろ死んでしがらみから解放されたから、気楽なぐらいだもの。
ついさっきまで苦悩していたことは無かったことにする。そんな事言っても、混乱するだけだろう。
「そうか、偽物か。なるほど、こうしてあの悪女の幻覚を見せて対応を見ようというのだな。ふん、その様な罠に俺がかかるわけないだろう。そもそも、そんな幻覚を見せられたところで、思うことなど何も無い!」
結構狼狽えていたように思うけど、流石義理とはいえ姉弟。数分前の出来事を忘れることには長けている。
――なんでそう思うのかよくわからないけど、本物よ。本物。
「あいつはそんな気安くはなかったからな。開口一番で、この私が幽霊になってまで会いに来たのだからひれ伏しなさい、と言うはずだ」
――言ったでしょう。しがらみが無くなったって。幽霊になってまでふんぞり返っても意味ないもの。
「その様な甘言に俺が騙されると思っているのか。あの悪女と育って十年の俺を、こんな稚拙な偽物でどうこうしようなどど片腹痛いわ!」
――最初の一年は仲良くしてたじゃないの。ずっといっしょにいるーって、そりゃあもう、可愛い事言ってくれたのに。私と偽物の区別もつかないんじゃあ、この家も父様の代で終わりかしら。
「その物言い、まさか本当に姉上なのか……?」
――最初からそう言ってるのに、しようのない子ねぇ。
だが、気安いというのなら、前世の記憶が混じったせいかもしれない。私自身はこれといって何も思わないが、庶民として生きた記憶が何らかの変化を及ぼしていても不思議ではない。
後はやはり、私の頑張りが全て無駄だったとわかって、気が抜けたせいもあるだろう。
「それで、何の用で化けて出た。まだやりたりないとでも」
─しがらみが無くなったといったでしょう。何度言わせれば気が済むのかしら。
弟は気の利かない男だ。恋に破れるのも当然と思うぐらいに。
――死んで、気付いたらこうなってたから様子を見に来ただけよ。
そう、それだけ。不躾だし、情緒も理解していない弟だけど、私にとっては可愛い弟だった。
だからちゃんと元気にしてるか気になったので、こうして会いに来たっていうのに。
「そう、か。本当に、死んだんだな」
――あなた、自分で化けて出たとか色々言ってたじゃない。死んだ事は知ってたのでしょう?
「知らされたが、そんなあっさり死ぬとは信じられなかっただけだ」
――私だって超合金でできてるわけじゃないから、殺されたらそりゃ死ぬわよ。
弟の目が極限まで見開かれる。考えてみたら超合金なんて言葉があるのは前世だけだった。
知らない単語が出てきたら驚くよね、ごめんごめん。
「……それで、何故今更様子なんて見に来たんだ。家がどうなってもいいと思ったから、行動を起こしたのだろう」
――そんな筈あるわけないじゃない。私はこの家のためになると思ったからしただけよ。
弟が言っているのは、私の男爵令嬢暗殺未遂の事だろう。
王子に言い寄っていた彼女を抹殺しようとしたら、うっかりその場に王子もいて巻き込んでしまい、謀反の罪が私に課せられた。
――でも、そうね。あれは失敗だったわ。
「姉上でも反省する事があるのか……」
――当たり前でしょう。ちゃんと一人の時を狙えばよかったし、私のせいだと足がつかない工夫をもっと凝らすべきだったわ。今思えば、早くしないとって焦ってしまっていたのね。
深々と溜息を零す。あれは杜撰な手だった。いつもの私なら絶対とらない悪手だったと、反省している。
「姉上は、それほどに殿下を好いていたのか」
――何言ってるのよ。あの方と婚姻を結ばないと困るのはこの家じゃない。
弟がきょとんとした阿呆面をぶら下げている。
――あなたが家督を継ぐから、私はこの家のためによりよい相手を見繕ったつもりよ。
弟が養子としてきた次の年に、私は弟が家を継ぐ事を知った。誰かに何か言われたわけではない。知ったのは偶然で、弟の学んでいる内容を耳にしただけ。
それが後継者にするための内容だということを察して、私は王子の婚約者になるために努力してきた。
「突然殿下の婚約者になったりしたし、殿下に相応しいようにと学んでいたから、傾倒しているものだとばかり……」
――養子であるあなたが家を継ぐだなんて、口さがない者が何を言うかわからないじゃない。だから誰も口を挟めない相手として殿下を選んだだけよ。それなら、私が婿を迎えて家を継がない理由になるでしょう。
弟が両手で顔を押さえてうめき始めた。どうしたのだろうかと視線を右往左往させていたら、指の隙間から睨まれた。
「そう、だな。確かに、誰も何も言えなかった。両親も俺も」
――十分な相手だったでしょう。だからあんな娘に奪われるわけにはいかなかったのよ。
「姉上は知らなかったようだけど、俺は元々婿になるためにこの家に来たんだ」
沈黙が落ちる。
「だけど、姉上が殿下を暴漢から守って、その時出来た傷が元で殿下の婚約者になった」
呆然としている私を無視して、話を続けようと沈黙を破った。
――ちょ、ちょっと待って。だって、お父様が今日からうちの子だよって言ってあなたを連れて来たじゃない。
