私の方が聞きたいよ
背中でタクシーの去る音を聞くと、私は玄関のドアを開けた。
待ってましたとばかり顔を出す母。
「どうだった?」
にやけた顔で一体何を期待しているのやら。
「最悪だった」
脱ぎ棄てたヒールが音を立てて転がった。
お気に入りだったそのヒールを揃えもせずに母の横を通りぬける。
きっと、母にも通じただろう私の機嫌の悪さ。
リビングのドアからは姉貴まで顔出しているし。
っていうか姉貴また帰ってきたのかよ。
後ろで母のため息が聞こえたけれど、私は無視を決め込んで階段を駆け上がった。
スーツも脱がずにベットにダイブ。
そっと口元に手をやる。
嫌じゃなかった。
寧ろ――。
駄目駄目駄目。
口元から手を払いのけ、頭を振った。
演技よ只の演技なんだから。
そう言い聞かせないと、私の中の何かが溢れてきそう。
もう恋なんて。
ずっとそう思ってきた。
真剣な恋をしていたと思っていたからこそ。
これ以上、裏切られるのが怖かったから。
好きなんてならない。
絶対好きになんか。
奴が私を助けたのは、借りを返したかったから。
偶然居合わせた私に、これ幸いにとあの時、勘違いした私への借りを返したかったから。
義理で送ってくれたタクシーの中ではっきりそう言われた。
気まずくなって、寝たふりをしたら本当に寝てしまった私。
告げた住所の近くで揺り起されて、家の前であっさりと別れた。
そう呆れるくらいにあっさりと。
そう。だから、これは事故よ。
もう二度と会う事なんて無いのだから。
見合いの事なんてすっかり記憶のかなたへ飛んでいた。
あの胸糞悪い高田への怒りは、あのむかつく男の唇が消し去っていた。
だから――。
忘れるんだって。
何度もそう思うけど、夢の中まで出てきたあいつ。
あの声で私を呼ぶあいつ。
好きになんかなりたくないんだってば。
寝ながら泣いていたのに気がついたのは、翌朝目覚めてから。
サイドテーブルに置いてある鏡に写った私の顔には落とさずに寝てしまった化粧の上を這うように流れた涙の痕。
幸い今日は日曜日。
不貞寝をするにはもってこいの雨の日だった。
「梨乃ーいつまで寝ているの」
そういって部屋のノックをしたのは姉貴だった。
「んー今日は寝て曜日だから」
タオルケットを顔の上まで引っ張り上げた。
ゆっくりとベットの淵に重みが掛る。
姉貴がまるで子供をあやすように私の背中を撫でてきた。
「何があったの? みんな心配してるんだよ。特に雅也が凄くてね。梨乃ちゃんをいじめる奴はぼくがやっつけるって意気込んでるわよ」
容易く想像出来て思わず噴き出してしまった。
「ほら、顔出しなって」
やっぱり姉貴なんだよなぁ。
昔っからそうだった。
姉貴の言葉は魔法のようだ。
だけど、この顔を晒す勇気はない。
「最悪だって? だったら、さっさとこっちから御断りの電話入れてやらなくちゃ、ねっ」
姉貴の言う事は尤もだ。これであいつから断りの電話なんて貰ったら私の汚点にしかならない。
私の落ち込みは違うところにあるんだけど……
それは言えっこなかった。
姉貴は、ずっと見てたから。
私が幸太、そう今は上司である江川幸太との一部始終を。
「梨乃ー電話よ。小川先生の奥さんからー」
階段下から母の声が響いた。
「あらら、先方さんから先に掛ってきちゃたか」
ギシっとベットが軋む音。
姉貴が子機を取りに行ってくれたのだと直ぐに解った。
あーあ、憂鬱でしかない。
今のうちにと、ドレッサーから化粧落としのペーパーを取りだして顔を拭う。
この年でこんな事したら肌に良くないって解っていたけど、昨日の晩は何も出来なかったのだから仕方がない。
顔を拭い終わったペーパーをゴミ箱に投げた時、姉貴が子機を持って再び部屋に入ってきた。
無言で手渡され、耳にあてた。
「もしもし――」
言葉の続かなかった私に、奥さんの甲高い声が耳に突き刺さった。
「梨乃ちゃんったら、水くさいじゃないの。芳人と付き合ってるんだったらはっきりそう言ってくれれば良かったものを」
ハイテンションで喋りまくられて私は相槌を打つ事さえも許されない様子。
というか奥さんこんなキャラだっけ?
私は子器片手に呆然とするだけで。
誰と誰が付き合ってるって?
で、奴はあの高田と従兄弟って言った?
私の知らない情報が次々と発せられていくけど、私にはキャパオーバーだ。
最後の言葉は聞き取れた。
「近いうち二人で遊びにきてね、絶対よ」
「はあ」
なんて気の無い返事をした直後、ツーツーツーという機械音。
あー忙しくなるわ。
なんて声が聞こえたような……気のせいよね。
私、その芳人という人の名字も知らないんですけど。
奥さんの声が大きすぎて隣にいた姉貴には丸聞こえ。
「梨乃、これはどういうことかな?」
そう言われたけれど、私の方が聞きたいんだってば。