寝付けなかったその晩は
「違うの、違うの、お願い信じて」
背を向け出て行ったあいつに向かって伸ばした片手が空を切る。
茫然と立ちすくむしか出来ない私の手をいきなり掴んだ男一名。
「あんな奴より――」
ベットから身を起こし私の手を掴んだのは過去の抹殺したい男だった。
「あんたのせいよ」
私は掴まれた手を振りほどいて病人だろう男をゲンコツで殴ると慌てて部屋を出た。
先生、と叫びながら。
ちょうどその時、耳を劈くような電子音。
その出来事が悪夢のようで――って夢?
間違いない、パジャマ姿でベットにいる私。
なんてという夢をみてしまったのだろう。
恐ろしすぎる。
昨日のインパクトが強すぎて妄想が現実と混在しちゃったみたいな。
そう私は今しがたの夢の中でナース服を着ていたのだ。
私がナースなんてありえなさすぎ。
で、なぜか病室には昨日会ってしまった過去の男。
熱っぽいかもなんて言われてにっくき患者の頬に手を当てたどんぴしゃのタイミングにヤツが聴診器を首にかけてやってきまして――
私たちを見て「ふーん」と意味深な呟きをした後、冷たい視線を投げられて部屋をまわれ右したというシナリオ。
私は悲劇の主役のようにヤツに追いすがるという王道フラグ。
寝付けなかったのは認めるわよ。
久しぶりに重ねた唇に、勘違いしそうなメール。
勘違いを起こしそうなその出来事にいっぱいいっぱいだった昨晩の私。
それが吹き飛んじゃったくらい寝起きにどっと疲れてしまった。
どうせ見るなら夢の中くらいいい思いをしたいもんだっていうの。
追いすがるねー。
ありえないわ。
ありえなさすぎる。
過去の私からして、そんな行動を出来た試しがない。
あの江川の時だってそうだった。
というか、まともな? 相手は江川だけだったような気がしなくもないのだけどね。
微妙な過去を振り返り、先ほどまでの悪夢を追い払うように大きく伸びをすると、今日も頑張りましょうとばかりに両手で頬を軽く叩いた。
最近機嫌のすこぶる良い母上のプチっと贅沢なフルーツ付きの朝食を堪能出来るのはパラサイトシングルの最高の利点ともいえる。
朝起きて朝食が出来ているという当たり前の日常がどんなにか幸せだったのだろうと思うのは、よくあるマリッジブルーの要因らしい。
なるほど言えてる。
結婚したら、朝食は私が作らなくては食べられないのだという現実。
仕事を辞めるつもりもないのだからそれはそれ相応の負担となるのだろう。
わーい、やったー結婚だぁと浮かれるようなものだったならば少しは違うのかもしれないなぁなんて、また考えてしまうあたり、悲しいものだったり。
おっといけない、母さんが洗濯物を干している間に出かけなければ。
また余計な詮索をされるのは簡便っ。
鞄を掴むと玄関へとダッシュ、履きなれたローファーに踵を入れると、階上へと声を掛けて家を飛び出した。
いつも思う。
習性というのは恐ろしい。
何を考えるわけでもなく、そうしようと思ってる訳でもなく、勝手に足が進んでいく。
ほら、今日もまた気がついたら会社の最寄駅を降りていたり。
入社したての頃はどうにも気になった電車の中のいろんな香りの混じったあの嫌な香りだって、今となっては慣れの一言。
うんやっぱり恐ろしい。
「なーに朝から難しい顔してんだよ」
何時の間にやら隣に並んでいたのは我が部の課長。
「おはようございます」
棒読みになってしまうのはいろいろな思惑があるからだ。
まあ、専務やら常務が駅から歩いてくるなんて事はないだろうけど、いらぬ詮索は母だけで簡便願いたいものなのに。
「マリッジブルーってやつか?」
なんておどけて言われたって、痛くも痒くもないんだっていうの。
ちらりと横目でスルーするも、思い出したあのことを。
迷いに迷った事。
そういうものだと自分に納得させるまで時間が掛ったけど、順当だよなと。
「あのですね」
そこで言葉が途切れてしまうのは勇気がいるということで。
言葉が詰まった私の顔をじっと見つめられますと、余計に言葉が出づらくなるというものでして。
何処かの3流ドラマの役者さんのように、コホンとひとつ咳払いをして言ってみた。
「結婚式出て貰える?」と。
小首をかしげるオプションは勿論つけなかった。
突拍子もない話だっていう事は私が一番良く知ってる。
案の定呆気にとられた顔してるし。
気を取り直したらしい上司様は尤もな事を言ったのだ。
「お前は勿論だろうけど、ご両親は納得済みなのか?」と。
そりゃそうだ。
きちんと婚約をした訳じゃないけど、私と江川が付き合ってたのは親はよーく知ってる。
家に送って貰った時は必ずといっていいほど顔を出して行ったし、江川はうちの親受けはすこぶる良かった。
そう別れたことを知った両親の落胆したこといったらなかったのだから。
「ああ、その辺は大丈夫。なにせ直属の上司様だからそれとなく伝えてはあるんだ。確か元気なの?とか言ってたよ」
そうそれは本当の話。
複雑な胸中だとは思うけれど、いき遅れかけた娘が極上の獲物を捕まえてきたんだ余裕もでてくるってものなのじゃないかな。
「マジで?」
思いっきり素になってる江川がちょっとおかしかった。
「という事なので、ご祝儀たっぷりお待ちして宜しいでしょうか?」
そんな茶目っけたっぷりな私の言葉に
「なんだったら、スピーチしてやろうか? エピソードには事欠かないからな」
一瞬で立ち直った江川は笑えない冗談を言い放ったよ。
「それは遠慮しておきます。でもさっ」
言い淀んだのはやっぱり私の家の事情より、江川の家の事でして。
そんな私に、昔っから察しの良い江川はきちんと返事をしてくれた。
「俺の嫁さん、お前の事知ってるから大丈夫。俺信用あるし、愛があるから」
と満面の笑みで返すときた。
「では上司様、後ではがきを持って参りますので是非とも宜しくお願い致します」
そこまで話すとまるで計ったかのように会社のエントランスについた。
同じ部署に行くのに心なしか速足になって、人ごみに紛れていく私。
愛があるね……
この私にそこまで言える江川ってある意味無神経かと思う。
というか、昔の恋人を結婚式に招待する私の方がもっと無神経だと思う。
でもさ、やっぱり少しはバランスってものがあるよね、と。
招待客リストを思い出して、考える私がいた。
向こうは仕事を辞めたからさほど多くはないけど、呼ばなくちゃいけない人は呼ばなくちゃならないらしくて。
私の招待リストに会社の上司を呼ぶって選択は間違いじゃない。
うん、私はおかしくないよね?
これでも悩んだんだから、と脳内で呟く私がいた。