おめでたい日
全くもう、母さんまで。
確かにあんなに料理を褒められたら悪い気分にはならないだろうからなぁ。
気合いの入ったスペアリブはヤツの舌に合ったようで。
何だかんだ呟きながらコンロを覗く私。
目下、烏賊のハラワタと睨めっこ中だったりしている。
初めは渋々だった父さんが胡散臭いアイツに乗せられて(?)追加の酒をと言い出した時を母さんが見逃さなかった。
半ば不貞腐れキッチンテーブルへと逃げ込んできた私を捕まえてハラワタの番をしろって。
いつもは焦がしたらと私には触らせない癖に。
こんな時だけ調子いいんだから嫌になっちゃう。
時折聞こえてくる楽しそうな笑い声に、複雑な胸中だ。
『父さん、母さん騙されてますよー、アイツは娘に不誠実な腹黒野郎ですよー』
と叫んでやりたい……なんて。
おっと危ない。
――プクっと端っこが最初に膨らんだこのタイミングを逃したらただの苦い食べ物だから――
これは母さんの呟きでして。
私にやらそうとはしないものの、勝ち誇ったように呟くんだ。
確か――味噌と醤油と味醂と……なんだ?
ハラワタの上に乗っかったこれがまた美味しいんだよね。
お酒のつまみには一番だって。
新鮮な烏賊が手に入った時の我が家の定番だったりする。
もっとも最近は私が夕食の時間にいないから随分とご無沙汰なのだけど。
「はいはーいお待たせしました」
テーブルの空いた場所に無造作にポンと置くと
「梨乃ったら」
と母さんの呆れ声。
そんな私に対しての声とは明らかに違うトーンで
「これ我が家のお勧めです、どうぞ召し上がってください」
と。
おいおいどこの女将だよ。と突っ込みたくもなる。
そでれもって
「これ梨乃が?」
なんて、特別スマイル付きなもんだから。
母さん悩殺してどうするのよ。
父さんも嬉しそうに笑ってるし。
「私は火の番をちょっとしただけだから」
またキッチンに引っ込もうと思ったけれど、コイツがさ。
ちょっと腰を浮かして私のスペースを確保なんてしてくれちゃって。
考えようによっちゃ私がいない方がおかしな場なんだけど。
どう見ても馴染んでるこの状態がなんとなく悔しくって。
会話も優しくて饒舌で礼儀正しくて。
見た目もね……うちの両親が気にするとは思えないけど職業もね。
完璧すぎる。
これでコイツを気に入らない人はこの世の中にどれくらいいるのだろうか?
って思ってしまう。
今だってほら、何気にお母さんなんて言ってるし。
母さん、だから嬉しそうに笑わないでよ。
父さんも、俺はあんたの父さんになった覚えは無いとか言わないのだろうか?
言わないだろうな……。
ちょっとだけ気を飛ばしていた私だけど、不穏な雰囲気というのだろうか。
ふいに会話がやんだ事に気がついたのだった。
隣のコイツが手を伸ばしお酒の入ったグラスをテーブルに置いたコツリという音を合図に父さんまでもが背筋を伸ばして。
母さんだけが意味有り気な笑みを残し。
直ぐ隣でふっと短く息を吐くのが聞こえた。
そして。
「お嬢さん――梨乃さんと結婚させて頂きます。幸せにしますのでどうぞ宜しくお願いいたします」
突然ソファからずれてカーペットに正座をすると頭を下げるではないか。
呆気にとられるとはこのことだろう。
唐突すぎる。
今このタイミングで言うものなのか?
マヌケな顔でポカンとしていた私に母さんがまたもや呆れ顔。
もっと呆けているのが父さんなのだけど。
あっでも私もだよね?
父さんが声を発する前にと私も隣に腰を下ろし
「宜しくお願いします」
一緒に頭を下げたのだった。
チラリ横目で隣のコイツの口角が上がっているように見えたのは気のせいだろうか。
この微妙に緊迫しているようなリビングに静かにすすり泣く声が。
恐る恐る顔を上げると、やっぱり父さん。
いつの間にか父さんと母さんまでがソファから降りていて、母さんが父さんの背中をさすっていた。
そしてズズっと鼻を啜った父さんが
「顔を上げてください。こちらこそ不束な娘ですがどうぞ宜しくお願いいたします」
そんな父さんを見て心の底から申し訳なく思ってしまった。
幸せになれないかもしれない。
幾重にも仮面を被った夫婦になるかもしれないんだ、よ、と。
まるで夢か映画を見ているみたいな感じがした。
この主人公は私であって私でないのかもしれない。
父さんの言葉を聞いてふーっと長い息を吐くとありがとうございますと言うコイツ。
そして、私の顔を見てニコリと笑うコイツ。
これが演技なのだから、人の心とは解らないものだよ。
そしてその笑みを見て、自然と顔を赤らめほほ笑んでしまう私も。
既に振り回されている私がこれからもそうなることを確信してしまうには十分の破壊力。
私の気持ちが立ち直れないくらい壊れてしまう事がありませんように、そう願わずにはいられなかった。
「本当に何も仕込んでこなかったので申し訳なくて。若くもないし、取り柄もない子ですがどうぞ宜しくお願いしますね」
そんな自虐的なお願いをした母さんに
若くないと取り柄が無いとは余計でしょ、と鋭い視線を投げた私。
「いえ、私には勿体ないくらい素敵な人です梨乃さんは。職場も変わって余裕のない私が梨乃さんに呆れられないように頑張ります」
と。
アンタは一体誰なんだー。
そう叫びたくて叫びたくて。
「もう芳人さんってなんて良い人なのかしら。ほらほら、折角のハラワタも冷めちゃったわ。挨拶も終わった事だし、さっきの続きといきましょう。はいお父さんも」
母さんはすこぶる上機嫌で父さんとコヤツにお酒を注ぐ。
父さんの涙は早くも引っ込んで
「そうだな、おめでたい日だから飲まないとな」
なんて。
で、隣のコイツに至っては
「これ本当に美味しいですね。これとさっき頂いたスペアリブはしっかりお母さんに教わって貰わないと」
と烏賊のハラワタを頬張りながらそんな事を言う始末。
――教わるのはそれだけで、いいんですね。――
今日の私は言葉の飲み込み過ぎでお腹がいっぱいになりそうだよ。
それにしても
結婚させてください、じゃなくて
結婚します
と言い切ったコイツ。
ほんと何処まで行っても俺様だ。
父さんも喜んでないで、そんな奴とは結婚許さないぞーとか言わないものなのか。
楽しそうに酒を注ぎ交わすこの光景を見ていたら――有るわけないよなぁとまたもや言葉を飲み込んだのだった。