「そりゃあ、婿として来たからな。将来的には義理の息子になるんだし、間違ってないだろう」
――紛らわしいわよ! じゃあ養子ってのはどうなるのよ。養子解消すれば、婚姻は出来るけど、最初から養子にする意味がないじゃない。
「俺が養子になったのは姉上が殿下の婚約者になってからだ。仕方ないから俺を養子にしてそのまま家を継がせようとしたってところだな」
――じゃ、じゃあ私のしてたことっって。
「全て無駄だったな」
声にならない叫び声をあげる。
勘違いで罪を犯して、この有様って、死んでも死にきれない。もう死んでるけど。
――そんな、暴漢を雇って傷まで負ったのに。
「あれも姉上の仕業だったのか!? 大怪我したと聞いてどれだけ心配したと思ってるんだ!」
家を出る私がこの家にために用意出来る婚姻相手として王子に目をつけて、暴漢に襲わせて――勿論この時は足がつかないようにした――それが全て、しなくて良かったと聞かされて、足元が崩れるような感覚に襲われる。
「六歳の子供がする事じゃないだろ……」
――それだけ必死だったのよ。あなたが問題なくこの家にいられるようにって。下手なところに嫁いだら、野心から何をするかわからないし……。
じゃあ、私はこの家を出る必要なんてなくて、王子を繋ぎ止めようと努力する必要もなかったということで。
「もっと早く話し合えばよかったな」
弟の手が私の頬に触れようとのばされたが、当然どこに触れることもなく空を切る。
何もかも手遅れだということを、私自身が物語っていた。
「本当に、死んだんだな……」
ぽつりと溢れた言葉に、体温を失っているはずの私の体が冷えていくような気がした。
――せ、せいせいしたでしょう。嫌いな私が死んで。
私の人生が無駄ではなかったと思いたくて憎まれ口をきく。
私が死んだことで弟の気が晴れたのだと、せめてそのぐらいの事は出来たのだと、縋るように弟を見つめる。
「想った相手が死んで喜ぶものなどいないだろう」
だけど、微かな希望はすぐに潰えた。
――だって、そんな、私の事を憎んでいたのでしょう。
そうだ、弟は私を嫌っているはずだ。
前世の記憶の中でも、弟は私に対する憎しみを語っていた。意地悪で、嫌味な女性だと。
「他の男を好いていると知って尚純粋に想い続けられるほど、俺は優しくないからな。殿下と釣り合うようにと努力している姉上を見続けた俺の気持ちがわかるか?」
口の端を持ち上げて自嘲するような弟を、私は何も言えずにただ見つめることしか出来なかった。
「最後にこうして意趣返し出来ただけでも良かったと思うべきか」
――男爵家のあの子は、どうなのよ。
意地悪な弟にやり返したくて、王子と取り合っていた相手のことを持ち出す。
私を好いていたとしても、それは過去の事で今は嫌っていたでしょうと、そう言うように。
「あれが殿下と結ばれたら、姉上はどうなる。俺のものにならなくても、せめて幸せになって欲しいと、自分の代わりに焦がれた相手と結ばれて欲しいと、そう思っていただけだ」
無駄だったけどな、と言いながら弟は乾いた笑いをこぼした。
――殿下との婚約が解消されたら、私を手に入れることが出来たでしょう。
「俺に心を向けない者を手に入れてどうする。虚しいだけだ」
――私は殿下に焦がれてなどいなかったわ。ただ都合が良いと、そう思っていただけよ。
「そうだな。そこが誤算だった。知っていたら、殿下を唆して早々に婚約を解消させていただろうな」
本当に、話し合いが足りなかったのだと痛感させられる。
――さっき、悪女って言ったじゃない。
目をそらすようにしながら絞り出した言葉は、まるで拗ねているようだった。
「俺の反応を見るための罠だと思っていたからな。そうでなかったとしても、姉上をそれ以外にどう表現しろと言うんだ」
反論は出来なかった。私がして来たことは、悪女以外の何者でもない。
――もう、良いわ。
もう何も聞きたくない。何も見たくない。
王子も男爵令嬢も見に行く気は失せた。私が手に入れることの出来なかった幸せを掴んだ二人を見たくない。
今なら、このまま消えることが出来るかもしれない。
「そういえば、姉上は勘違いしているようだが、姉上の死因はパンを喉につまらせた事による窒息だそうだ」
――何よそれ! 完全に自業自得じゃない!
ふわりと消えようとした私に追い打ちがかかる。何でそんないらない事をと睨みつけると、弟は愉しげにくつくつと笑った。
「言っただろう。意趣返しだと」
――意地悪ね、あなた。
「十年以上姉上にしてやられていたからな。このぐらいは許されるだろ」
それから二人で軽く笑い合う。声は出さずに、微笑むように見つめ合った。
──生まれ変わるなら、あなたの娘になりたいわ。
自分の体が空気に溶けていくような感覚に身を任せながら、最後の言葉を弟に向ける。
天からのお迎えは無かったけど、多分この感覚が成仏するという事なのだろう。
「俺は姉上の様な娘はもちたくないな」
しみじみと紡がれた言葉を最後に、私は消えた。